独法化問題をめぐるイデオロギー 豊島耕一(佐賀大学) (2001.11.30)

 

http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/ideology.html より

 

破   天   荒      
-- 変えるべきもの 守るべきもの 創るべきもの --
2001年度 明善大運動会スローガン)


独法化問題をめぐるイデオロギー

Ver.1.4 (2001.11.30)
佐賀大学教職員組合ニュース No.36(01年11月29日)に掲載(バージョン1.2)

佐賀大学 豊島耕一

物理の人間によるイデオロギー論などはだれにもまともには受け取ってもらえないと思うので,是非とも専門の方に徹底批判なり何なりフォローをお願いします.専門外の事なので,たとえどのようにけなされても落ち込むことはありません.

国立大学の独法化問題については,他の政治的アジェンダに対する反応に対比して,一般の知識人だけでなく国立大学内部でもこれを重視したメディア等での反対発言が少な過ぎるように思われる.しかも知識人の相当のパーセンテージが所属するであろう国立大学において,みずからの職場のありかたについての問題であるにもかかわらずこのような情況にあるというのは,私にはどうにも理解しがたいことである.その理由を考察し,少しでも阻止運動の助けになることを期して,以下の分析を提案したい.

1.反対派自身の問題 (a)--- 独法化を民営化への「単なる」ステップととらえているのではないか?

 反対論の中にも,これを教育基本法憲法との関わりで論じる割合は未だに少ないし,これらに言及する場合でもいわば「儀礼的」なものに止まっているようだ.憲法にかかわる問題,しかも自分の職場が直接関係する「憲法問題」に,国立大学のいわば「進歩的」著名人が鋭い反応を示さないというのは大きな謎である.おそらくこれが憲法問題であるとは,すなわち憲法23条の「解釈改憲」であり,それと密接した教育基本法10条の実質改訂とも言える問題であるという認識がなされていないのではないだろうか.

 このような態度の背景には,この問題を「新自由主義」イデオロギーの文脈でだけ,あるいはこれをほとんど支配的な要素としてとらえるという姿勢があるのではないかと思われる.つまり今日の支配のもう一つの重要な要素である「国家主義イデオロギー」を軽視しているのではないか,ということである.「新自由主義」のテーゼは「小さな政府」であり,それが国家統制などを打ち出してくるはずはないし,かりにあったとしてもそれは「マージナル」なものであろうというわけである.このような見方からは独法化が持つ国家統制の危険性は重大なものとしては受け止められないだろうし,「解釈改憲」との危機感も生まれにくいであろう.

 一ツ橋大学の渡辺治氏による「憲法『改正』は何をめざすか」と題するブックレット(1) は,九条問題を中心にした網羅的かつ鋭い分析として多くの人に読まれるべき優れた文書だと思う.しかし改憲のイデオロギー的な動機をほとんど「新自由主義」のみに求めているように思われる.国家主義への言及は小林よしのり等在野の「ネオ・ナショナリズム」だけしか俎上にあげられていない.しかし「官」による国家主義イデオロギーの布教と強制は,おそらく世界に冠たるイデオロギー官庁である文部科学省*を中心に系統的かつ強力に,そして休むことなく推進されているのである.このことがいわば日本的特徴としてもっと重視されるべきであろう.強力な軍隊は「新自由主義」だけでは支えきれないはずだ.

 もちろんこれは日本だけの話ではない.しかし例えばアメリカでは,伝統的な軍事国家としてのイデオロギーと文化の体系は,一度も本格的に否定された経験のない無傷のミリタリズムとして,そしてこれを戦前からの確固たる資産として保有しており,あらたにメンタルな「インフラ」として整備する必要はないのである.これに対して一度全面否定された我が国ではそうはいかず,どうしても再構築が必要なはずである.

2.反対派自身の問題 (b) --- 「ガッツ」ないしエンパワーメントの問題

 これは知識人にありがちな職業病的な傾向かも知れないが,社会現象を単にobjectiveな対象と見なし,自分はそれを観察し,評価し,予測する,という限りにおいてだけしかこれにかかわらないという態度も見られるのではないか.(しかしそのような人でもなぜか自分の属する狭い社会,例えば講座や教室のことなどになると決して黙ってはいない.)このような態度は民主主義とは,特に国家のスケールでの民主主義とは相いれないものであることに気付くべきだろう.

 このような態度はまた,ガッツ(guts)とか気概といった言葉を「精神主義」と見なしがちで,そのような気風が蔓延していることも運動の停滞の大きな原因ではないだろうか.イデオロギー化した科学主義と言ってもいいだろう(2) .しかし人間社会に起きる変化においては,少数の集団であってもそれが持つ士気の高さ,ガッツという要素が担う度合いは決して少なくない.運動は「数」だけではなく,(数×ガッツ)の積分によって推進されるのであり,またそれ自身が非線形に再生産され発展するものだとの認識が重要である.これこそが科学的な見方というものだろう.

3.体制派の問題 --- シニアおよび中堅世代の「挫折」と「転向」

 現在の管理者層を構成する60歳前後の世代は「60年安保」を,そして準管理者層ないし中堅層を構成する50歳代は,ベトナム反戦,「70年安保」,そして大学紛争をその青春時代に経験しており,それなりに社会や政治への関心を開かせるのに十分な社会環境があった.単に事件があったというのではなく,それに対しての大衆運動など集団的な係わり合いが確固として存在した,という意味での環境である.そして実際に多くの人々が何らかの実践に関与してもいる.(それに比べてポスト紛争世代が社会問題にみずから関わりを持とうとすることが相対的に少ないのは統計的にやむを得ない.)

 しかしそれらの世代の一部はみずからの重要な経験を「挫折」の言葉で単なる青春の感傷に変えてしまったのではないだろうか.また一部の人たちはソ連の崩壊とともにかつて心に抱いた全社会的ないし地球的スケールの理想までも清算してしまったかのようも見える.そしてそれらの人々にとっては現在の社会には重大な矛盾など存在せず,民主的に形成されているはずの政府とその官僚らといかにうまくやっていくかという事が中心テーマとなってしまったようである.(実際,東欧・ソ連の崩壊と時期を同じくして社会体制に対する批判精神の社会的積分値が大きく減退しているのは世界的現象のようでもある.)

 このような態度は,遡ってそれらの人々が描いた理想を単なる「若気の至り」だったり,あるいはソ連への信仰にすぎなかったということにしてしまうのではないか,つまりみずからの過去を貶めることになってしまうのではないだろうかと思う.というのは,個人の道徳心に根ざした理想ではなく,単なる青臭さやあるいはイデオロギーの表現でしかなかった,という様に過去を「再定義」してしまうと思われるからである.

 しかし現実をよく見ると,この世界には重大な矛盾が存在しないどころではない.冷戦が終わったにもかかわらず大量の核兵器が存在し配備され続けている事はその矛盾の象徴である.では矛盾解決の指針とすべき理想が消え失せたのだろうか?そんなことももちろんない.「世界人権宣言」はグローバルかつコンスタントな「スタンダード」であるが,今なおまだその達成からは程遠い目指すべき理想として存在しており,心ある人にとっては使命感や義務感をかき立てる主題としての輝きを失ってはいないはずだ.

 したがって,かつての社会問題への関心と関わりとを上のように全面否定するのではなく,それらを今日的に「グローバル」に再定義し,その文脈で国内の諸問題をも分析し直すことを提起したい.そして民主主義とは「永久革命」の制度化であったことを思い起こし,そのプロセスが阻害されないための社会的工夫や運動に関心を向けてもらいたいと思う.そしてそのような視点で独法化問題や「大学構造改革」問題も捉えなおすべきであろう.

4.一般的共通問題 --- 封建的イデオロギーに対する免疫反応の活性化

 次に私は「反儒教キャンペーン」を唱えようとしているが,これを不思議に思われる方が多いだろう.たしかに公式の文書ではだれも儒教や孔子などをあからさまに引用したりはしない.中教審にも大学審にも論語は出て来ない.しかしそれらが産出する膨大な文字列に「権利」の二文字が一切,あるいはほとんど出現しないということに実はその「儒教精神」が現れているのである.(実例はこちら)

 もちろん旧来の封建的なイデオロギーは儒教だけに結びついたものではないだろう.しかし若い世代にも「先輩・後輩」という言葉が根強く生き残っていることに象徴されるように(孟子の「長幼の序」),旧来の封建的文化は今日でも重要な役割を果たしており,その中で儒教の占める地位は小さくはない.これに何らかのラベルを付けることによって「可視化」しない限り,これを退治することも出来ないのである.ちょうど免疫システムにおいてマクロファージが侵入者のたんぱくの一片を「抗原提示」するように,日常生活の中に現れるこの古代・中世からの病原体の断片を常に提示する必要がある.この提示の役割をするものは言葉であり,その実体に最も近似するものとしての「儒教イデオロギー」という言葉を提案したいのである.

 日常生活では見えにくいかも知れないが,多少なりともフォーマルな「会議」ともなれば,参加者の儒教的行動パターンがだれにも容易に観察できるはずだ.そして権威を持って社会を支配するのもこの種の会議なのである.例えば沈黙を美徳とする風習は教授会(おそらく国大協総会も?)における出席者の行儀の良さに大きく貢献しており,これは論語の「巧言令色鮮なし仁」にその責任の一部を負わせられよう.すべてを支配する管理者の方針はしばしばこの「沈黙」によって認証されたものである.

 「儒教イデオロギー」のコロラリーとして「忠臣蔵イデオロギー」や「水戸黄門イデオロギー」も提案したい.前者は「藩」あるいは「学部」のような小さな集団への忠誠を普遍的な価値---例えば「学問の自由」---よりも上に置くという,いわゆる「生き残り論」に貢献している.また後者の不断の供給源は同名のテレビの永年番組であるが,これが視聴者の意識下に毎週送り込むメッセージは「権力は究極的には善である」というものである.どちらも「法の支配」の理念や民主主義にとって有害なものである.

 決して良い記憶ではないが,儒教批判と称してかつて中国で「批林・批孔」のスローガンが使われた.リズム感は悪くないので,もしこれを借用するとすれば「林」の代わりに誰を入れたらよいかを考える必要がある.韓国では儒教批判の本(3)が大量に売れているとのことだが,我が国ではこの分野はまだ緒に着いたばかりである(4).今後の発展が望まれる.(2001.11.26,2002.1.21. Ver.1.5)


(1) 岩波ブックレットNo.547,2001年10月
(2) 加藤周一著「私にとっての二〇世紀」(岩波)の72ページあたりにこの問題で興味深い記述があります.
(3) 邦訳:金経一,「孔子が死んでこそ国が生きる」,千早書房,2000年.
(4) 浅野裕一,「儒教 ルサンチマンの宗教」,平凡社,1999年

*「さざれ石」は文部科学省の中庭に実在するらしい.