公立大学の独立行政法人化をめぐって

横浜市立大学教員組合執行委員長 藤山嘉夫



<4月25日に衆議院へ送付!「地方独立行政法人法案」>

今国会に「国立大学法人法案」が上程されたのに続き、4月25日に「地方独立行政法人法案」が閣議決定され、同日、衆議院総務委員会に送付されました。独立行政法人化は、行政機関を政策企画立案部門と実施部門に分離し、前者を行政当局に、後者を本省庁から独立させます。法人は、大臣の設定した「中期目標」に従って「中期計画」を作成し、それに関して大臣の認可を受け、その達成度は行政当局の評価を受けます。この評価によってその後の法人の予算や組織のあり方まで行政当局によって統制が強められることになります。

なぜこのような独立行政法人化が進められるのでしょうか?ことの発端は、公務員の削減を直接的な目的とした国の行財政改革にあります。当初は、「国立学校」は独立行政法人化の対象とされていませんでしたが、公務員の新たな削減計画を実現するために、小渕内閣が「国立学校」をもその対象として拡大しました。そして、平成12年12月1日に閣議決定された「行政改革大綱」では、「国における独立行政法人化の実施状況を踏まえて、独立行政法人制度についての地方への導入を検討する」とされるに至りました。

<自主・自律?>

ここで注意したいのは、以上の経緯を踏まえるならば、「国立大学法人法案」も「地方独立行政法人法案」も共にそもそも大学改革の理念を掲げて提起されたものではなく、公務員削減を企図しての行財政改革がその出発点であったということです。しかし、「行政法人」という語の頭に「独立」と冠せられていることの効果もあり、また、文部科学省も大学の裁量が強化されることを強調し、国立大学の構成員の中にも従来の文部科学省による直接的な大学コントロールを離脱できるかの印象もふりまかれました。公立大学について言うならば、全国の公立大学を会員とする「公立大学協会」は、平成15年1月に「公立大学法人化への取組み」という文書をまとめて、その中で、次のように主張しました。

<公立大学協会の言う「内的要請」>

このなかで、公立大学法人化には「内的要請」があるとして、次の3点を指摘しています。1)近年公立大学が急増し、「公立大学はわが国の高等教育の隊伍の中ですでに確固たる地歩を築くに至っており」、国立大学と対等で共通の「制度的前提条件」を必要としているのであり、「公立大学法人化は・・・自主・自律を求める公立大学の内的要請のひとつ」だと言っています。2)少人数教育を機軸とする「丁寧な教育」をする上で不可欠な「創造性を担保するために・・・自主自律的な当事者能力」が不可欠であり、また、研究の展開においても「決定的に必要となるのは創造性の基盤としての自主的自律的な体制」であることが強調されています。さらに、3)「公立大学のレーゾンデートルである地域貢献を推進しようとすればするほど自主・自律への内的要請」も高くなることを主張しています。

しかし、「地方独立行政法人法」による公立大学法人の設置する大学は、果たして公大協の期待するような「自主・自律」を実現しうるのでしょうか?

<行政からの自立か行政による統制の強化か?>

公立大学法人化は、現在上程されている「国立大学法人法案」という形の特例法によってではなく、「地方独立行政法人法案」の「特例」という形で位置づけられています。先に触れた行政からの大学の自立がこの「法案」によって促進されることになるのか否か?「法案」に即してみていくことにします。

1)公立大学法人に関する「特例」

公立大学法人の設置する大学が、なぜ「特例」という形で位置づけられなければならないのでしょうか?それは、たとえば報道機関が行政から独立していなければ公正な報道が保障されないように、学問研究の自由な発展のためには、大学が行政権力から独立していることを必要とされているからです。だからこそ、教育基本法第10条は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。A教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するのに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」、と謳っているのです。

国立大学が「国立大学法人法案」という特例法として、また、公立大学法人が「地方独立行政法人法案」の「特例」として位置づけられざるを得ないことの背景には、教育研究を行う大学をその他のさまざまな独立行政法人と同列には扱い得ないこうした事情があるのです。法案の第69条が、「設立団体は、公立大学法人に係るこの法律の規定に基づく事務を行うに当たっては、公立大学法人が設置する大学における教育研究の特性に常に配慮しなければならない」として、配慮義務を規定しているのはそのためです。

2)「中期目標」等

先に触れたように独立行政法人においては行政当局が法人の業務に関し「中期目標」を定め、法人はこれを「中期計画」「年度計画」として具体化し、「評価委員会」の評価を受けることになります。公立大学法人については、これに関する「特例」として、「設立団体の長は、公立大学法人に係る中期目標を定め、またはこれを変更しようとするときは、あらかじめ、当該公立大学法人の意見を聞き、当該意見に配慮しなければならない」(第78条3)としています。「特例」としての配慮義務を規定しているわけで、これが実際にはどのような扱いを受けるかは今後の展開如何です。しかし、あくまでも「中期目標」の策定主体は法人の設立団体の長にあることに注意されねばなりません。

また、「国立大学法人法案」との関わりで注意されなければならないのは、文部科学省が「中期目標」に関する詳細な枠組みをも提示しているという点です。各大学での「中期計画」の策定はこれにかなり制約されたものとなります。地方自治体当局がこうした文部科学省の方式を踏襲することは十分に予想されます。したがって、これは相当に拘束力の強いものとなると考えられます。しかも、この「中期目標」を達成する計画としての「中期計画」を公立大学法人が作成し、「設立団体の長の認可をうけなければならない」(第26条)ことになっています。このようにみてきますと、文部科学省は法人化によって大学の裁量が増えるといっていますが、むしろ逆に行政による大学への統制が極度に強化されることになり、「教育は不当な支配に服することなく」という教育基本法第10条の精神を大きく逸脱することになります。

3)評価について

「地方独立法人は、設立団体の規則で定めるところにより、中期目標の期間における業務の実績について、評価委員会の評価を受けなければならない」(第30条)とされています。そして、大学については評価機関による評価の「特例」として、学校教育法に定める「認証評価機関の教育及び研究の状況についての評価を踏まえることとする」(第79条)と、評価の客観性を担保するかのような規定を置いています。しかし、この「認証評価機関」を「認証」する主体は、文部科学省であり(学校教育法第69条の4)、その意味で、厳密には評価の第三者性は担保できているとはいえません。

4)人事や組織について

「公立大学法人の理事長は、当該公立大学法人が設置する大学の学長となるものとする」(第71条 「学長となる理事長」)とされ、ただし、学長を理事長と別に任命することも出来ることとされています。「学長となる理事長」の任命は、「当該公立大学法人の申出に基づいて、設立団体の長」が行ない(第71条2)、この「申出」は、当該公立大学法人の設置する大学におかれる「選考機関」の選考によって行われることになっています(第71条3)。そして、この「選考機関」は、大学におかれる「経営審議機関」と「教育研究審議機関」の構成員によって構成されるものとされています。

そうなりますと、この2つの「審議機関」がどのような構成となるのかが重要な意味を持ってきます。「経営審議機関」は、理事長、副理事長等から成り、「教育研究審議機関」は、学長、学部長等により構成されるとしています。理事長が学長となる大学の場合、副理事長は理事長によって任命されますから(第14条3)「学長となる理事長」の影響力が甚大なものとなります。場合によっては、自らを選出するといった循環的人事の可能性も否定できなくなります。

また、「学長を別に任命する大学」の場合、「学長の申出に基づき」、理事長が副学長、学部長、部局長、教員を任命・免職・降任する権限を持っています(第73条)。したがって、理事長の専断的体制が組まれる可能性を否定できません。

大学において教育と学問研究を発展させるには、学外に対して開かれた制度を模索しつつ、かつ、大学構成員による自由で民主的な意思決定のシステムが確保される必要があります。しかし、「中間目標」・「中間計画」・事業評価と相俟って、このようなあまりにも専断的な人事制度は大学の活性化を著しく阻害することになるでしょう。 

平成15年4月の文部科学省の「地方独立行政法人法案における『公立大学法人』制度の概要」では、「地方独立行政法人法案」を特徴づけて、「『国立大学法人』の制度設計にならい、必要な特例を規定。ただし、具体的な法人の組織・運営等は、地方自治体の裁量にゆだねる弾力的な制度」と述べています。「法案」では組織・運営等については法定していないものが多く、それらについては議会で定める「定款」によるものとしており、大学の自立的な対応によるよりも行政当局と議会の判断が優先される可能性が極めて高いといえます。その点でも今後の統制強化への懸念は増幅されざるを得ません。

<「成果」主義の弊害>

教育・研究は一定の長期的な見通しの下に自由な発想で進められてこそ真の成果が期待されます。しかし、見てきたような行政当局の要請による短期的な計画と評価のもとでは、短兵急で行政当局受けの良い教育・研究が支配的になってしまいます。

短期間では成果の期待できないような基礎的な研究が存在することが大学においては不可欠なのです。そのような基礎的研究の蓄積の中から大きな世界的発見が生み出されてきた歴史的な事例は指摘するに事欠きません。

2002年のノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏は、毎日新聞のインタビューに対して次のように述べています。「ニュートリノをとらえることは、どのような役に立つのでしょうか」という記者の質問に対して、小柴氏は、「役に立たない。役に立たない研究も大事です。人類共通の知識、知的財産を増やせるだけでもいいと思います」(毎日新聞 2002年10月9日)、と答えているのです。もって肝に銘ずべきでしょう。

即座には答えの出ない事柄にチャレンジしていくことは、社会が活性化していく上でも不可欠です。もしある社会が、目先の経済効率のみに目を奪われ、既存の社会の枠組みを超え出るさまざまな要素を不断に作り出せないとすれば、その社会は衰退の道をたどるしかありません。大学は、既存の社会的枠組みを越え出て行く批判的な要素を不断に形成する「批判者」としての役割を歴史的に果たしてきましたし今後も果たすべき使命を持っています。これを担いうるようなチャレンジングな人材を養成し、また、そのような質の研究を展開することは、社会に対する大学の独自の役割だと考えられます。短期的な「成果」主義的な傾向はこれを阻害することになります。

<市民の多様なニーズに答える大学に>

先の公立大学協会の文書において指摘されていますが、18歳人口減少期に入っても全国の公立大学は文字どおり急増しています。1997年には、85年にくらべて40.4%増の57校となり、2002年にはさらに24%増えて75校となり国立大学の数に急速に接近してきています。

長期不況にもかかわらず公立大学が急増していることの背景には、地元の人材育成、地域文化や地域経済の活性化、総じて地元住民の地域社会の活性化への期待があります。地域社会の活性化には何よりも多様な市民の多様な意見やニーズが存在していることこそが重要です。「地方独立行政法人法案」は極めて制約された研究と教育を大学に要請してくることになります。このことは、大学が、市民の多様なニーズに答えつつ「地域貢献」を推進する上で、むしろ大きな障害となります。地方自治の発展に寄与すべき地方公立大学にとっても、市民にとっても、それは決して好ましいものではありません。

さらに、独立法人化された大学においては授業料の高騰も必至であり、教育の機会均等の原則上からも、やはり市民にとって決して好ましいものではありません。