【概説】 |
三春藩士小野寺慵齋を祖とする。 兵学の心得があった慵齋は土浦藩士若林監之助の推薦により、土浦藩土屋氏に兵学の教授として招聘され仕えた。 |
【小野寺慵齋公の墓】 |
墓石には「慵齋野處士之墓」と彫られている。 土浦市神龍寺 |
人 物 | 列 伝 |
慵齋 | (1792〜1861) 兵学者。元三春藩士、若林監之助の推薦で土浦藩に招聘された。土浦藩の兵学は郁文館で月三度の講義が行われ、大久保要─若林監之助─小野寺慵齋─若林監之助と引き継がれた。慵齋は安政七年(1860)三月三日の桜田門外の変に関係し、事件の陰の参謀の一人といわれる。しかし、当日熱病にかかり参加できず、文久元年四月十二日土浦の藩邸で自刃。土浦藩主土屋寅直の特命により手厚く葬られたという。享年七十歳。墓所は土浦神龍寺。 |
倒れた灯籠 | 彫られた文字 |
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表面 「奉燈」 側面 「土屋家御袖助並有志之寄 金ヲ以テ明治三十八年十月 十五日墓所修築ノ永代 香花料金五圓神龍寺エ納 発起 門人 藤井重遠 黒岩行水」 |
人物 | 列 伝 |
藤井兵治 | (一八二九〜一九〇八) 藤井家は彦太夫の時に土屋家に仕えた。その後、彦太夫(元文三年八月一四日病死、七五歳)、弥七(安永四年一二月一〇日隠居)、小野右衛門(寛政四年三月二四日隠居)、弥七(寛政一〇年正月七日病死)、小野右衛門(天保一四年閏九月一三日病死)、嘉内(嘉永三年五月二〇日病死)、兵治(明治四一年六月二〇日病死、八〇歳) まで代々土屋家に仕えた。兵治の父は藤井弥兵衛で次男。藤井夏造の弟。はじめ若次郎と称した。名は重遠といった。 嘉内の養子となった。弘化三(一八四六)年四月に第一〇代藩主土屋寅直にお目見後、 一一代挙直まで二代の藩主に仕えた。その間、中小姓見習、中小姓番入、昼詰、馬廻列などに任ぜられた。待遇は九五石。武道教育関係では、嘉永二(一八四九)年五月一五日に宝蔵院高田派鎗術目録、嘉永六(一八五三)年一二月二五日に宝蔵院高田派鎗術免許、 嘉永七(一八五四)年九月一五日に炮術免許をそれぞれ済ませた。 嘉永五(一八五二)年九月三日に「炮術出精弐百五拾目玉」を打った。 安政二(一八五五)年五月一七日に「武術執心平日出精ニ付御目録金三百疋」を下された。 明治四一(一九〇八)年六月二〇日に八〇歳で病死した。常名台調練場の傍らの並木共同墓地に葬った。 (『土浦藩の先生たち』−武館を中心に−四 石塚 眞 筑波書林 1989)より |
黒岩鉄之允 | (一八三八〜一九〇九) 父は東五郎。はじめ元吉、長じて勝五郎、さらに膳蔵と称した。名は元愆といい、 のちに行水と改めた。嘉永二(一八四九)年三月に第一〇代藩主土屋寅直にお目見後、 一一代挙直まで二代の藩主に仕えた。その間、中小姓見習、番入、甲冑製作并武器細工掛、 馬廻格などに任ぜられた。待遇は金八両、三人扶持。武道教育関係では、安政三(一八五六)年五月一五日に直心影流釼術目録、安政六(一八五九)年一二月二九日に八條流馬術目録、宝蔵院高田派鎗術目録、文久元(一八六一)年四月五日に直心影流釼術免許をそれぞれ済ませた。明治四二(一九〇九)年九月三日に七二歳で病死した。新治郡真鍋村善応寺に葬った。 (『土浦藩の先生たち』−武館を中心に−三 石塚 眞 筑波書林 1988)より |
【土浦藩校郁文館】
郁文館正門 | 解 説 |
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土浦藩の藩校 郁文館の名称は、第七代藩主土屋英直が名付けたもので、はじめは土浦城内に置かれていた。天保十年(1839)第十代藩主、土屋寅直の時、ここに新築して移った。一名、文武館ともいい、文館と武館にわかれており、学者として有名な藤森弘庵や剣客の島田虎之助が指導にあたっていた。 その後、明治・大正時代にも洋学校化成館、新治師範学校、土浦高等小学校の校舎として使用されたが、昭和十年(1935)に取り壊され、この正門だけが唯一の遺構となった。解体復元工事に当たり、地盤沈下による建物の不同沈下防止のため地面下の基礎はPC杭で支持した。また、調査の結果、木材表面に酸化第二鉄(ベンガラ)を検出したことから、赤門に復元した。 平成元年三月 土浦市教育委員会 『案内板』より |
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