仙北小野寺氏嫡流
一文字に六葉木瓜



秋田県横手城内にある
『小野寺氏彰徳碑』(作者撮影)







【概説】


秀道の六男経道を始祖とし、仙北稲庭(秋田県雄勝郡稲川町)の地に入る。
忠道から泰道まで、歴代当主の史料の裏付けが無く、系図の信憑性に疑問も生じる。






【仙北小野寺氏系図】(系図4−1)




                                      

小野寺道有が築き、輝道が改修されたと伝わる出羽横手城。石垣の代わりに韮を植えたことから韮城ともいわれる。
(作者撮影)


横手城より市街地を望む。中央に流れるのは横手川(作者撮影)






人 物 列   伝
経道
(1212〜1273)
仙北小野寺氏初代。小野寺六郎・出羽守と称す。三浦泰村の二男。三浦(沼田)景泰。出羽国大泉庄(山形県鶴岡市)より出羽国雄勝郡稲庭(秋田県雄勝郡稲川町)に移住する。文永十年(1273)閏八月十四日に没。享年六十二歳。法号寂然。
忠道
(1249〜1293)
経道の子。孫次郎・中務大夫と称す。永仁元年(1293)四月七日の地震によって没。享年四十五歳。法名は道鑑。
道直 ( ? )
経道の子。西馬音内を与えられ、西馬音内道直と称す。
道定
( ? )
経道の子。湯沢の地に入り、湯沢三郎を称す。
道有
(1269〜1307)
忠道の子。孫太郎・弾正少弼と称す。雄勝・平鹿・仙北三郡の庄主。朝倉城(秋田県横手市)は正安三年(1301)に道有の築城と伝わり、のちに小野寺氏の本拠地となった。徳治二年(1307)六月二日に没。享年三十九。法名は見星院。
信道
(1278〜1326)
忠道の子。孫次郎・遠江守と称す。兄道有に子がなかったため、その跡を継ぐ、正中三年(1326)二月十九日に没。享年四十九歳。法名道鉄。
女子 ( ? )
忠道の子。高井十郎の妻
道政
( ? )
忠道の子。本堂駿河守と称す。
高道
(1297〜1367)
信道の子。孫次郎・右京亮と称す。正慶二年(1333)の小田原合戦において、長谷部を討ち取ったと伝わる。貞治六年(1367)に没。享年七十一歳。法名自照院。
道勝
( ? )
信道の子。戸沢因幡守と称す。
道珍 ( ? )
信道の子。神宮寺藤七と称す。
時道
( ? 〜1380)
高道の子。母は伴綱忠の娘。孫八・宮内大輔と称す。康安五年(1365)に仙北杉ノ宮に小荒神社を建立。康暦二年(1360)正月八日に他界。道号日高。
道當
( ? )
高道の子。馬倉能登守と称す。
道守
( ? )
高道の子。樋口弥五郎と称す。
春道
( ? )
時道の子。孫八と称す。早世という。
春光
(1350〜1407)
時道の子。孫次郎・玄蕃頭と称す。兄春道の早世により家督を継ぐ。至徳三年(1386)に矢島光時と合戦の時、玉米郡(秋田県由利郡東部)を切り取る。応永十四年(1407)五月二十二日死去。享年五十八歳。春光寺に葬られる。
氏道
(1366〜1425)
春光の子。藤太郎・従五位下・駿河守と称す。母は白川氏。応永三十二年(1425)四月十二日鎌倉で死去。享年六十歳。法名道儀。
氏継
(1386〜1455)
春光の子。因幡守と称す。兄氏道に子がなかったため、跡を継ぐ、康正元年(1455)に死去。享年七十歳。法名道傑。
道栄
( ? )
駿河今川安楽寺住侶。
泰道
(1403〜1477)
氏継の子。孫次郎、従五位下、中務大夫と称す。長禄二年秋田泰頼と南部三郎の旗下となる。家臣の佐藤式部少輔忠継の知略により寛正六年(1465)から応仁二年(1469)までの4年間、南部氏と戦い、領土を回復した。横手に正平寺を建立。文明九年(1477)十二月六日死去。享年七十五歳。法名 大教院。妹は田村庄司に嫁ぐ。
景道
(1449〜1495)
泰道の子。孫次郎・玄蕃頭と称す。沼館城(秋田県平鹿郡雄物川町)に住む。明応四年(1495)の小田原合戦に加勢し、討死。享年四十七歳。法名道円。
晴道 ( ? 〜1514)
泰道の子。善次郎・中務大輔と称す。故あって家を継ぐ。のちに出家して松月斎と称す。永正十一年十二月二十一日死去。法号翰林院
道周 ( ? )
鍋倉石見守と称す。
道高 ( ? )
大森長門守と称す。
惟道
( ? 〜1546)
景道の子。龍保丸・中宮亮と称す。従五位下、伊豆守。母は西馬音内道舜の娘。京都に上り将軍家へ奉公していたという。その間、晴道が代官として領地を支配した。下国後は横手城に入ったという。天文十五年(1546)五月二十七日に自害。
女子 ( ? )
遠藤盛康の妻。
道秀
( ? )
惟道の子。孫三郎と称す。金沢城主。
輝道
( ? )
遠江守と称す法名天仙宗真。
眤道 ( ? )
肥前守と称す。西馬音内城主。小野寺落城の際、義道のために命を落とす。その子は戸沢氏に仕官し、山内と改名する。二男六郎左衛門、新庄を去り、旧臣黒沢氏を頼り秋田佐竹家に仕える。
義道
( ? )
輝道の子。孫十郎・遠江守と称す。関ヶ原合戦の時出陣せず、徳川家康の怒りを買い、石見国に流罪、配所にて死去。
康道
( ? )
輝道の子。孫五郎と称す。大森城主。兄義道に従って流刑となる。