総合理学研究科長による言論抑圧事件を批判する

 

学則の精神を実践しているのはだれか? 

 

学則基本理念(第1条)実践の道義的責任を持ちながら、

あるいは学則の精神を唱えながら、その実、反対の行動をしているのはだれか?

 

 

-----研究室「大学問題日誌」(200327日)掲載の意見-----------

 200327日 研究室に来て、パソコンを立ち上げて驚いた。総合理学研究科・佐藤真彦先生の勇気ある資料公開に対し、削除させようとするなど、言論弾圧・抑圧が行われたのである(総合理学研究科・佐藤真彦教授の公開意見・経過報告矢吹先生からの情報矢吹先生HP)。あまりのひどさに、すぐには考えがまとまらない。じっくり考えて、意見をこのHPで公開し、世の人々からのご批判を仰ぐことにしよう。いずれにしろ、まさに大学内部における言論の自由、社会における公的な問題に関する言論の自由など、憲法的問題になってきたことだけは確かである(以上、920)

 

検討すべきは、まずはつぎのような事実確認であり、諸論点であろう[1]

  

@  資料(議事録)は本当に「部外秘」に値するものか? 

A  その判断はだれがしたのか? 

B  その判断に追随したのはだれか?

C  その判断に疑問をいだき、批判したものはいないのか?

D  当該資料を「部外秘」とした責任者はだれか? 

E  その根拠・論拠はなにか?

F  秘密とすべき箇所はどこか?

G  「秘密」とすべきだと判断した根拠、その論拠とされたことは、はたして大学の「戦略」を考えるという公的な問題大学の生命、大学の将来という根本的な公的問題に照らし合わせて、妥当か?

H  情報公開における道義性とはなにか? もしも、当然にも(公的利益=公共の利益=大学の利益=大学の生命の利益と論理を判断規準とすれば、当然にも)公開すべき内容の議事録を非公開(秘密)にしたとすれば、それ自体が道義的に問題となる。総合理学研究科の検討で、佐藤教授の行動を「道義的に問題だ」とする意見が出たようだが(佐藤真彦教授公開情報参照)、その道義性の問題は、じつは、内容に即して判定されなければならない。 その場合には、かえって、「部外秘」としたこと自体が、大学人としてあるまじきことになり、その道義性が問題となる。他人を非難する論拠・ものさしは、必然的に、その非難者自身の頭上にも落ちてくる。「道義」の規準を持ち出したものは、今後の調査過程で、その妥当性が問われることになる。

I  企業(私的利益を追求する民間企業)における内部告発の法的保障さえ制度化されようという民主主義の現在の到達点からして、大学、しかも公立大学において、秘密とすべきでないものを秘密として隠蔽・封鎖することは許されるか? 秘密とはなにか、これが決定的に問題となる。 

J  企業の論理(私的利益追求)からすれば、企業内部秘密の告発は「道義的」に(社員・社内倫理により?)罪とされ、告発者自身が不利益処分される。しかし、秘密隠蔽が公的・公共的・社会的には、幾多の悲劇・多大の被害を生んだ。企業内部の利益(私的利益、近視眼的・短期的・表面的利益)からする秘密(その護持・隠蔽)は、社会の利益と論理、公共の利益、市民の生命や利益の論理反する場合がある。企業内の普通の社員、地方自治体・国家の公務員などは、一人一人としては弱い立場にある。その人が重大な秘密(だが公開することが社会と公共の利益となる秘密)を知った場合、どうするか? どうすべきか? 弱い立場の告発者(しかし社会と市民の公共的利益を守る勇気ある人・責任感のある人)を守らなければ、企業秘密が蔓延し、市民や社会の生命と利益が失われる。それが、内部告発保護の法律制定の背景であり、論理である。その公共の論理は、地方公共団体でも国家でも同じであろう。むしろ、公的団体であればあるほど、その点には厳しい態度が求められるであろう。

K  今回の議事録「部外秘資料」公開問題で、事務局責任者は、「地方公務員の守秘義務」を持ち出したようだ(上記、佐藤真彦教授公開情報参照)。事務局(責任者)がこれを持ち出す事例は結構ある[2]。まさに、これが今回の場合あてはまるのかどうか。それこそ重大問題となろう。このような脅迫や不正確な守秘義務理解に屈していいかどうか、それが問題だ。だれがそんな発言をしたのか? その人物には説明責任がある。このことを明確に指摘しておきたい。いずれ調査委員会でその点が明確にされるべきである。

L  大学の部局長で構成する「戦略会議」の議事録は、どのような意味で秘密なのか?どうして秘密にしなければならないのか?どこを秘密にしなければならないのか? 合理的な説明が必要である[3]。 「部外秘」とした事に関するアカウンタビリティが求められている。その議事録は、教授会議事録とどのように違うのか?教授会議事録はすでに公開原則が確立している。教授会議事録公開に関しては、迅速に処理できるように、教授会議事録公開システムも構築されている。公開原則を無視していい理由はなにか?[4] 

M  われわれの場合で言えば、情報公開対象は、戦略会議議事録である。科学技術の自由で豊かな発展、大学の生命・大学の発展に関わる問題、大学の自治学問・思想・言論の自由という憲法的規準からすれば、戦略会議[5]議事録をとうてい「部外秘」として隠しておくことは許されないと佐藤真彦教授は判断されたのであろう。その個人的判断に基づく勇気ある[6]情報公開が、佐藤真彦教授の研究室HPにおける議事録公開である。その民主主義的行動を押さえ込もうとしたこと自体、現在の社会の到達点から言っても、相当に問題となろう。したがって、総合理学研究科長の「削除」要求や、「監督不行き届き」発言(上記の佐藤真彦教授公開情報)は、大学自治破壊、学問・思想・言論の自由の抑圧活動として、逆に、今後、学内外で重大な社会問題となろう。

N  言論抑圧こそは、大学の自治の根本精神、科学技術の自由な発展の制度的法的保障という人類史的・世界的・憲法的な意味で、批判されるべきではないか?

O  言論に対しては、キチンと理路整然と言論による批判で応える(学長声明、戦略会議責任者声明、その他の形式で)のが、言論の自由の本質的構成要件である。人目に触れないように削除するように求めたとすれば、「言論弾圧」といわれてもしかたがないのではないか? その事実(削除要求=言論抑圧の事実)自体を消し去ることはできない。学長設置の委員会は、日本と世界が注目する重大な原理的問題を検討することになる。堂々たる調査検討、その検討過程と検討結果の全面的な公表を期待し、要求する。

P  HPにおける意見公開について[7]・・・佐藤真彦教授の研究室HP掲載が、大学情報システムの「公共財」という一般的な性質から問題とする意見があるようだ。この発想自体、公共の意味をまったく考えない、軽薄な意見だ。大学を構成する「財」には考えが及ぶが、大学を構成する主体・個人の公的責任・公共的責任をしっかり考えたことのない人の発言だ。

Q  情報公開は、あくまでも佐藤真彦教授の個人研究室HPで行われているにすぎない。大学の公式HPではない。その点をはっきりつかんでおかなければならない。佐藤真彦教授個人の大学問題に関する責任ある(こそこそ隠れて陰で発言しているものではない)見解表明、資料=情報公開の態度を人目に触れさせたくない理由はなにか? 大学問題(将来構想)には、多様な(時に対立的な)見解がある。それらの構想について、公然と議論を戦わせてこそ、本当の(民主的な)大学改革ができるのではないか? 橋爪座長の発言が新聞を通じて報道されているのに、なにも大学として反論しないことこそ問題ではないか?戦略会議で議論するさまざまの人の意識内容・意識水準がわかる資料を隠すことこそ、問題ではないか。外部からの、そして内部における無理解・暴言に対し、拱手傍観していて、大学を守り発展させることができるのか?

R  佐藤真彦教授の意見が、いまのところ、大学の「公式」見解でないことは事実かもしれない。しかしそのことは、個人研究室HPと大学公式ページとの違いから明確ではないか? だれも、佐藤真彦教授の見解を、現在の大学の公式見解だとは思わないであろう[8]。佐藤教授は、総合理学研究科長や学長・部局長会議の態度自身を問題とし、経過報告を公開されているのである。

S  私もそうであるが、佐藤教授は、自分の意見を自分の意見として自分の責任で研究室のHPで公開しているだけであろう。この意見表明の方法は決して他人に自分の意見を押しつけるものではない。自分の意見を明確にし、他人からの批判を可能にしているのである。教授会や各種委員会などの場で自分個人の意見表明に長時間をとることは、場合によっては許されない。それに比べて、HPにおける明確な意見の表明は、人に迷惑をかけない方法、じつに物静かなやり方ではなかろうか。読むに値しないならば読まなくていい。HPにおける情報公開・意見表明というやり方こそは、こそこそと隠れて「寝業師」的に動き回ることに比べて、正々堂々たる態度、民主主義的な態度だといえないか。佐藤教授の意見が間違っていると思う人は、陰に(これはすでにおこなわれているであろう)陽に批判すればいいのである。むしろ、問題があると考えるなら、公然と批判することが大学人としての義務でさえある。

21  大学問題(大学改革、そのあり方、どう進めるべきか、未決定の諸問題、これから構想し作り上げていくべきプランの諸問題)という公的公共的なテーマに関する議論だからこそ、それぞれの大学人が自分の研究室のHPを立ち上げ、責任を持って自分の意見を公開すればいいのである。その諸氏百家の議論の百家争鳴・百花繚乱の中で、真に有力な意見が生き残り、影響力を持つように育てていけばいいのである。それこそ大学らしい民主主義的理性的やり方ではないか?

22  そのような現代的意見公開、公論の場としては、HPはすばらしいものだと考える。公式見解もどんどん大学HPで公開すべきである。毅然とした意見を関係各部局責任者が即座にだせないこと、公式見解をただちに出せないこと、これこそ大問題だ。

23  大学というところは、公式(学長、評議会、各部局長、教授会、事務局責任者それぞれ)の見解と各教授の個人的見解が違っていれば、むしろ、それが明確にわかるようにする言論の自由こそが大切である。大学(いや民主主義社会においてはどこでも)は、いろいろな意見のなかから大学(社会)を構成する各人が自分の頭で公正、正義、真実や真理を考え、意見を述べ、発見していく、創造していくことが、むしろ貴重なのではないか? その模範となるべき機関・組織こそが理性の府たる大学であり真理探究につとめる大学の使命(学則第1)ではないか。

24  またそのような使命をになった大学という最も自由で創造的な場での活発でオープンな議論を、可能な限り最大限、関心ある市民に公開し、市民がフォローして、市民としての認識を豊かにし鍛えていくことが大学の役割ではないか? 市民社会の言論の自由を豊かに発展させることは大学の使命ではないか? まさにその試みが、各研究室での各個人の責任でのHP作成ではないか? 今だ、HPを通じる意見表明が少ないことこそ問題ではないか?[9]

25  民主主義精神の深化・発展、各人の自立的精神、各人の個性・自立性・自律性と公的・公共的意思の形成のあり方において、いちばん大切なのは各人(学長として、各部局長として、評議員として、教授として、そして事務局責任者として)の責任ある公的な意見表明ではないか? 

26  私は以上で展開したように、戦略会議という公的組織の、大学の将来を左右する改革問題の議論の内容は完全にオープンにすべきだという立場である。佐藤教授が勇気を持って公開に踏み切られた現在の資料(議事録)でも、公的な地位にある発言責任者の個人名が隠されている[10]という意味で、不充分な情報公開だと考える。助教授クラスの弱い立場の人々の発言は別としても、教授以上の人々、および事務局責任者の発言は個人名とともに完全に公開すべきだと考える。

27  かくして、今回の問題は、まさに大学における民主主義と言論の自由、大学の自治の成熟度が試される問題であろう。これに対する社会の関心度は、また市民と社会の民主主義の成熟度と関係するだろう。

 

しっかりとこの問題を大学人全体が真正面からとらえ、考え抜くことが求められているであろう。委員会が設置されるとのことだが、議論は公開し、各発言者の多様で時に対立的な発言内容を明記し(その意味で本格的な議事録を作成し)、正々堂々と議論すべきであろう。それこそ大学らしい言論の自由の保証された検討のし方であろう(10 時50分、14時半、15時、1540分、16時半、29日、210日、推敲・添削)



[1] 直接の当事者、総合理学研究科長や学長、部局長会議のメンバーは、下記の点に関して、それぞれの見解につき、個別の職務・職責に応じ、学内外に対する説明責任がある。アカウンタビリティは、佐藤教授を批判する側に求められている。

 

[2] 学部教授会でも、不適切な場と問題でそれを持ち出す発言者がいる。議論を抑えこむ手法・手段となる場合がある。

 

[3] 2月6日の商学部定例教授会には、「部外秘資料2」が配布された。部外秘にした理由の説明は特につけられなかった。「部外秘」と「学内資料」とのずれに関係も、説明はなかった。

 

[4] その一つの理由は、教授会議事録のほうにある。公開原則が確立しているので、市民や学内の人々は、入手可能であるから見てみるといいだろう。私がこの間に指摘してきた教授会の議論(とりわけ批判的対立的な論点)が、教授会議事録に明記されているかどうか。

 これは評議会の議事録でも同じである。なにも波風立たなかったとしか思えないような議事録となっている。だからこそ公開している、とさえいえる。本格的な議事録ではないということである。

 

[5] プライベートな、個人的な会議ではない。内容な公人の公的な問題に関する公的な議論である。

 

[6] 私はすでに何日か前の日誌でその勇気と確固たる信念に深甚の敬意を表明した。

 

[7] 研究室HPにおける公的問題に関する意見表明・公開について、苦々しく思い、できれば封殺したい気持ちの人がいる、ということは複数の情報から耳にしている。今回の「部外秘」資料公開問題で、その人々は「尻尾をつかんだと思っているので.ご注意を」と親切に助言してくれる人がいる。「守秘義務」違反で、責任追求できる絶好のチャンスと見ていると。

その親しい人との親切さ、助言に感激している。と同時に、なお、このHPでの意見公開は大学改革のために必要な事と信じ、可能な限り継続したい。

今回の「言論抑圧事件」は、私の考えでは、むしろ、学長設置の委員会がきちんと調査を公開で進めれば、HP封殺を狙った人々の墓穴を掘ることになるのではないか、とも見ている。

 

[8] だが、将来は佐藤真彦教授の見解が、大学の正式の見解になりうる。大学の意思形成に対する主体的能動的寄与が、佐藤真彦教授のHPでの意見公開である。

 

[9] 私の「大学問題日誌」開設は、昨年5月であり、大学予算問題に関する若手教員の問題提起と悲鳴の声を聞いてからである。多くの人が、研究と教育に忙しく、その気持ちはあってもHP立ち上げまでには至らないということであろう。

 

[10] 匿名性の背後に隠れて、浅薄ないいたい放題のことをいっている人物がいる、というのがこれまでこのHPで指摘してきたところであり、私の見方である。