橋爪氏の朝日新聞寄稿文

 

・朝日新聞(東京版)2002-8-12より

 

問われる「公共」のあり方 長野県知事選を前に 橋爪大三郎

 長野県知事選が15日に告示され、田中康夫前知事を含めての選挙戦がスタートする。県議会による不信任決議という異例の事態がもたらした選挙が、日本の政治風土でどのような意味をもつのか、社会学者の橋爪大三郎氏に分析してもらった。

 就任から失職するまでの一年八カ月あまり、田中康夫知事の政治姿勢が一貫していることに、私は強い印象を受ける。

 自らを《長野県の"パブリック・サーヴァント"》と規定し、《現場主義の実践》を進めた。どの村にも足を運び、幾度も車座集会を開いた。「ようこそ知事室」「どこでも知事室」など県民の声に耳を傾ける機会を増やし、《情報公開・説明責任・住民参加…が…ごく当たり前のことになる社会》を実現しようとした。ここまで徹底して、民主主義の手続きを重視した知事はいなかった。

 田中知事のアイデンティティーは、政策そのものより、その手法にある。田中氏の政治手法を、テレビと戯れる《知事タレント》と評する人びとがあるが、私はそうは思わない。たしかに田中氏はテレビやメディアに慣れているが、その限界もわかっている。だから車座集会で、県民と直接に言葉を交わすことを重視するのだ。

 車座集会の田中知事は、とにかくよくしゃべる。そして、植林の間伐からスキー場の赤字、通学区の問題まで、どんな質問にも丁寧に答える。政治の基本が、言葉のやりとりだということを、よくわかっている。ここまで民主主義の《デュー・プロセス》(正当な手続き)にこだわるのは、革命的なことだと私は思う。

 香山リカ氏は、かつて田中氏が作家として著した『いまどき真っ当な料理店』という本に注目する。雑誌の取材費でなく、自腹で客となったレストラン・ガイドだ。《自腹主義の田中氏の"真っ当感覚"》が、従来型の政治システムと衝突したのだと、香山氏は診断する(『論座』9月号)。

 天野祐吉氏は、県議たちが信濃毎日新聞ほかに出した意見広告を、《コンクリート人間と脱コンクリート人間の対立》と評する(『広告批評』8月号)。一方的な言葉の押しつけである意見広告に対して、つねに批判にさらされる記者会見や車座集会。対極的なふたつの姿勢だ。

 「脱ダム宣言」で公共工事の見直しを進めた田中氏のバックボーンは、「公共」とはこういうものだという新しい信念だと思う。税金を使った政府や自治体の活動は、「公共」と呼ばれる。だが「公共」の実質は、ふつうに生活し税金を納める人びとである。県民の意思から遊離するなら、税金を使った活動ももはや「公共」のものではありえない。金の流れ、言葉の流れを、県民の意思にもとづいて編み直そうというラディカルな試みが「脱ダム宣言」であり「脱記者クラブ宣言」である。言葉のプロである作家の本性が、ここに生きていると思う。

 田中氏の目に、これまでの政治は、なるべく納税者の意思から距離をとり、そこに権力のうまみをひき出そうとするものに映ったに違いない。田中氏は、この距離を縮めようとした。これまでの政治にとって田中知事は、「独善的で稚拙とも言える政治手法」「ファシスト」にほかならなかった。

 不信任された田中知事は失職を選び、出直し立候補する。有権者との距離をもう一度ゼロまで縮め、「公共」の信託をえようという線が、やはり一貫している。複数の対立候補が名乗りをあげ、混戦模様だが、この選挙の実質はやはり、田中前知事に対する信任選挙であろう。田中氏の掲げる新しい「公共」感覚が、有権者にどこまで支持されるのか、私は注目している。

 (東京工大教授<社会学>)