徹底論証:学問の自由と大学の自治の敵,橋爪大三郎「あり方懇」座長の危険性と国公立大学独立行政法人化の行き着く先

 

2003年1月10日 総合理学研究科 佐藤真彦

 

 

 本稿の準備を始めていた2002年12月1日(日)の午後,大変残念なことに東京教育大学名誉教授の家永三郎氏の訃報に接した.家永氏は,最近の国公立大学独立行政法人化や憲法"改正"とセットになった教育基本法"改正"をめぐる,抗しがたい"逆コース"の潮流をいかなる思いで眺めておられたのだろうか.国家権力による大学および教科書にたいする不当かつ執拗な侵害と統制に抗議して,不屈の精神をもって闘いぬいた真の民主主義者にたいして心から哀悼の意を表したい.

 ここでは,家永氏をはじめとする多くの人びとの証言をもとに,東京工業大学教授の橋爪大三郎氏が学問の自由と大学の自治の敵(破壊者)であり,「横浜市立大学の今後のあり方を考える懇談会(あり方懇)」の座長として,ふさわしい見識をまったく欠いていることを徹底的に証明(論証)する.また,国公立大学独立行政法人化の行き着く先は,"批判精神の欠如""忠誠競争の激化",および,"しめつけの強化"という"大学の死"の到来にほかならないことを指摘する.

 

 「横浜市立大学の今後のあり方を考える懇談会」(以下,「あり方懇」と略)(http://www.yokohama-cu.ac.jp/arikata/arikata_top.html )は,"情報公開の徹底"を公約の第一に掲げて当選した現横浜市長中田 宏氏の象徴的政策の一つである.しかしながら「あり方懇」の実態が,実は,"辣腕"官僚とそれに"迎合する"座長とのコンビによって主導される欺瞞的・似非民主的なものであるとしたら,その透明性や情報公開の精神もとたんに色あせて見える.なお,「あり方懇」のこれまでの経過と実態に関しては,商学部の永岑三千輝氏(http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/ )および矢吹 晋氏(http://www2.big.or.jp/~yabuki/ )のホームページに掲載されている,横浜市大教員組合による『報告』および『傍聴記』を参照されたい.

 

 去る2002年12月11日に,本稿の要約である<横浜市立大学教員組合ニュース(2003-1-7発行)寄稿記事>『学問の自由と大学の自治の敵,橋爪大三郎「あり方懇」座長の危険性』を私のホームページ(http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/page024.html )と矢吹氏のホームページで公表したが,紙幅の関係で要点を述べるにとどまり,学問の自由と大学の自治の敵(破壊者)としての橋爪大三郎氏の"危険性"の証明(論証)が十分でなかったように思われる.ここでは,橋爪氏の"危険性",および,橋爪氏が「あり方懇」座長として"ふさわしい見識"をまったく欠いていることを徹底的に論証するとともに,国公立大学独立行政法人化の行き着く先に待ち受けているものは,"批判精神の欠如""忠誠競争の激化""しめつけの強化"という"大学の死"にほかならないことを指摘する.

 

 以下に,いくつかの"証拠"を挙げていくが,その中でも最も説得力のあるものは,2002年12月9日に公表された商学部の平 智之氏による『第3回あり方懇傍聴記』である(http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/ ,および, http://www2.big.or.jp/~yabuki/ 参照).

 平氏の『傍聴記』は,その副題に「池田理事・橋爪座長の議事引回しを許さず,民主的・公正な運営と討論を求める」とあるように,"辣腕"官僚(横浜市立大学理事・総務部長の池田輝政氏)とそれに"迎合する"座長(東京工業大学教授の橋爪大三郎氏)のコンビが主導する「あり方懇」の実態とその欺瞞性・似非民主性を徹底的かつ赤裸々に暴露した,まさに,渾身のレポートである.この傍聴記については,あとでもう一度取り上げる.

 

 まず,議論の大前提として,学問の自由と大学の自治は,思想・表現の自由に直結する民主主義の基本理念であって,これを破壊に導くような制度改悪を絶対に許してはならないという大前提があることを忘れてはならない.もし,民主主義を放棄するつもりがないのなら,この大前提にたって,その上で,長年にわたる問題点(講座制に代表される"封建的な身分制度"や教員人事の"閉鎖性""恣意性"など)を洗い出し,時代の変化("冷戦の終結""グローバリゼーション""長引く不況""大学の大衆化""少子化"など)に,大学人自らが対応していくのが筋であろう.

 

 現在進行中の国公立大学独立行政法人化などの潮流は,学問の自由と大学の自治を真っ向から否定・廃止・消滅させようとするものである点で,きわめて悪質である.この悪質性・危険性をよく認識し,いま一度原点に立ち戻って議論することにより,抗しがたい現在の潮流を,なんとしてもくい止めるのがわれわれ大学人の責務ではないのか.

 

 いまさら,なにを悠長なことをと言われそうだが,わが横浜市大の現状のように,これらの点についてまったく議論がないままに,状況を無批判に受け入れ,それに合わせようとする"卑屈な"姿勢の方こそ,とても正常とは思えぬ"思考停止状態""脳死状態"と言わねばならない.

 

 また,現状を分析して批判する懐疑の精神(すなわち,合理的な科学的精神)を抑圧する雰囲気の教育・研究環境においては,真の学問を育てることなどは到底できず,結果として,教員はもとより批判的精神(科学的精神)の欠如した学問を教授されることになる学生たちにとっても甚だ不幸なことになり,それこそ,「あり方懇」における第一の検討項目である「横浜市立大学を設置する意義」も失われてしまうことを強調しておきたい.(もっとも,肝腎のこの検討項目そのものがどのような意図で決定されたのかについての情報が,透明性と情報公開の精神を宗とするはずの「あり方懇」の事務局からまったく提供されていないこと自体が,アカウンタビリティ(説明責任)の点でそもそも問題であるが.)

 

 実際,ユネスコ高等教育に関する世界会議(1998109日,パリ)の『21世紀の高等教育に向けての世界宣言:展望と行動』の第9条(b)には,「高等教育機関は広い知識と深い意欲を備えた市民を育成しなければならない.それは,批判的思考力を持ち,社会の様々な問題を分析してその解決をはかり,社会に対する責任を担うような人物でなければならない.」と記されている(金沢 哲訳,http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/3141/dgh/unesco-jp.html 参照).

 

 なお,国公立大学独立行政法人化問題の本質に関しては,佐賀大学の豊島耕一氏のホームページ(http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/ ),あるいは,北海道大学の辻下 徹氏のホームページ(http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/tjst/ )に詳しい資料や分析記事,あるいは,現状等が掲載されているので,ぜひ参照されたい.

 

 橋爪氏は,その著書『橋爪大三郎の社会学講義2』(夏目書房,1997年)の中で,つぎのような驚くべき発言をくり返している.

 

 「教授たちは,いったん手にした人事や予算の実権にしがみついて放さない.このような組織防衛の心理に大義名分を与えているのが,「教授会の自治」の看板だ.その実それは,競争なし,業績なしでも大学をクビにならないための隠れみのにほかならない.故渡辺美智雄氏は『新保守革命』で,国立大学を民営化しようと提言しているが,さっさとやってほしいものだ.教授たちが国家公務員であるおかげで,レイオフも年限付きの雇用もできないし,あべこべに給料をはずむこともできない.」(p.65,66

 

 「教授会の自治とは,何だろうか.そのポイントは,人事権にある.誰を教授,助教授にするかは,教授会の権限だ・・・.そしていったん教授・助教授のポストにつけば,よほどのことがない限り(つまり,研究者として無能だったり,教育者として不適格だったりしたぐらいでは),その椅子を追われない.・・・こんな具合で,大学教授にはまったく競争原理が働かない.その結果,日本の大学は,目をおおうばかりの惨状を呈することになる.」(p.88

 

 「どうして,これほど,大学教授の身分が手厚く保護されう(ママ)のだろう?「学問の自由」のためだともいう.・・・しかし,学問の自由は,研究も教育もしないで教授の地位にあぐらをかき,むだ飯を喰い,後進の道をふさぎ,学生に迷惑をかける自由ではない.・・・教授会の自治は,学問の自由を実現するための,必要条件でも十分条件でもない.」(p.88

 

 「大学改革が叫ばれるようになって久しいのに,めぼしい成果があがらないのはなぜか.それは,「教授会の自治」をかくれみのに,現状にぬくぬくと安住する人びとが重い腰をあげないからである.」(p.90

 

 大学教員の中に,このような発言をする人間がいることを,にわかには信じ難いが,橋爪氏は同僚の教員を普段からこのような目で見ているのだろうか.

 

 橋爪氏の考えは,さっそく「あり方懇」の『第2回議事概要』(http://www.yokohama-cu.ac.jp/arikata/arikata_top.html  2002-11-1)に,そのままの形で反映されている.すなわち,「学部の自治の根幹は教員人事にあり,現行法の範囲内で米国の大学にあるような学長のもとに一定の組織を置き,各学部で(教員人事を)決められない制度を作り,横浜市が教育公務員特例法の範囲においてもドラスティックに変えていく必要がある.」と議事概要にある.

 

 また,国際文化学部の和仁道郎氏の『第4回あり方懇傍聴記』(http://www8.big.or.jp/~y-shimin/doc03/wani1228.htm  2002-12-28)にも,橋爪氏の発言として,「良い教育の要件として大事なのは人事だ.自主性を重んじるということではお手盛り人事になる.多くの大学がこれで失敗しているので,人事を市がきちんと管理することを是非やっていただきたい.会津大学では,教員の半数が外国人で,研究の方は良くないが,教育効果は上がっていると評価されている.横浜でも,少なくとも会津並みのことはできるはずだ.」とある.

 

 なお,平氏の『第3回あり方懇傍聴記』からも分かるように,橋爪氏の上記の考えは池田氏の考えと酷似している.ある教員によれば,池田氏が橋爪氏から「あらゆる"政策的指南"を受けて」おり,橋爪氏は「市大事務局の"影のフィクサー"」であるという.

 

 橋爪氏の発言は,自民党文教族議員,行政改革推進派議員や文部官僚の発言ともよく符

合する.

 

 たとえば,「結局『国立大学はだれのものか』の認識が,われわれ国民と彼ら大学教員との間で,大きく違っていることがよくわかりました.国民は,税金で運営しているのだから当然,国立大学は納税者のものと思っているのに,大学の教員は,大学は自分たち教員のものという意識が非常に強いのです.彼らが言う『大学の意見』というのは,『教員の意見』という意味なのです.教員たちは,国立大学を自分たちの独立国家と錯覚しているのです.」(自民党太田誠一代議士の発言,週間朝日2000526日より)

 

 「日本の大学には三つの悪弊がある.・・・「強すぎる教授会」「研究偏重主義」「悪平等」.・・・(強すぎる教授会という)独特の大学自治が極端な形で定着している.・・・民主主義は一定の緊張感がないと衆愚制になってしまう.大学の活性化のためには,大学自身がお考えにならないといけない.」(文部省高等教育局長・工藤智規氏の発言,朝日新聞2000616日より)

 

 「(国家公務員)定員削減の1025%と言う問題もあり,腹を決めないといけない.・・・これまでのように護送船団方式で(一律に)はやれないが,各大学の努力いかんにかかっている(文部省大学改革室長・杉野 剛氏の発言).・・・国立大を(浮世の)冷たい風に当てろという政界などの空気・・・.」(東京新聞の加古陽治記者による連載記事2000211日〜17日より)

 

 橋爪氏の発言を含めて,これらの政治家・官僚による新聞・テレビ等のマスコミを通じたプロパガンダにより一般に流布している"俗説"の多くは,(1)学問の自由・大学の自治という民主主義の根幹にかかわる理念の問題とその理念をどのようにして制度として実現させるかという方法論の問題を,区別せずに一緒くたにして,つまり,頭の中が混乱したまま,よく整理・分析しないで,誤って(または,意図的に)理念まで破壊しようとするもの,および/または,(2)教育・研究の国家統制と民主的な制度の骨抜きを通しての中央集権化を謀る非民主勢力による長期的な(隠された)ねらいを反映して(また,行政改革・構造改革の潮流に便乗して),意図的に理念を破壊しようとするものであって,大前提となる学問の自由と大学の自治の理念を尊重しようとするものは皆無である.すなわち,これらはいずれも,意図的に(または,結果的に),民主主義そのものを破壊しようとするものであり,絶対に傍観・放置してはならないたぐいのものである.

 

 だいたい,橋爪氏の言う「研究も教育もしないで教授の地位にあぐらをかき,むだ飯を喰い,後進の道をふさぎ,学生に迷惑をかける」「目をおおうばかりの惨状」とはどの大学の"惨状"を指すのだろうか?実際の調査に基づいたものとは到底思えないが,もし,事実に基づかない思い込みによる発言だとしたら,客観的事実に基づいて分析を行うことを宗とするはずの社会学者としての資質が問われる,まったく無責任な放言としか言いようがない.自分は"理論派"であるから客観的事実を無視してもよいとでも,橋爪氏は言うのだろうか.

 

 実際,橋爪氏による別の"無責任"発言に抗議して,前信州大学教授の長 尚氏は,ホーム

ページ(http://www.avis.ne.jp/~cho/naci.html )の公開質問状(『橋爪大三郎先生にお尋ねします』http://www.avis.ne.jp/~cho/hasi.html )でつぎのように述べている.

 

 「先生は(2002年)8月13日付の朝日新聞に掲載されました,『問われる「公共」のあり方』というタイトルの寄稿文で,田中康夫前長野県知事について,「徹底して,民主主義の手続きを重視した知事はいなかった」と,手放しで評価されています.しかし,事実は,徹底して民主主義の手続きを無視したものであることは,少し調べれば明白であります.・・・

 

 ・・・余りにも事実誤認に基づいた空論だと言わざるを得ません.先生が社会学者であるならば,単に知事が出席した車座集会が開かれるだけで,民意が本当に汲み取られ,"民主主義の手続き"が重視されたと評価されること自体に疑問を持たれなければならないのではないでしょうか.つまり"民主主義の手続き"とするためには,車座集会の位置付けとその手続きの内容を明確にしなければ,単なるパフォマンスに過ぎなくなるという,学者としての当然の知性による判断がなければならないのではないでしょうか.

 

 ・・・また"「脱ダム宣言」で公共工事の見直しを進めた田中氏のバックボーンは,「公共」とはこういうものだという新しい信念だと思う"とありますが,先生は本当に『脱ダム』宣言をお読みになったのでしょうか.「脱ダム宣言」の文言の中のどこに,"「公共」とはこういうものだという新しい信念"があると言われるのでしょうか.これも先生の・・・思い込みに過ぎません.

 

 こうした事実を知らないで,やはり思い込みで,"田中氏のバックボーンは,「公共」とはこういうものだという新しい信念だと思う"と断定され,しかも選挙公示を控えて,"田中氏の掲げる新しい「公共」感覚が,有権者にどこまで支持されるかのか(ママ),私は注目している"とされるのは,もはや選挙違反の疑いが濃厚な,犯罪的煽りと言わなければなりません.・・・」

 

 実に手厳しい批判である.なお,長氏のホームページには,「(2002年8月14日に)すぐ橋爪先生と朝日新聞にメールで連絡しました.ほぼ一日経過しますが,どちらからも何の返事もありません.もう少し様子を見て,催促するつもりです.」とあるが,(ホームページから判断する限り)その後も橋爪氏は,この公開質問状をまったく無視したらしい.

 

 ところが一方で,橋爪氏はつぎのように述べている.「・・・思想を生み出した人間は,自分が生み出した思想に対して,責任を持たなければならない.もしも他の人間たちが,その思想のどこかがおかしいと文句を言ってきたら,確かにおかしいとか,いや正しいとか,ちゃんと応答しなければならない.「応答しなければならない(responsible)」ということこそ,責任の本来のあり方である.自分の口から出た言葉に責任を持ち,言葉に表現された自分の思考に責任を持つ.ここに思想の基礎がある.思想とは,言語の個人責任の制度である.この責任を,喜んで引き受けようという個人が大勢現れたときに,その社会は,その名に値する思想を持つことになる.」(『橋爪大三郎の社会学講義』,夏目書房,1995年,p.299

 

 長氏の抗議に対して橋爪氏が沈黙している(らしい)ことは,「思想のあるべき倫理とは正反対の,無責任を蔓延させる」(同上書,1995年,p.299)ことにならないのだろうか.

 

 なお,橋爪氏の別の著書『民主主義は人類が生み出した最高の政治制度である』(現代書

館,1992年)においても,その中で橋爪氏が展開している民主主義の理解のしかたに対して根本的な疑問を見出すことができる.とくに,橋爪氏の主張の背後にある(ように感じられる)"抑圧的な姿勢""手続きさえ正しければ,すべてが正当化されるととれる考え",また,"個人の尊厳を尊重する姿勢への考慮や,合理的な意思決定に至るプロセスにおける徹底的な議論の必要性についての考慮が殆どみられない点"などについては,すでに,永岑氏のホームページ(http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/ ,20021030日掲載)で私見として指摘したので,興味のある方は参照されたい.

 

 ここでは,学問の自由とは何か,大学の自治とは何か,また,より根源的な問題として,民主主義とは何かを,国家権力との壮絶な闘いの中で身をもって示した家永三郎氏の発言と比較することで,橋爪氏の発言の"無責任さ""粗暴さ"を浮き彫りにしてみよう.

 

 注目すべきは,家永氏がすでに1962年の時点で,今日の国公立大学独立行政法人化問題の本質(国家権力による大学統制)と死守すべき成文法(憲法23条と教育公務員特例法)の重要性を明確に指摘していたことである.このことは,当時の状況と現在の状況が本質的に同じであることを意味している.家永氏の遺言として,あらためて真摯に受け止める必要があ

ると思う.

 

 言うまでもないが,学問の自由(=研究の自由・発表の自由・教授の自由)とそれを制度的に保障する大学の自治は,思想の自由・表現の自由に直結する民主主義の根幹をなす理念であり,当時から40年以上が経過した現時点においても,いささかもその価値を減じてはいない.

 

 以下は,家永三郎集第10巻『学問の自由・大学自治論』(岩波書店,1998年)からの引用である.

 

 「戦前よりもかえってプレステージの低落した戦後の大学が,・・・局部的にしばしば自治を侵害されながらも,いまだ滝川事件のような正面からの直接侵害を経験することなしに今日にいたったのは,戦後の大学が,戦前と違い,明確な成文法によって戦前には与えられていなかった大幅の自治を公認されているためであると思う.その成文法とは何かといえば,それは第一に憲法二十三条の規定であり,第二には学校教育法と教育公務員特例法である.」(p.338,339

 

 「結論.」「その第一は,日本の近代的大学が,学生または教授・学生の自主的組合から発生した西洋の大学と違い,最初から国家権力が官僚機構の一環として設立したものであり,常に国家権力の強い統制下に置かれてきたものであるという歴史的特性を無視して,大学管理制度の問題点を論ずることは,きわめて危険であるということである.現行の大学管理にさまざまな問題があろうとも,日本においては,国家権力による大学自治の侵害の危険を防止することこそ,大学管理制度の中心的主眼点であることを瞬時も忘却すべきではない.・・・多くの外国(カナダ・米国・スイス・西ドイツ等)には,中央政府に文部大臣もいない.制度上中央政府は教育問題に介入しないのである.・・・文部省が大学管理の改革の範と仰ぐアメリカでは,いまだに教育は一つの省をなさず,健康や社会福祉と同居している.・・・それ以上に問題なのは,イギリスやアメリカの場合,純粋にサービスを機能としているのに,日本の文部省は,政党による政治支配の窓口である点だ・・・.」(p.378

 

 「第二に,・・・大学の自治を確保するためには,・・・大学内部において,学長・学部長・評議会・事務局長等の中央機関に過大な権限を与えることが,外部からの大学の自由侵害にきわめて好都合な条件を提供する場合が多いことを注意しなければならない.・・・大学の管理はどこまでも全教授の総意の反映する場所である教授会を中心に考えるべきである・・・.」(p.379,380

 

 「第三に,戦前の大学が,慣習法上の自治権をひとたび獲得しながら,最後までそれを完全に守りぬくことのできなかったのが,成文法上に自治権を明記されていなかったことによる,という上来の歴史的考察の結論を想起するとき,戦後における大学の自治を支えている成文法,すなわち日本国憲法と教育公務員特例法の改悪を絶対に許してならないことが,容易に理解せられるであろう.」(p.381

 

 「第四に,・・・現行制度の下において大学自治を実質的に空洞化させるにあずかって最も有力な,大学財政を通しての政府のリモート-コントロールを阻止するため,大学財政の独立のための積極的方策を研究すべきである.」(p.381

 

 「・・・私は歴史家として,歴史の示すところに従って,大学自治の保障を全うするためには,最小限右のごとき条件の達成が不可欠の要請である,と結論しないではいられないのである.」(p.382

 

 上記の家永氏の"的を射た"指摘と橋爪氏の対照的に"無責任"かつ"粗暴な"発言,あるいは,「"大学の自治"とは,大学内に警察力をふくめた市民社会の法秩序をそのまま作用させない,という一種の治外法権を含意する」(『橋爪大三郎コレクションV,制度論』,勁草書房,1993年,p.82)といった"大学自治の本質をまったく理解していない"発言との比較から,大学改革を行なうに当たって,学問の自由と大学の自治という最重要問題に関して公正な見識を欠いていると思わざるをえない橋爪氏は,(「あり方懇」設置要綱の正当性を仮に認めたとして)その委員としての資格とされている「大学に関し,高くかつ広い見識を持つ者」としてまったくふさわしくないことが明白であろう.

 

 橋爪氏は,ジャーナリストでアムステルダム大学教授のカレル・ヴァン・ウォルフレン氏による,以下の指摘に耳を傾けるべきである.

 

 「優秀な頭脳とよく鍛えられた精神をもち,立派な学位を取得した人びとが特権階級を形成する.権力者は,一般にこの特権階級と友好関係を結びたがる.そのために,いかなる社会でも知識人への誘惑は大きく,権力者と親密になって特別な恩恵を享受するよう知識人はそそのかされる.日本の知識人は,おおむねこの誘惑に負けてきた.」(『人間を幸福にしない日本というシステム』,新訳決定版,鈴木主税訳,新潮OH!文庫,2000年,p.202

 

 「審議会には大いに気をつけなければいけない.日本の民主主義にとっておおむね有害だからだ.・・・審議会は,日本の統治システムをより民主的にする制度だという偽装がほどこされている.国民の代表によって構成されていると思われている.ところが,実際はまったくちがう.本当は,官僚に仕える召使いによって構成されているのだ.・・・ほとんどの場合,審議会の審議結果は関係省庁によって事前に用意されている.ただし,ごくわずかな変更の余地は残され,審議会のメンバーが操り人形に見えるのを防いでいる.」(同上書,p.304

 

 ここで,(政府の)審議会を(横浜市の)「あり方懇」に読み替えれば,上記の文章はそのままで成りたつはずである.実際,心ある横浜市大のある教員は,怒りをこめて,つぎのように断定している.「審議会を隠れ蓑にして役人が,役人の意見を世論をもって装うことは,日本官僚の常套手段です.今回の場合は,その典型的なかたちと思われます.私は「あり方懇」の設置自体に疑問をもっており,このような見識のさだかでない委員たちによって大学の運命が翻弄されるのは,とうてい容認できないという考え方です.」

 

 まったくその通りの正しい指摘で,橋爪氏のようなタイプの人間は,官僚が気に入るように答申をだす審議会委員や懇談会委員には打ってつけの人物と思われる.

 

 実際,平氏による『第3回あり方懇傍聴記』には,高圧的・独断的態度で悪評の高い"辣腕"官僚の池田氏に「迎合し推進する発言と議事運営を行った橋爪座長一人」が,他の「良識」的な委員から「浮き上」っており,また,『「きわめて反動的な内容」の「同じ教育公務員としての配慮や"仁義"のかけらもなく,・・・言いたい放題の"非常識きわまる"発言をしていたのが最大の特徴であった.」・・・「教育も福祉もその他のセーフティ・ネットも要らない"弱肉強食の市場メカニズム"しか,それを批判すべき社会学者の念頭にないというのは大変に奇妙なことに思えたのが,私の率直な感想であった.」』とある.

 

 平氏が総括した池田氏の"構想"する横浜市立大学像とは,『・・・横浜市はこれ以上の市大への財政負担に耐えられないので,各学部を縮小して重点化,選別化し,「地域貢献」と「実学化」の両目標に集中的に再編するとともに,教育公務員特例法の「廃止」を望みつつ「骨抜き」化を図り,教授会から教員の人事権とその他の決定事項の権限を奪って教員の身分には任期制と契約制を導入し,研究費も外部調達を求めつつ重点的,競争的に配分して,それで研究に支障が出ても基本的には上記目標に即した教育だけを市大はやってくれればよい・・・.そして,国立と私立の一流大学と競争することはとうてい無理だから,横浜市には「ナンバー・ワン」の大学など要らないので「オンリー・ワン」の大学になってくれさえすればそれで結構・・・.』という実に志の低いものである.このような"構想"からは,池田氏が長い歴史と伝統を持つ自らの大学にたいして,誇りも愛情も敬意もまったく感じていないことがよく分かる.

 

 和仁氏の『第4回あり方懇傍聴記』によると,『橋爪座長も,「教育で行くのか,研究で行くのか,両方できればハッピーかもしれないが,資源は限られている.教育は相対的に強く,学部教育の改革や海外に目を向けるなど横浜ならではの魅力を引き出すことが考えられる.研究は勝負が難しく,大学側に何が売りにできるか証拠も出してもらいたいが,研究(特に理工系)にはおカネがかかり,仮に能力があっても諦めなければならないかもしれない」と,教育を積極的に,研究はネガティブに評価するというまとめをした.』とある.

 

 また,橋爪氏は,「院までとなると大変.1.5流や二流になってしまうのでは魅力がないので,ここで勉強すると東大などに進学できるというので魅力にすれば良い.」・・・

 

 ・・・「研究者養成の大学院が多すぎるのが実状だ.一部の研究大学院となる大学以外は,博士課程は作らなくて良い,というのが直感だ.研究大学院と違うものならば可能性はある.」などと,明らかに横浜市大を見下したような言いたい放題の発言を行っている.

 

 このような池田氏や橋爪氏の考えは,「学生によるもう一つのあり方懇」を主催した学生たちのそれと対照的である.たとえば,学生たちが2002年12月の上旬に配布した『崖っぷち』と題するビラ http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/02-12/021211gakeppuchi.pdf には,「横浜市立大学が無くなるかもしれません.あるいは,どこかと合併?ビジネススクール?かもめ大学?カルチャーセンター?授業料は?私たち学生にとって大切なことが今,学生抜きで話し合われ,決定されようとしています.学生に関わる大事なことが学生に知らされぬまま,意見も聞かれぬまま決定されることに私たちは納得できません.・・・」とある.

 

 また,やはり学生たちが出した『あり方懇談会の委員の先生方への手紙』(http://www8.big.or.jp/~yabukis/2002/to-ariko.htm )には,「・・・大学という場所は(もちろん他の場所と同じく),受け継がれていく場所です.ずっと昔の先輩から脈々と守られ,受け継がれてきた場所です.委員のみなさんも,その場所を受け継いできたと思うのです.そして,今,私たちもその場所にいて,それを後輩たちに,さらには自分達の子供達や孫達に伝えていく場所だと思います.その基本はずっと変わらないはずです.私たちはこの脈々と受け継がれ,これから引き継がれていく場所を,より良いものにしていきたいと考えています.この場所の「あり方」は,一部の誰かが決めるものではなく,大学に関わる人が,みんなで智恵を出し合ってじっくり考えていくべきものだと思います.どうか慎重で聡明な議論をよろしくお願いします.」とある.

 

 このような学生たちの真摯な主張を池田氏や橋爪氏のそれと比較したとき,自分たちの大学への思い入れの深さには,両者の間で歴然たる差異がある.

 

 「第3回あり方懇傍聴記」の中で平氏は,『私には「荒唐無稽」としか思えない(上記の池田氏の)この「構想」を聞いて初めて,私はさる(2002年)1016日の評議会で池田理事が「将来構想委員会は無為な答申を繰り返すばかりで実効性がない」という趣旨の「捨てゼリフ」を吐いて部下を引き連れて退席したと伝えられる,例の事件(評議会"捨てゼリフ"退席事件,下記参照)に込められた彼の「真意」に得心が行った.つまり,かかるプランこそを池田理事としては答申してほしかったのであり,彼は「あり方懇」の場で自己の「私案」を披瀝する絶好の機会を得たのである.』と述べている.

 

 後で指摘するように,横浜市大の将来構想委員会は,結局,池田氏の構想に沿った答申を行っている(『将来構想委員会中間報告書』2002-12-4発表).たとえば,『中間報告書』の冒頭に,「・・・責任と統治能力を発揮する大学として・・・オンリーワンの存在を目指し・・・再出発します.・・・」とある.

 

 なお,教員人事の"一方的な"凍結通告(『いま横浜市立大学で何が起っているか…「教員の欠員補充人事凍結に関する学長見解」の撤回を求める緊急アピール』 2002-7-25  http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/200207appealtext.htm 参照)や評議会"捨てゼリフ"退席事件(『声明 横浜市立大学の異常事態を訴える―市大事務局トップの職務放棄を糾弾する―』2002-10-18 http://www8.big.or.jp/~yabukis/2002/ikeda.htm ;『横浜市立大学の異常事態を訴え,問題の解決を要望する―市大事務局トップの職務放棄を容認するな―中田 宏 横浜市長様』2002-11-15 http://www8.big.or.jp/~yabukis/2002/yobosho.htm ;『横浜市大教員組合声明』2002-11-19 http://www8.big.or.jp/~yabukis/2002/seimei19.htm 参照),あるいは,『第3回あり方懇傍聴記』などからも分かるように,池田氏の手法は,現行の教育公務員特例法等の法律,学内規則,あるいは,慣行などを無視,または,恣意的に解釈した根拠のない不当な"ヤミ権力"の暴力的な発動(つまり,"おどし")と説明責任(アカウンタビリティ)の完全な欠落を特徴とするものである.

 

 ウォルフレン氏は,日本の官僚の特徴が『民主主義に不可欠の,ある考え方(すなわち)「アカウンタビリティ(説明責任)」という考え方』を欠いていることであるとして,つぎのように述べている.(『人間を幸福にしない日本というシステム』,p.91

 

 「彼ら(日本の官僚)に欠けているのは,(レスポンシビリティではなく)アカウンタビリティのほうなのだ.アカウンタビリティが欠けているというのは,自分たちが何をしているのか,なぜそうしているのかを,自分の所属する省庁以外の人に説明するよう求められていないという意味だ.何が日本にとってよいことだと思うか,なぜそう思うのか.官僚はそれを説明するよう要求されていないため,自分の属する省庁の利益を超えた広い見地からものごとを考えられないのである.」(同上書,p.96

 

 「アカウンタビリティ(説明責任)のあるシステムの重要な点は,恣意的かつ非公式の権力を排し,古い政策がもはや人びとの利益にならないとわかったとき,新しい政策を採用しやすくすることである.」(p.98

 

 「日本の官僚制度の本質的な特徴は,各省庁が自分たちの縄張り・・・のなかでは好きなことができるところだ.しかも,自分たちの決定について説明する必要がない.それぞれの省庁が法を起草し,その法を思いどおりに解釈する権限をもっている.さらに,許認可を与えたり与えなかったりし,それとなく脅したりすることで,法を執行する権限ももっている.」(p.98

 

 「・・・自分たちのしていることを誰にも説明する必要がないため,日本の国民にとって生死にかかわるような多くの問題が考慮すらされないという危険な結果が生じている.役人が自分たちのしていることの説明を求められなければ,自分の行動を充分に分析する能力が身につかず,したがって国の運命を左右するきわめて重大な問題を認識できないからである.」(p.101

 

 また,ウォルフレン氏は,日本官僚の権力の源泉が法的な根拠に基づかない恣意的なもの,すなわち,"ヤミの権力"であり,したがって,その力の本質は"おどし"によるものであると結論している.たとえば,ウォルフレン氏は「官僚のヤミ権力」,「官僚のおどし」と題して,つぎのように述べている.

 

 「官僚のヤミ権力」「・・・日本の官僚の権限は,正式な規定にもとづいていないものがかなり多い.そして,このことはまたしても説明責任(アカウンタビリティ)の欠如という問題と密接に関連している.

 

 非公式の権力とは,法の規制を受けない権力である.このヤミの権力は,正規の職務にともなう権力ではなく,政治システムを構成する正規の取り決めには属さない.・・・日本はヤミ権力の天国である.」(同上書,p.114,115,120

 

 「官僚のおどし」「・・・官僚が行政的統制のために起草する法律はわざとあいまいにしてある.法と政策が矛盾すると"法の解釈"を変えて法を政策に合わせようとする.普通適用されない事例にも法律を適用するというおどしにより,官庁は多大な威嚇力を持つことになる.」(『日本/権力構造の謎』,篠原 勝訳,ハヤカワ文庫,1994年,下,p.214

 

 「西洋のオブザーバーが大いに注目した"行政指導"という手法自体,事実上,おどしによる威圧に類するものだ.・・・企業は行政指導に従う法的義務はないが,活動をつづけるためには従うしかない.これが,日本の官僚的統制の鍵のひとつである.」(同上書,下,p.215

 

 「日本の<システム>に見られるおどしは"構造的おどし"と呼んでいいだろう.おどしなしには,現<システム>が停止してしまう.おどしが権力者に力を与えているからだ.儀式と階層構造は秩序維持を助けるが,安全までは保障しない.日本では力のみが安全保障になる.法律も普遍的な価値も欠如しているとなると,安全保障には力が不可欠である.自分の力を守るには,その力を微妙に見せつけ拡大していくのが最善の方法である.このやり方は非公式な手段を通してだけ可能であるから,おどしが日本社会では不可避でかつ,いたるところに存在する特徴となるのである.(同上書,p.218

 

 今回の国立大学独立行政法人化に関連した,文部官僚の"構造的なおどし"については,佐賀大学の豊島耕一氏がつぎのように述べている.『・・・(教育への官僚支配を禁止した)教育基本法一〇条に反すると思われる長年の文部省による大学支配の常態,すなわち予算や組織再編をめぐっての「構造的な脅し」が強く作動し,大学首脳部が「反対」を口にすることはなにがしかの覚悟を要する事態になっている.

 

 その結果「自分の大学の生き残りのために重要なのは独法化への対応だ」という言説が,首脳部だけでなく「下から」も発せられるようになる.しかし「生き残り」とは社会の中での「自然淘汰」のことを意味するのではなく,文科省によって「殺される」という意味であることは,同省自らがこれを証明した.昨年六月一四日、文科省の工藤高等局長が国立大学の学長らを前にして,「努力が見られないと・・・見捨てていかざるを得ない局面があるかもしれない.・・脅しをさせていただく」と言ったのである.

 

 脅しは十二分に効果を発揮し,多くの大学が,独法化に反対するどころか,やみくもの「再編・統合」に忙しい.全国の国立大学の学長が一官僚の恫喝にひれ伏すという光景は,もはや奇観と言うほかはない.』(豊島耕一,『政府が実施を急ぐ独立法人化 大学の"独立"は逆に失われる恐れ』,週刊金曜日,2002-4-19http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/kinyoubi020419.html )

 

 橋爪氏も,「市大はただでさえ教員数が多いので,集約・効率が必要になる.」・・・「市の負担の最小化なら,民営化か売却が一番良い.仮にそうでないとしても,数値目標を立てて,達成できなければ廃校・売却するということにしないと,ずるずる行ってしまうことになる.」と同様の威嚇的な発言を行っている.(『第4回あり方懇傍聴記』より)

 

 ある教員からの「確かな情報」によると,池田氏も公式の会議の席で,『「独法化」を口実・好機として教員を事務局主導で「勤務評定」していったん解雇して再雇用するかどうか決めるなど,かつての国鉄民営化のときの清算事業団のような荒唐無稽の主張』をし,・・・『「大学教員と行政職員は市職員の地方公務員として同等・同格である」はずなのに・・・「あたかも・・・事務局が教員を"雇い人"扱いしているかのような(まったく法的な根拠を欠いた)発言』を行って威嚇したという.

 

 現に,この発言を真に受けて多くの教員が,すっかり萎縮しているらしい.

 

 また,ある教員の"証言"によれば,池田氏はやはり公式の会議の席上で大学教員を,"鈴木宗男ばりに" 罵倒して威嚇するような性格の持ち主でもあるらしい.

 

 このように池田氏の場合は,とくに,法的な根拠を欠いたヤミ権力の行使(つまり,"おどし")が直接的であからさまな点といい,"鈴木宗男ばりの"高圧的・独断的ふるまいや説明責任(アカウンタビリティ)を一切果たそうとしない点といい,おそらく最悪のケースではないのか.

 

 ウォルフレン氏は,つぎのように結論している.「こうして,日本はうわべだけの民主主義国になっている.そうした構造のなかで多くの「民主主義的」儀式が行なわれ,日本市民を欺く偽りの現実が維持されている.うわべだけの民主主義のなかで実際に機能している権力システムは,「官僚独裁主義」と呼ぶべきものだ.」(『人間を幸福にしない日本というシステム』,p.104

 

 いっぽう,上記のウォルフレン氏の著書『日本/権力構造の謎』のあとがき解説(タイトル:「改革は<システム>との戦いである」;下巻,p.479-486)の中で,橋爪氏は「改革とは,(官僚独裁機構の)<システム>との戦い,権力との戦いである.そうした改革の課題を,日本人にメッセージとして送り届けた書物,それがこの『日本/権力構造の謎』なのである.」と述べて,官僚独裁機構との戦いが「改革」の本質であると指摘している(p.486)が,この発言と橋爪氏の実際の行動との間には,またしても,甚だしい乖離があると言わざるをえない.どうやら,橋爪氏の言説は,"無責任""著しい言行不一致"を特徴とするらしい.

 

 なお,橋爪氏はその著書の中で,「日本の繁栄は,資本主義市場経済のおかげだと,誰もが思っている.たしかに,・・・日本は資本主義にみえる.けれども,ほんとうに戦後の日本経済が資本主義的であったかと言うと,それは少し怪しい,と私は思っている.」(『橋爪大三郎の社会学講義2』,p.2)と述べて,ウォルフレン氏の独創的な分析(すなわち,官僚独裁機構の<システム>による"資本主義市場経済とは異質の"日本独自の産業政策)をあたかも橋爪氏自身の分析によるものであるかのように,4頁にわたって解説している.

 

 橋爪氏の学者としてのモラルを疑わざるをえないが,いっぽうで,日本のバブル絶頂期に行なった橋爪氏自身の分析(橋爪大三郎,『冒険としての社会科学』,毎日新聞社,1989年)では,「世界中の人びとが疑問に思っていることを,われわれも考えよう.なぜ日本だけが,資本主義社会としてこれほど発展したのか?これはじっくり考えてみる値打ちのある問題だ.・・・日本みたいに調子よく,経済大国になり上がった国はない.なにか秘密があるはずだ.日本にしかないもの.それは,天皇である.あるいは,天皇に象徴される,日本社会のメカニズム,と言ってよい.これが秘密のカギなのではないだろうか.(p.158)・・・天皇の存在によって,日本社会は,共同体として完成する.いわば,天皇共同体である.(傍点は橋爪氏による,p.195;注:ここでは,傍点の代わりに太字にしてある)・・・日本人のつくる共同体(生産組織)は,・・・言うなれば,感性の共同体である.これが,同じような他の企業と競争している.・・・いくらでも生産効率が上がるようになっている.(p.210)・・・日本はいま,未曾有の繁栄を謳歌している.この繁栄を支えているのが,日本の国際競争力だ.それは大部分,組織力にもとづいている.日本人が集まって組織をつくると,1+1が3にも5にもなって,大変能率的な組織ができあがる.(p.214)」と,現在でも巷間に流布している俗流の"日本人論"にもとづいた分析を展開している.

 

 橋爪氏の言う"天皇共同体"とは,かつて教育勅語体制により強力に教化・浸透させられた"天皇を中心とする家族国家"観念,すなわち,宗教の代用品としての"国体"イデオロギーそのものではないのか.実際,ウォルフレン氏は,「日本人論は,基本的に,"国体"イデオロギーから軍事的な要因を除いたもの」であり,また,「家族主義の神話は・・・イデオロギー的なまやかし」であると結論している(『日本/権力構造の謎』,下,p.84,86).したがって,バブル絶頂期の日本経済についての橋爪氏自身による分析は,国体イデオロギーと同質の"俗流日本人論"に基づくものと言えるだろう.

 

 ウォルフレン氏によれば,この種の日本人論は,当時の官僚が好んで用いた説明で,「外務省は,一九八五年の・・・"青書"で,この国の大いなる経済的成功を祝い,成功を(「日本人論に欠かせない要素」である)民族的な単一性のおかげだと述べた.一部の官僚や,また特に目立って,(「熱烈な日本人論の信奉者である」)中曽根(康弘,当時の首相)は,日本が折り合って暮らさなければならない他の人種がいなかったことに感謝すべきであると示唆した.中曽根は,一九八六年九月には,アメリカには黒人やヒスパニックのような少数民族がいるので,日本より"知的"に劣ると述べて,アメリカ人などを仰天させた.・・・彼は民族の誇りを国民に持たせようというねらいで長期のキャンペーンを続けており,これはその一環だったのである.」(同上書,下,p.80,81)と指摘している.

 

 また,ウォルフレン氏の独創的分析によれば,そもそも,日本人論とは「市民の知的な刺激を抑えることになる」「頭を鈍らすためのイデオロギー」で,「・・・知識人向けの月刊誌がのせる社会・政治的な現実の説明も,疑わしい内容になりがちで・・・これらの雑誌は,きまったように日本人論の記事を載せる.・・・日本人は集団生活を好み,本来訴訟好きではなく,論理的に考える必要もないとくり返し言われる中で,荒野に呼ばわる少数者の声を聞きとるのは,もともと聞く耳のある者だけである.少数者の意見は,めったに新聞でもお目にかかれないしテレビにも登場しない.・・・日本人は(官僚独裁機構の)<システム>が要求する規律をいとも平然と受け入れる.単に,国民の大半が疑問すら抱かないからである.」(同上書,下,p.87,88)とも指摘している.

 

 したがって,ウォルフレン氏の指摘が正しいならば,戦後の日本経済についての橋爪氏自身による分析は,"陳腐な俗流の説明"で,「知的刺激を抑える」「頭を鈍らすためのイデオロギー」の「疑わしい内容」(はっきり言えば,"謬説のたぐい")であったことになる.

 

 以上から,世間に広まっている(と思われる)評判に反して,橋爪氏の日本社会の現実や歴史に対する分析力・批判力には疑問符をつけざるをえないし,「あり方懇」委員の資格とされている「大学に関し,高くかつ広い見識を持つ者」であるともとても思えない.

 

 『第3回・第4回あり方懇議事概要』および池田氏の発言等から窺える横浜市立大学像,あるいは,『公立大学法人像第三次試案』(2002-5-15発表;なぜか現時点では,公立大学協会のホームページから削除されている.原文をご覧になりたい方は,コピーを送るので,msatou@yokohama-cu.ac.jp まで連絡されたい.)には,家永氏が40年以上前に結論した大学の自治の"条件"を保障するかけらもないばかりか,まさに,大学の自治を完膚なきまでに破壊しつくす悪質な意図が明白に感じられる.

 

 たとえば,上記の『公立大学法人像第三次試案』より窺える,(1)学長・役員会・運営協議会・評議会・学部長を中心としたトップダウン方式の運営にすることや,従来のような投票による民主的な学長選挙・学部長選挙の方法を廃止して,学長の選考を運営協議会・評議会の選考により行い,必要な場合に,「教育研究や大学運営に相当の経験と責任を有する者に限定」して「意向聴取」する,このようにして選考された学長が不適任とされる場合は文部科学大臣が解任できる,また,学部長を学長が任免する等,甚だしく非民主的・中央集権的な管理・運営方式,(2)「中期目標・中期計画・評価・評価結果の活用」等を通じた「官僚統制と許認可事業化」・「大学財政を通しての"リモート-コントロール"」,および,(3)法人化を契機に非公務員型の身分にすることで,学問の自由・大学の自治(=教授会による自治)を担保している成文法である教育公務員特例法を廃止することなどである.そして,何よりも(3)の教育公務員特例法を廃止して学問の自由・大学の自治を破壊することこそが,今回の法人化の隠された真のねらいで,最も高い危険性を孕んでいることを強調しておきたい.

 

 このまま傍観していれば,(後で述べるように)戦前の大学においてさえ慣習法上認められていた教授会自治や民主的な選挙による学長の選出等が消滅するという,甚だしく非民主的な制度に逆流するのは明らかであろう.

 

 豊島耕一氏によれば,先進国でこのような非民主的な管理制度を採用している国はほかになく,このことは2000年1月当時の文部省自身が公式文書(国立学校財務センター所長 大崎仁,『大学の設置形態と管理・財務に関する国際比較研究―第一次中間まとめ―』,http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/zaimc2000.html )中で認めていたという.また,『「独法」制度における「中期目標」とは要するに「官」すなわち文科省による大学への命令であり,・・・その達成度によって予算がコントロールされる.さらには大臣が廃校の権限までも持つという世界にもまず例を見ない,また戦前でさえ行われなかったような政府による一元的支配の制度である.「中期目標」として挙げられている項目は抽象的であり,大学にまで「教科書検定」や「学習指導要領」が押しつけられても不思議ではない.

 

 高校までの公立学校に対する文科省の官僚的支配は揺るぎないまでに完成しており,教師の自由は大きく制限され,そのあり方が保守派からも「画一的」と批判されるまでになっている.しかし大学に関しては,曲がりなりにも「学問の自由」や「大学の自治」という考えが歯止めとなって,今日まで文科省といえども大学をあからさまに(裏は別として)統制することは出来なかった.それが「法人化」という呪文によって一挙に可能になろうとしているのである.』と述べている.(豊島氏による前掲の『政府が実施を急ぐ独立法人化 大学の"独立"は逆に失われる恐れ』より)

 

 従来のような教員による民主的な選挙によらずに,学長や学部長・研究科長等を選出・任免することになれば,また,中央集権的・トップダウン方式の管理制度や教員身分への任期制・契約制,あるいは,官僚主導の評価制度等が導入されれば,当然,官僚の顔色を窺う姿勢がさらに強められ,その結果起こるのは,(1)学長・学部長等の主要な学内ポストを目指す "野心的な"(権力志向の)教員による,官僚にたいする"忠誠競争の激化",(2)管理者的教員と官僚の共同による,一般教員にたいする(a)教授・助教授等への昇任人事(あるいは,懲罰人事)を通しての,および,(b)研究費の"競争的""重点的"配分を通しての,あるいは,(c"勤務評定"を利用した給与差別,任期切れ時の再契約への反映などを通しての"しめつけの強化"という最悪の事態であろう.

 

 最近の横浜市大の学内の動きは,上記の事態がすでに始まっていることを暗示している.実際,教員自身の作成による『将来構想委員会中間報告書』(2002-12-4発表),とくに,「学府-院構想ワーキング・グループ」の報告書から窺える横浜市大像(=大学組織の骨格像)は,上記の公立大学法人像よりもさらに踏み込んだ改革を"自らに"強いるもので,そこでは,教員全員が議論する民主的な場(すなわち,従来の教授会に相当する場)は,もはや存在せず,著しく非民主的で中央集権的,したがって,官僚による統制の容易な組織形態,および,たとえば,研究所には(所長を除いて)常勤の職員を配置せず,研究所の研究者をプロジェクト研究の学内公募により時限つきの不安定な身分で採用・配置するなど,まさに,池田氏の意向に沿うようなプランを提起しており,(次期"学長ポスト等"を視野に入れた)"忠誠競争"がすでに始まっていることを窺わせる.

 

 国公立大学が独立行政法人化されれば,"お目付け役""パイプ役"として文部官僚が大量に天下ってくることが必至とされているが,実際,新潟大学の渡辺勇一氏は,『大学までが天下り先の天国に』と題して以下のように指摘している.『日本には,「天下り」という官僚に取っては,こたえられない税金の浪費制度がある.次々に国の息のかかった組織の役人を繰り返して,年を取った官僚が何度も退職しながら,億単位の金を懐に入れてゆく.

 

 ・・・一足先に,国立美術館や,国立研究所が独立行政法人化されたが,2001年11月15日付の「毎日新聞」の調べによると,果たせるかな以下の様な状態になったとのことである(注:引用された表によると,指定職数が10組織の平均で,なんと3.3倍に増加している).

 

 もう一つ驚くことに,これらの法人の理事長クラスの給料は,一月150万円程度というのだから,もうこれは開いた口がふさがらない.この高給に加えて,退職金が算定される.次々にこの様なポストを,官僚がまわして使うのである.』(http://www.asahi-net.or.jp/~yp3y-wtnb/parash.index.htm )

 

 横浜市大への"お目付け役""パイプ役"としての,官僚の天下りポストも増加することが予想される.

 

 横浜市大で懸念されるのと同様の事態が,全国的な規模で,ただし,"辣腕"官僚支配下にある横浜市大ほどあからさまでないかたちで,進行することが大いに懸念される.そのような状況下では,真理を追究するための"批判的な懐疑の精神""自由の精神"は(ほぼ)完全に"死滅"し,"忠誠競争の激化""しめつけの強化"という大学にとって甚だしくふさわしくない雰囲気がキャンパスを支配することとなり,これではもはや大学とは到底呼ぶことはできず,"大学の死"の到来と言うべきであろう.

 

 橋爪氏や池田氏の目指す大学改革の行き着く先がこのようなものだとしたら,それは,われわれ大学人はもとより一般の市民が求める大学の理想像からも,程遠いものと言わざるをえない.

 

 豊島氏も,つぎのように断じている.『・・・(独法化は,)独立行政法人制度の「独立」という言葉とは正反対に,文科省の大学支配の合法化以外の何ものでもない.このような制度が実現してしまえば,大学は今まで以上に国民にではなく「官」にばかり気を使い,天下りが横行し,研究は論文数にこだわって短期的成果ばかりを求めるようになるだろう.そして何よりも大学が社会に対して持つべき重要な役割,すなわち批判者としての役割は最低限のレベルに落ち込むだろう.そのような国家がどのような危険な道を辿ったかは,我が国の近い過去を見れば明らかである.

 

 すなわち独法化とは,憲法二三条の「学問の自由」とその保障としての「大学の自治」に対する,そして教育への官僚支配を禁止した教育基本法一〇条に対する真っ向からの挑戦なのである.言い換えればこの制度は「悪い」というよりむしろ違法なのである.憲法や教育基本法に罰則がないから見過ごされていいというものではない.』(豊島氏による前掲の『政府が実施を急ぐ独立法人化 大学の"独立"は逆に失われる恐れ』より)

 

 したがって,少しでも想像力を働かせてみたならば,学問の自由と大学の自治を担保している成文法である教育公務員特例法を廃止した独法化後の大学は,まさに取り返しのつかない状況に陥っており,そのときになって気がついてももう遅いということが分かるはずである.つまり,現状においては,文科省は法的な根拠を欠いているが故にあからさまでない形でしか,学問の自由と大学の自治を侵害できないでいるのに対し,ひとたび「国(公)立大学(独立行政)法人」法を成立させた後では,法的な根拠を手に入れたことにより(それでも,なお憲法および教育基本法に違反した違法状態であることに変わりないのであるが),あからさまな形での蹂躙を一挙に横行させる事態になるのは明白であろう.

 

 このような政府のやり方は,国家権力の恣意的な行使を法の拘束により防止するという"法の支配"の根本原則を踏みにじるものであり,ウォルフレン氏の指摘している日本の悪しき伝統をますますはびこらせることになる.

 

 「法の庇護を受けない国民」「・・・日本の歴史のどこを見ても,日本の一般市民に法律が自分たちを護るためにあるという考え方はなかった.伝統的な日本の法律は,合理的で哲学的な正義の原理を積み上げて法体系を作り上げたのではなく,民衆を盲従させるための命令を一覧表にしたとしかいえないものであった.」(『日本/権力構造の謎』,上,p.419)・・・

 

 「・・・概して日本人は,法律というものは政府がその意思に従うよう国民に強いるための強制手段だといまだに考えている.」(同上書,p.422)・・・

 

 「・・・一般大衆に適用される時,法律はいまだに「苦痛あるいは罰の同義語」なのである.」(同上書,p.423

 

 なお,前富山国際大学教授の伊ヶ崎暁生氏は,その著書(『学問の自由と大学の自治』,三省堂,2001年)の中で,ナチス・ドイツの大学改革について述べているが,ナチスの大学管理制度と現在進行中の国公立大学改革の目指す大学管理制度を比較したとき,国家統制や中央集権化の度合いにおいて,両者が酷似(もしくは,独法化後の大学管理制度がナチスのそれを凌駕さえ)している点が大変気になる.

 

 伊ヶ崎氏は,つぎのように述べている.『このようなファッショ的教育政策は,大学にまで及んだ.ドイツの大学は,十八世紀以来,その自治の組織を誇っていた.しかし,ナチスはそれを無残にもふみにじった.・・・一九三三年一一月,「プロシャ大学管理統一に関する規準」が公布され,その後,一連の措置によって大学の自治権は大幅に縮小された.自治の中枢であった評議会の権限は総長に移され,総長は評議会を諮問機関として必要に応じて召集した.学部長の決定権も総長が掌握した.その総長の任命は評議会の建言に基づいて文部大臣が決定し,学部教授の選任にも文部大臣の許可が必要とされた.・・・「従来の教授会および評議会を支配していたデモクラシーの投票的形式による管理方法が,ナチスの指導者原理に取って代られ,大学と国家との関係が根本的に改変された」(外務省調査部『独逸の教育文化社会政策』一九四一年)のである.』(同上書,p.177

 

 また,戦前においてさえ,(東京帝国大学)総長は教授会の無記名投票による民主的な選挙により選出されていたが,この慣行を,当時の軍部が文部大臣(荒木貞夫陸軍大将)を通じて記名投票に改めさせようとした事件の際に,毅然としてこれに抗議した『南原 繁教授は,事件の渦中で,『帝国大学新聞』(一九三八年九月五日)に「大学の自治」を論じ,次のように主張した.・・・「・・・我が国はナチス=ドイツが中央集権的統一を急にして,大学に対する政治的統制強化の甚だしい態度とは,根本的に相違するものがなくてはならぬ.・・・今回の改正案は不幸にしてナチスの政策に近似し,或は其の程度に於て寧ろ凌駕するものをさえ想わしめるのは,真に我が国家のために遺憾に堪えぬところである.必要なことは,自由と自治の精神を抹殺することではなくして,これを真に活かすことでなければならぬ.・・・学問が真に国家のための研究たるためには,常により高き精神的価値或は理念に結びつけて,国民生活を作り上げてゆかなければならぬ.それには学問自由の研究と批判とが絶対に必要であり,大学の生命はここに存する.」(同上書,p.86,87

 

 当時の軍国主義的・超国家主義的風潮を思えば,今日,南原 繁氏の言葉に接して,氏の強固な信念とそれに裏打ちされた勇敢さに,心を動かされぬ者はいないであろう.

 

 なお,日本経済史を専門とする平氏は,『1940年に近衛文麿内閣の下で,この年ヨーロッパ大陸を全部占領した「ナチス・ドイツに続け」という「新体制運動」というものが展開され,「バスに乗り遅れるな」というスローガンの下で軍部主導のファッショ体制があっという間に固まり,その秋に三国同盟締結,そして翌41年末に対米英戦争の開戦から破滅の道を日本はたどりました.』と述べているが,当時の状況が最近の国公立大学独立行政法人化の潮流とよく似ていることに留意すべきであろう.

 

 実際,当時と同様に,"少数者の良心的な声"などまったくかえりみることなく,"バスに乗り遅れるな"とばかりに,一斉に「トップ30=21世紀COEプログラム」の申請を競い,文部科学省や横浜市大当局の意向を汲む形で「中期目標・中期計画」策定に邁進するという状態で,このまま進めば,"大学破滅の道"をたどるのは必至の状況である.

 

 最近の憲法"改正"とセットになった教育基本法"改正"の動きと合わせて考えれば,現状においてさえ"形骸化""骨抜き化"が進行して危機的な状況にある日本の民主主義が,さらに"瀕死の状態"(もしくは,"死の宣告")に直面しようとしているのは明らかである.まさに,横浜市大の「学生によるもうひとつのあり方懇」(http://www2.big.or.jp/~yabuki/ 参照)の言うところの"崖っぷち"状態にあると言える.

 

 たとえば,この間の動きを最も熱心に推進してきた"反動陣営の首領(ドン)"中曽根康弘氏は,つぎのように述べている.「われわれの目標の一つが憲法改正です.憲法には統治も司法も外交も安全保障も教育も全部入っている.明治政府が明治憲法をつくったように,いま日本の国家像をはっきりさせないといけない.それに付随して教育の法整備がある.明治二十二年(一八八九年)に明治憲法ができ,二十三年に教育勅語ができた.マッカーサーが原案をつくった現行憲法が昭和二十一年(一九四六年)に公布され,教育基本法が二十二年にできた.われわれがいま,新しい憲法を改正しようとしているのも明治時代と同じ過程を歩んでいるわけで,日本民族の歴史,伝統的体質,同化力が出てきたと思う.」(中曽根康弘・西部 邁・松井孝典・松本健一,『論争 教育とは何か』,文春新書,2002年,p.129-130

 

 したがって,現在の状況が橋爪氏の言うような「政治権力が大学教授を弾圧しようとして,目を光らせている−そんな時代は,とっくに過去のものになった」(『橋爪大三郎の社会学講義2』,p.89)などという"ノー天気"に楽観視できるような状況にないことは明白である.もし,橋爪氏が本気でそのように思っているとすれば,日本社会の現実や歴史についての分析力の貧弱さを,またしても自ら証明することになるし,逆にもし,社会学の専門家として事実を知りながら偽りの情報を発信したのだとしたら,極めて悪質ということになる.

 

 われわれ大学人は,丸山真男氏による40年以上前の警鐘の言葉,すなわち,憲法12条(「この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない.・・・」)と97条(「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって,これらの権利は,過去幾多の試練に堪え,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである.」)が密接に関連していることについての警鐘の言葉に,今一度,真剣に耳を傾けるべきである.

 

 「・・・私たちの社会が自由だ自由だといって,自由であることを祝福している間に,いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない.・・・

 

 ・・・近代社会の自由とか権利とかいうものは,どうやら生活の惰性を好む者(「権利の上にねむる者」),毎日の生活さえ何とか安全に過せたら,物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人,あるいはアームチェアから立ち上るよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持主などにとっては,はなはだもって荷厄介な物だといえましょう.」(丸山真男,『日本の思想』,岩波新書,1961年,p.155,156

 

 国立大学の独立行政法人化の潮流を先取りしたかたちで,また,行政改革・構造改革の潮流のしり馬に乗って,橋爪氏と池田氏のコンビが強引に押し進めようとしている,大学を破壊・破滅に導く"改革"の動きにたいして,われわれは何をなすべきか?

 

 ウォルフレン氏のつぎの言葉は,(審議会を懇談会に読み替えることで)大いに参考になる.

 

 「しかし,審議会をすぐになくすことはできそうもない.・・・とはいえ,市民であるみなさんにもできることはある.・・・知識人や圧力団体の代表が審議会に参加すると,市民から批判されるという状況を徐々につくっていくべきだ.それと同時に,市民は制度としての審議会そのものを,日本の国民を裏切るものとして徹底的に批判しなければならない.」(『人間を幸福にしない日本というシステム』,p.304,305

 

 横浜市大の管理者的教員の多くが,大学にとって最も重要なものは何かを考えることをやめ,また,橋爪氏の威圧的な発言や池田氏の脅しに屈して,権力にすり寄ることで歓心を買おうと"卑屈"にふるまっている(ようにみえる)のを見るにつけ,また,一般の教員の多くもそれに影響されて,"しかたがない"とすっかり諦めている(ようにみえる)のを見るにつけ,ウォルフレン氏のつぎの言葉は,再び,勇気と力を与えてくれるはずである.

 

 少なくとも,私は大いに勇気づけられ,"臆病の虫"を追い払うことができた.

 

 「日本の上層部の人びとが簡単に脅しに屈するため,多くの外国人のあいだで日本人はみな臆病者だと思われている.・・・怖気づいた市民は,きちんと機能する市民社会を築けない.だから,日本を変えたいと思うなら,脅しにどう対処すべきかを学ばねばならない.これは,口で言うほど容易なことではない.それでも,脅しにたいする簡単な対処法ならある.生命の危険がないかぎり,無視するのだ.脅しは,それに敏感に反応する人だけに効く.恐れなければ,脅迫の標的にされる危険性ははるかに小さくなる.また,もし他の市民が脅されているのを知ったときは,そのことを騒ぎたて,脅迫者の正体を暴くのが一般に効果的だ.・・・あなたの態度や行動を変えるために不当な圧力をかけられたとき,最善の対処法は戦うことだ.最終的には,真の市民となるためには勇気が必要なのである.」(同上書,p.345,346

 

 橋爪氏および池田氏の圧力に抗して,また,独立行政法人化・民営化の潮流に呑み込まれることなく,家永三郎氏や南原 繁氏が身をもって示したように,"荒野に呼ばわる少数者の声を上げる勇気"が,われわれ教員のひとりひとりに求められていると思う.