成嶋 隆:「大学改革」― 教育基本法の≪葬送≫

 

小特集「大学改革」がもたらす荒廃,『世界』2003年5月号より抜粋

 

「法人法案」の最も重大な問題点は、文科相が決定・認可する「中期目標」「中期計画」の達成度を第三者評価にかけ、その結果に基づいて運営費交付金等を選別的に配分するというその仕組みにある。このようなシステムは、戦前の大学制度においてさえ存在しなかったものであり、諸外国にも例をみない、きわめて国家統制色の強い制度である。実際、文科省・国立学校財務センターの〇〇年一月の調査報告でも、米・英・独・仏の四カ国のうち「政府による目標の指示、実行計画の認可、変更命令というような『独立行政法人』的手法を採っている例はない」とされている。文科省自身、九七年には次のように述べていた。「文部大臣が三−五年の目標を提示し、大学がこれに基づき教育研究計画を作成、実施する仕組み、及び計画終了後に、業務継続の必要性、設置形態の在り方の見直しが制度化される仕組みは、大学の自主的な教育研究活動を阻害し、教育研究水準の大幅な低下を招き、大学の活性化とは結びつくものではない」。

・・・神戸女学院大教授・内田樹は、このことを次のようにきわあて平明な表現で語っている。「大学の社会的機能の一つはその時代の支配的な価値観とずれていることだと私は思う。…その『ずれ』のうちに社会を活性化し、豊かにする可能性がひそんでいる…。『市場にすぐ反応して、注文通りの人材を提供する大学』なんか、私が受験生なら御免こうむりたいけれど。」

 

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「大学改革」― 教育基本法の≪葬送≫

 

国立大学法人法案による「大学改革」は,教育基本法改正のもくろみと同じく国家戦略上の重要性をもち,しかもこの二つの動きは連動している。

 

成嶋 隆

 

 三月二〇日に出された中教審答申は、そのタイトル(「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」)どおり、文部科学大臣に対して、教育基本法(以下、教基法)の明文による改正を提言した。文部科学省は、これを受けて「教育基本法改正法案」の今国会への提出を予定している。戦後日本の公教育のありかたを提示してきた教基法の明文改正が、制定後初めて、具体的な政治日程に浮上してきたのである。

 

 中教審による教基法改正の提言には、多くの問題点がある。ここでは二点だけ指摘しておく。

 

 第一は、現行教基法に「愛国心」や「公共の精神」といった新しい徳目を盛りこむべきだとしている点である、諸個人がどのように国家と向きあうかということがらは、日本国憲法の保障する、「思想・良心の自由」の問題であり、諸個人の自律的判断にゆだねられるべきものである。《国家への忠誠》を法規範に掲げることは、国家が個人の内心に立ち入るものであり、明らかに違憲の所為である。答申は《国家への忠誠》のみならず、《規範意識》や《遵法精神》など、法そのものへの忠誠をも要求している。これは、国家権力を拘束すべき規範であるはずの教基法を、国民を拘束する規範へと変質させるものである。かの教育勅語は、「国憲ヲ重シ」「国法ニ遵ヒ」

と国民に《遵法》を説いていたが、これと同じ発想にたつ答申は、教基法を限りなく教育勅語的なものにしてしまうかもしれない。

 

 第二は、答申が教基法に「教育振興基本計画」を策定する根拠となる規定を盛りこむべきだとしている点である。すでに各種の政策領域で採用されている≪基本法-基本計画≫のスキームは、政府肝いりの審議会の答申等を隠れみのとし、実質的に官僚主導で策定される国家計画が一定期間の政策・行政を先取りし、関係立法や予算編成を誘導するどいうものである。計画策定に国民代表機関である国会は関与せず、その内容は行政機関への≪丸投げ≫となる。具体例として、科学技術基本法に基づく科学技術基本計画の場合をみてみよう。〇一年度からの第二期計画には二四兆円もの研究開発予算があてられている。計画に基づく重点研究分野の指定、予算の重点配分、そして研究評価シスチムの構築などは、内閣府に設置された総合科学技術会議が担当しているが、同会議には九〇人におよぶ省庁からの出向者が事務局スタッフとして送りこまれており、計画の策定から実施まで官僚主導が貫徹している。このような実態をみると、≪基本法―基本計画≫のスキームは国民主権・議会制民主主義・法の支配といった憲法の諸原理に背反することがわかる。答申は、公教育全般にこの違憲のスキームを導入しようとするものにほかならない。

 

さて、教基法の改正問題に先行するかたちで、もう一つの重要な問題が急展開している。すでに閣議決定され、国会に提出された「国立大学法人法案」(以下、「法人法案」)の問題である。政府は、この「法人法案」を通常国会の前半で≪処理≫し、後半国会で教基法改正をにらんでいる模様であり、政治日程上も教基法改正の≪前哨戦≫となっている。「法人法案」に描かれた「大学改革」の青写真は、わが国の高等教育と学術研究のありかたを根本的に改変するものとなっている。大学は公教育の最終段階に位置するから、その変容は高等教育への準備段階ともいえる初等・中等教育など公教育全体に波及する。だが、そうした一般的な波及効果より以上の、あえていえば公教育全体に対する≪破壊的効果≫を、今般の「法人法案」は秘めている。別の角度からいうと、この法案は、わが国の公教育制度の根幹をなしている教基法の規範精神を根底からくつがえし、実質面から教基法の明文改正への≪露払い≫の役割を果たす危険性を内包しているということである。

 

以下、本稿では「法人法案」による「大学改革」が教基法明文改正の実質的な先取りとなるゆえんを明らかにしたい。

 

1 教育改革における「大学改革」の位置

 

 今日、「構造改革」という名の国家構造の全般的な改革が進行しており、教育改革は、そのなかでも基幹的な部分を占めている。それは、何よりも公教育が国民統合という国家的課題にとって最も有用な制度装置だからである。その教育改革において、高等教育改革(および科学技術改革)は、初等・中等教育改革に先行して行われてきた経緯がある。

 

 たとえば、九〇年代半ばから始まる現在の教育改革は、臨時教育審議会(八三−八七年)の諸答申に基づく、いわゆる「臨教審」改革がその≪起点≫となっているが、「臨教審」改革は高等教育と学術の分野から着手されている。「臨教審」改革法案の第一号は、大学審議会の設置に向けた学校教育法・私立学校法の改正(八七年)であったし、その大学審議会は、「研究の高度化・個性化・多様化」「組織運営の活性化」「社会との連携の促進」「国際化の推進」などの課題で精力的な審議を行い、〇一年に中教審の一分科会に編入されるまでの間に、一五本の答申を行った。それらは、学校教育法・国立学校設置法・大学設置基準などの法令の改正により、ほぼ九〇年代前半までに法制化されている。注意すべきは、この「臨教審」改革においてすでに、今回の「法人法案」の下準備ともとれるような高等教育改革がなされていたことである。大学教員の任期制の導入、民間資金の導入による寄附講座の開設、「自已点検・自己評価」システムの導入などである。

 

 教育改革における高等教育部門の相対的重点化は、目下進行中の、そして教基法の明文改正を射程に入れた教育改革においても確認される。最新の資料として、冒頭に紹介した中教審答申をみてみよう。同答申の「第2章 新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について」は「1 教育基本法改正の必要性と改正の視点」の項で、「21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」という観点から必要とされる理念・原則として、「@信頼される学校教育の確立」の次に「A知の世紀をリードする大学改革の推進」を挙げている。その部分の解説はこうである。―「これからの知識社会における国境を越えた大競争の時代に、我が国が世界に伍して競争力を発揮するとともに、人類全体の発展に寄与していくためには、知の世紀をリードする創造性に富んだ多様な人材の育成が不可欠である。そのために大学・大学院は教育研究を通じて重要な役割を担うことが期待されており、その視点を明確にする」。

 

 一読して明らかなように、この提言は、現在の教育改革の《駆動因》とでもいいうる《メガ・コンペティション時代における国際競争力の強化》という命題に直結している。かかる国家戦略を遂行するうえで、公教育の最終部門である高等教育とそこにおける学術研究を、グローパル展開する日本企業と、「国際社会において存在感を発揮」(答申第1章)しようとする日本国家が掌握・統制することが不可欠の課題となる。

 

教基法は、日本の公教育全体についてその基本理念・原則を定めるものである。したがって、学校教育の各段階ごとの個別の規定を置いていない。その教基法の改正を提言する今回の中教審答申が大学改革に相対的な重点を置いていることは、この課題がいかに国家戦略上の重要性を担っているかを示している。

 

2「法人法案」における大学の国家統制

 

 今般の「大学改革」については、当初より、これまで文部(科学)省の《支配下》にあった国立大学が「法人」に移行することで、自主性・自律性を保障されるかのような《幻想》が支

配していた。「法人法案」が国会に提出され、その《実相》が明らかとなった現段階にあっても、その《幻想》は払拭されていない。だが、「法人法案」における「国立大学法人」像は、すさまじい国家統制のシステムであり、前述のように、教基法を頂点とするわが国の公教育のありかたに破壊的な影響をもたらすものである。

 

 「法人法案」の問題点については、本特集の田端論文が詳細に分析しているので、ここではその要点を示すにとどめる。

 

@国立大学の設置主体が「国」から「国立大学法人」に変更され、大学設置にかかる費用負担の第一次的責任が法人に転嫁される。

 

 A文科相による.「中期目標」「中期計画」の決定・認可、達成度に関する第三者評価、評価結果に基づく運営費交付金の重点的・選別的配分や業務の改廃といった仕組みの導入により、国立大学の教育研究に対する国家統制が強まる。

 

 B学長・役員会の権限の強化などトップダウン型の大学運営となる。

 

 C役員会・経営協議会ともに、学内事情に精通していない学外者が含まれる(後者については過半数が学外者)。学外者の運営参加のしかたも、当初の構想における「モニタリング」機能をはるかに超えるものとなっている。

 

 D学長選考は学外者の加わる学長選考会議で行われ、学外者の影響が強まる反面、学長が構成員の意思に基づく民主的正統性を獲得しえないことになる。

 

 E法人化後、教職員の身分は公務員でなくなる(非公務員型)。教育公務員特例法の非適用、教員任期制の大幅な導入などでその身分の流動化・不安定化が進行する。

 

3 教育基本法一〇条

 

 以上、「法人法案」の主な問題点をみてきた。ここに描かれた国立大学像は、わが国の高等教育と学術研究を担ってきた国立大学を根底からくつがえすものである。それはまた、教基法との間に厳しい緊張関係をはらむ。ここでは、教基法の諸規定のうち、教育行政に関する同法一〇条との関係に焦点を絞りたい。

 

 教基法一〇条とは、次のような規定である。

 

 @教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。

 

 A教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 

 本条文は、教基法のすべての規定のなかでもとくに重要なものであり、この法律全体の規範精神を代表する規定である。というのも、教基法そのものが「教育勅語体制」「天皇制教学体制」と呼ばれた戦前の国家主義的・軍国主義的な教育法制を否定し、日本国憲法に示された個人の尊重・平和主義・民主主義などの原理に基づく新しい教育のありかたを提示するために制定されたからである。そこで否定されたのは、教育勅語に盛りこまれた天皇制イデオロギーを、勅令(=天皇の命令)に基づく中央集権的かつ官僚主義的な教育行政を通じて国民に植えつけるという教育のありかたであった。戦前における教育の官僚統制の弊害については、教基法の立法事務に携わった文部官僚らが執筆した『教育基本法の解説』(一九四七年、以下『解説』)において、次のように指摘されている。

 

 「わが国では、明治五年に学制をしき、全国の教育制度を統一するとともに、教育行政上の権能を中央政府に統括するの主義を確立した。…しかしながらこの制度は、地方の実情に即する教育の発達を困難ならしめるとともに、教育者の創意と工夫とを阻害し、ために教育は画一的形式的に流れざるをえなかった。又この制度の精神及びこの制度は、教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂には時代の政治力に服して、極端な国家主義的又は軍国主義的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた制度であつた。…このような教育行政が行われるところに、はつらつたる生命をもつ、自由自主的な教育が生まれることは極めて困難であった」。

 

 以上が、教基法一〇条の《立法者意思》である。この趣旨のもとに制定された同条には、次のように重要な規範が示されている。

 

 第一は、「不当な支配」の禁止規定にみられる「教育の自主性」原理である。この規定は、憲法二三条および教基法二条における「学問の自由」の保障・尊重という趣旨を受け、教育が自主的・自律的に行われるべきことを定めたものである。この規定をめぐっては、「不当な支配」の主体はだれかという点が論争の的となってきたが、先の「解説』の趣旨からは、「不当な支配」の主体として筆頭に挙げられるのは、ほかならぬ教育行政当局であることが確認できる。『解説』の別の部分では、「教育に侵入してはならない現実的な力として、政党のほかに、官僚、財閥、組合等の、国民全体でない、一部の勢力が考えられる」としているが、これを現代風に読み替えるならば「政権与党、文部官僚、財界団体」などによる「不当な支配」が同条により禁止されていることになる。

 

 ところで「不当な支配」禁止規定をめぐっては、以上のような解釈と、政府による行政解釈とが対立している。その行政解釈とは《法令に基づく教育行政機関の教育への関与は、それが教育内容に及ぶものであっても「不当な支配」に該当しない》というものであり、政府・文科省は、この《解釈》に基づいて、たとえば学習指導要領による教育実践の統制や、教科書検定による教科書の記述内容の統制を《合法》と強弁してきた。しかし、この主張は、教基法の趣旨を曲解するものといわざるをえない。この点、六〇年代初頭に全国いっせいに行われた学力テストの適法性や学習指導要領の法的性格などが争われた、いわゆる「学力テスト事件」の最高裁判決(一九七六・五・二一)が、次のように判示しているのが注目される。―「教育行政機関は教育関係法律を運用する場合にも教育基本法一〇条一項にいう『不当な支配』とならないように配慮しなければならない。その意味で、同条は法令にもとづく教育行政機関の行為にも適用がある」。

 

 教基法一〇条における重要な規定として、次に一項後段の「直接責任性」の原理がある。そして本規定をめぐっても、行政解釈と教育法学界における通説的解釈とが対立しているが、ここでは省略する。

 

 「直接責任性」原理とは《子どもの教育につき第一次的な責任を有する親からの付託を受けた学校教員(集団)が、免許制度により公証された専門的職能の発揮をとおして、直接的に信託に応答する》という責任法理を意味する。教基法が二条で「学問の自由を尊重」するとし、六条で学校教員の「身分の尊重」と「待遇の適正」が期せられなければならないと定めているのは、教員の専門的職能が十全に発揮され、国民の信託に応えることができるようにするためである。

 

 教基法一〇条二項は、先にみたように教育行政の任務を条件整備に限定しているが、これはいうまでもなく、一項の「自主性」原理および「直接責任」原理を受けたものである。つまり、教育行政は、親を中心とする国民と専門職としての学校教師(集団)との間の信託関係の内部には介入すべきではなく、自主的・自律的な教育実践の展開に必要な諸条件の整備確立にその任務が限定されるということを定めたものである。いいかえれば、教育行政は、教育の内容・方法などのいわゆる内的事項(interna)に関与することは許されず、学校設置・施設設備の整備・教職員の配置といった外的事項(externa)の整備に専念しなければならないということである。

 

 この一〇条二項についても、その本来の趣旨を歪める行政解釈がある。先に紹介した《行政による教育内容への関与であっても、それが法令に基づくものであれば「不当な支配」には当たらない》との論法である。しかし、同条の立法者意思や規定の沿革などからすれば、かかる解釈は許容されない。前出の学テ判決も、学習指導要領を教基法一〇条違反ではないとしつつも、それは指導要領が細目に至らない大綱的なものである限りで、また教育実践に対する強制の要素を含まない限りで適法であるにすぎないと判示している。実際の学習指導要領が、この限界を超えていないといえるかどうかは大いに疑問であり、また下級審の判例には、学習指導要領の法的拘束力を否定するものもあるが、最高裁が理念的に示した学習指導要領論はそれなりに重要である。

 

 なお、教育行政の任務について定める一〇条二項との関連で、戦後改革後に改めて設置された(旧)文部省の権限がどのように定められたかを確認しておく必要がある。四九年制定の旧文部省設置法の六条二項は、次のように規定していた。―「文部省は、その権限の行使に当って、法律(これに基づく命令を含む)に別段の定がある場合を除いては、行政上及び運営上の監督を行わないものとする」。この規定は、九九年に制定された文部科学省設置法では削除されているが、中央教育行政機関の本来の職分を定めるものとして、繰り返し想起されるべきものである。

 

4 教基法の規範と「法人法案」

 

 以上、教基法一〇条の規範内容を確認してきた。これらの規範に照らして、「法人法案」はどのように評価されるか。先に検討したように、「法人法案」の最も重大な問題点は、文科相が決定・認可する「中期目標」「中期計画」の達成度を第三者評価にかけ、その結果に基づいて運営費交付金等を選別的に配分するというその仕組みにある。このようなシステムは、戦前の大学制度においてさえ存在しなかったものであり、諸外国にも例をみない、きわめて国家統制色の強い制度である。実際、文科省・国立学校財務センターの〇〇年一月の調査報告でも、米・英・独・仏の四カ国のうち「政府による目標の指示、実行計画の認可、変更命令というような『独立行政法人』的手法を採っている例はない」とされている。文科省自身、九七年には次のように述べていた。「文部大臣が三−五年の目標を提示し、大学がこれに基づき教育研究計画を作成、実施する仕組み、及び計画終了後に、業務継続の必要性、設置形態の在り方の見直しが制度化される仕組みは、大学の自主的な教育研究活動を阻害し、教育研究水準の大幅な低下を招き、大学の活性化とは結びつくものではない」。

 

 このような国家統制のシステムは、いうまでもなく、教基法一〇条に真っ向から反する。とくに指摘したいのは、このシステムが、これまで教基法一〇条との関係で問題とされてきた教育の国家統制のありかたと比べても、統制の度合いにおいて《勝るとも劣らない》という点である。たとえば、学習指導要領による教育内容統制の場合だが、指導要領は文科相が教育課程の基準として公示する文書であり、学テ判決の解釈では、それが大綱的基準にとどまる限りで、かつ特定の教育実践を強制するものでない限りで、法規としての性格をもつにすぎない。最近では、文科省自身が、同要領の《弾力的運用》を語るようにさえなっている。また、この文書が教育現場の実践を拘束しているのは事実であるが、それも個々の学校におけるパフォーマンス(=学習指導要領の達成度)が外部機関による《評価》にさらされ、それに基づいて教育予算が選別的に配分されるというシステムはない。一方、「法人法案」における国立大学に対する国家統制は、これまでのものとは異質な、しかも見方によっては、より強化されたものなのである。それは、教育内容に対する国の介入権限を限定付きで容認した学テ判決の論理に照らしても、「不当な支配」に定型的に該当するものといえよう。

 

 「法人法案」にあっては、業績評価の場面のみならず、役員会・経営協議会・学長選考会議の構成の面でも、学外者の大幅な関与が予定されている。このことが、教基法一〇条の「自主性」「直接責任性」原理や、憲法二三条の「学問の自由」の保障(およぴこれを制度的に担保する「大学の自治」の保障)との関運で問題となりうる。なぜなら、学外者の関与の背景には、グローバリゼーションのもとで日本企業の国際競争力を高めるために大学の産み出す知的財産を産業活性化のために動員するという戦略があり、それ自体、大学における教育研究に対する外圧をなし、「学問の自由」や「自主性」原理と緊張関係にあるからである。しかし他方、学外者の関与やいわゆる《産学官協同路線》は、表向きは《国民に開かれた大学》《大学の地域貢献》というまっとうな謳い文句を伴っており、その限りで先の「直接責任」の法理と親和的にみえる。これをどう考えるか。

 

 右の問題にについては、次のような整理が可能である。―大学は、国民の高等教育を受ける権利を保障し、またそこでの研究の成果を社会に還元して人類の平和と福祉の向上に貢献するという責務を担う。そして、その責務を十分に果たすことができるために学問の自由と大学の自治が保障されている。ところで、大学がその責務を果たす筋道、つまり大学が社会の要請や国民の信託に応える筋道は、教育と研究とでは若干の違いがある。教育については、大学が、その教員らによる教育作用により大学生の教育要求に応えることをとおして、国民に対する責任が果たされる。ここでは、先の「直接責任」の法理が妥当する。これに対し、大学における学問研究と社会や国民の信託・要求との関連は異なった筋道をとる。つまり、大学における学問研究が社会や国民の信託・要求に応えるといっても、それは学問研究が社会や国民の要求に即自的に対応すべきものではない、ということである。

 

 学問の自由に関する論文のなかで、高柳信一は、この点につき次のように論じている。「専門的職能は、すべての職能と同様に、結局において、社会に奉仕すべきものであるが、その奉仕は、物的価値の生産・提供のばあいのように、顧客(ないしその総体としての社会)の具体的指揮命令のもとにではなくまさにみずからの専門的知識にもとづく精神的創造力の発揮によって―自由に―行われなければならない」(高柳「学問の自由と大学の自治」)。

 

 この指摘にあるとおり、大学における学問研究は、産業界の主として経営者サイドからの注文や特定政府の体制的利益に墓づく要請にストレートに応ずべきではない。学問研究に関して大学と社会との間には、ある種の緊張関係がなければならないのである。なぜなら、学問研究は現在の真理や体制的理念を疑い、より高次の知見を獲得する精神作用であり、本質的に体制超越的機能を営むものだからである。

 

 神戸女学院大教授・内田樹は、このことを次のようにきわあて平明な表現で語っている。「大学の社会的機能の一つはその時代の支配的な価値観とずれていることだと私は思う。…その『ずれ』のうちに社会を活性化し、豊かにする可能性がひそんでいる…。『市場にすぐ反応して、注文通りの人材を提供する大学』なんか、私が受験生なら御免こうむりたいけれど」(「大学の『市場』主義とは?」朝日新聞〇三・一・一六)

 

 昨年秋の学校教育法改正により、私立大学も含めすべての大学が、文科相の認可する認証評価機関による評価を受けることが義務づけられた。評価の結果いかんによっては廃校もありうるとされた。これは明らかに「法人法案」の先取りである。このシステムは、初等・中等教育の諸学校への学校評議員制度の導入など同様の手法による《学校教育のリストラ策》として、今やトレンド化しつつあるようにみえる。「法人法案」は、このような選別・淘汰の仕組みと、先にみた国家統制のシステムを公教育におけるメイン・トレンドとすることにより、その対極にある教基法を葬り去ろうとするものである。

 

なるしま・たかし 一九四八年生まれ。新潟大学法学部教授。専攻は憲法学。教育法学。共著に『教科書裁判と憲法学』『精神的自由権』など。