思い出の写真から
〜 アメリカ編 〜
1996年夏 チリ
チリまでの道のりは長かった。 チリの首都サンティアゴまでは、USA経由で行くのが普通だが、 チケットが入手できず、ヨーロッパ周りとなってしまった。 当時成田から飛んでいたイベリア航空で、 モスクワ-マドリード-リオデジャネイロの空港を経由して やっとサンチアゴへ到着したのだった。 途中の空港の滞在時間はせいぜい1〜2時間程度で あとは飛行機に乗りっぱなしだった。 成田-サンチアゴ間は37時間と記憶している。 |
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6月のサンティアゴは寒かった。 街の風景はなかなか綺麗なものの、これといってあまり見所はない。 また街が大きいだけに人々がドライな感じがする。 街の中心部から見て北東部に、サンクリストバルの丘がある。 その丘の頂上には聖母像が建っている。 丘の麓から聖母像まではケーブル鉄道を使用した。 |
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↑サンクリストバルの丘の聖母像 |
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丘からサンティアゴの街を見下ろした。 高いところからの眺めは確かに素晴らしかった。 ただ、靄(あるいはスモッグ?)が少しかかっていたのが残念だった。 繰り返しになるが、6月のサンチアゴは寒かった。 もう少し北に行けば少しは寒さが和らぐだろうと思った。 南北に長いチリで一気に北へ行くのは疲れるし、もったいない。 まずはサンチアゴからちょっとだけ北へ進んだ『ラ・セレナ』という都市へ行くことにした。 "ちょっとだけ北"といっても長距離バスで7時間もかかるところなのだ。 これから先、チリの旅行は長距離バスを使うことになるが、 7時間なんてまだいい方なのであった。 だが、チリの長距離バスは2等車でも乗り心地が良かったので、それが救いだった。 そして、ラ・セレナに到着した。 ここで宿泊したホテルは『Recidencial Brasilia』。 一方、サンティアゴで宿泊したホテルは『Recidencial Londres』。 それぞれホテルの経営者がブラジリア(Brasilia)やロンドン(Londres)から来た人と言うわけではなく、ホテルの建っているストリートの名前である。 サンティアゴ付近では都市名を名前にしているストリートが多いが、 そのストリート名を名前にしているホテルもまた多いのであった。 『Recidencial TOKIO(Tokyo)』なんてあったら面白い。 また『Hotel 〜』というところを『Recidencial 〜』と名づけるところは、チリの特徴である。 チリに来るまで『Recidencial 〜』なんていうホテルに泊まった経験がなかった。 |
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↑ラ・セレナのメルカード |
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ラ・セレナのメルカード(市場)は他のラテンアメリカのものと比べ、 清潔で、広い中庭もあっておしゃれな感じだった。 ここのメルカードの食堂で注文したシーフードスープは美味しかった。 メルカードを歩いていると、多く立ち並ぶ店の店員から 私を呼び止めようとする声がよくかかる。 私を呼びかける声に「ムッシュー」というのがあった。 「ムッシュ」はスペイン語ではなくフランス語だ。 そう言えば、ココで宿泊している『Recidencial Brasilia』でも 私が初めて訪れたときにホテルのおばさんから 「フランス語、話せる?」と聞かれた。 「英語、話せる?」とは聞かれなかった。 この町では 『外国人=フランス人orフランス語話す人』 という図式があるのかもしれない。 ホテルのフロントに『注意書き』が書かれていた。 その『注意書き』は3ヶ国語で書かれていた。 一番上にはもちろんスペイン語で 二番目には英語ではなくフランス語で 三番めでやっと英語がでてきた。 確かにチリには多くのフランス人が訪れているようだった。 |
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上の写真は、日本のものではない。 この町の公園である。 ただこの公園に訪れている人が殆どなく、ちょっと寂しかった。 さて、この静かで落ち着いた町をあとにして、もっと暖かい北を目指すことにした。 その前には長い砂漠(アタカマ砂漠)が待ち構えている。 砂漠のほぼ真ん中に『アントファゴスタ』という都市がある。 アントファゴスタは、長距離バスの長い旅でやっと一息入れられる都市である。 しかしその都市まではバスに13時間乗りっぱなしになる。 今度はかなりキツそうだ。 バスに乗り続けやっとアントファゴスタに到着した。 |
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↑アントファゴスタの広場 |
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これといって見所はないが、長距離バスでのチリ縦断旅行者にとっては、 旅の疲れを癒す休憩所的な都市である。 砂漠の真ん中にこの都市がなかったら、 バス旅行は死ぬほど辛いものになってしまいそうだ。 砂漠のど真ん中にあるだけあって、空は青くてすがすがしい。 さて元気を取り戻し、次の都市イキケを目指した。 再びバスに乗った。 − ああ、またバスの苦痛な長距離移動が始まるのかぁ...。− 「ねえ、どこから来たの?」 「え、俺っ? 日本からだよ。」 バスで私の席の隣に座っていた女の子だった。 (他のラテンアメリカと違い)チリでは、 見知らぬ人から殆ど話し掛けられたことがなかったので、 話し掛けられたことは意外だった。 彼女は看護大学を卒業したばかりの女性だった。 確か12時間くらい乗りっぱなしのバスの旅であったが、歳の近い話し相手ができると楽しくなる。 「日本では人が死亡するときは何の病気が一番多いの?」 「へっ?」 「チリではね、脳のXXX(←たぶん脳卒中だと思う)なのよ。」 看護婦らしい話題だった。 − 日本人の一番多い死亡原因? ...多分、癌かな。 − − でも癌ってスペイン語で何て言えばいいのかわからない。− 「スペイン語の病名わからない。」 「じゃ、英語では?」 「えーっと...英語でなんて言ったっけ。」 「思い出せない。」 「じゃ、日本語では?」 「癌だよ。(多分。)」 「GANって発音するのね。」 「わかった! それきっとCANCERのことよ。発音似てるでしょ。」 あとで辞書を引いてみると彼女の言ったとおり、癌はスペイン語で『CANCER』だった。 彼女はそんな勘のよく働く人だったので、私のスペイン語はカタコトだったにも拘らずいろいろな話ができた。 彼女はこの国・チリのことをいろいろ話してくれた。 「このあたし達の国ではね、コブレ(cobre)がたくさん採れるの。」 「コブレって?」 「んーとね....。 そうだ、『Cu』よ。 『Cu』。」 「C....U....? ああ、わかった『Cu』、銅か!」 彼女は、銅を表現するのに元素記号を持ち出したのだった。 なるほど、元素記号は世界共通なんだ。 勘を働かせたり上手く工夫したりしたことで貧弱な語彙はカバーできる。 また、なかなか伝えるのが難しいことを何とかして、 伝えようとするのは楽しいものだ。 私にとって、これこそラテンアメリカの旅行らしさなのだ。 「ちなみにね。隣国ボリビアではplata(銀)が採れるの。」 「それは知ってるよ。有名だよ。」 「日本じゃ、何が取れるの?」 − うーん、日本で何が採れるんだろう。− − 何か輸出できる鉱物資源ってあったかなぁ?− 「日本で採れるもの、あんまりないと思う。」 「あっ、そう。それじゃ...。」 「...前にメキシコや中米をいろいろ旅したんでしょ。」 「そこの国では何が採れるの?」 「メキシコはplata(銀)だったと思う。」 「へぇー。 他は?他は?」 「うーん、何だろう。」 「メキシコはplata(銀)で...そうだ、ホンジュラスはplatano(バナナ)が採れる。」 「キャハハハハ。 platano(バナナ)が採れるの?」 苦し紛れのplatanoが異常にウケてしまった。 鉱物の話題を急に農作物に変えたことが可笑しかったのか、 plata と platano のダジャレを理解してくれたのか。 それはわからない。 彼女は日本のアニメ・ファンだった。 「あたしね。日本の "La Reina De 1000 An~os" の大ファンなの。」 「La Reina De 1000 An~os って、...『1000年女王』かぁ。」 「日本じゃね、『1000年女王』よりも、 同じ作者の『スリー・ナイン』の方が人気あったんだよ。」 「俺が子供のときのことだったけど。」 「『スリー・ナイン』ってヌエベ(9)が3つ続く名前の奴。」 「あっ、知ってるー。」 「スペイン語でなんていうの? 『トレス(3)・ヌエベ(9)』かな?」 「『ヌエベ(9)・ヌエベ(9)・ヌエベ(9)』っていうの。」 − あんまりカッコよくないネーミングだ。− 「あなたはどんなのが好きだったの?」 南米を舞台にした漫画を頭の中で探してみた。 すぐ思いついたのは『母を訪ねて三千里』だった。 「えーとね、一人の少年マルコがね...。」 「わぁ、マルコ! マルコね。 知ってるぅー。」 「えっ、じゃぁ、スペイン語でそれなんていうの?」 「Marco Buscaba A Su Madre(マルコ ブスカーバ ア ス マドレ)って言うの。」 「うるさいぞ! いいかげんにしろ!」 前の席の人に注意された。 もう夜になっていた。 このチリでは、人と話す機会の少ない孤独な旅をしてきたので、 今までの分を挽回するくらいおしゃべりを楽しんだ。 おしゃべりはこの辺にして、その日は就寝することにした。 彼女は、実家のあるカラマという町の付近でバスを下車。 私は、イキケで下車した。 |
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旅の途中で(Top Page) |
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