永岑三千輝(商学部):大学問題日誌7月21日
シンポジウム報告

《会場からの意見表明をいっさいみとめないやり方に疑問》
《なぜ、市民の生の声を恐れるのか? 会場から怒りの声噴出!》
《大学当局に都合のよい意見だけをピックアップすることは許さない》ほか


(タイトルは佐藤真彦による)

(永岑三千輝氏ホームページ,大学問題日誌http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/Nisshi.htm
より)

 

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【大学問題日誌 2003年7月21日】

昨日は、大学主催の「大学改革を考えるシンポジウム」があった。

今日は振り替え休日だが、このHPに関心を持ち、大学改革の行方に関心を持つって読んでく
ださる方のために、一参加者としての報告しておこう。

参加者を増やすために佐藤真彦教授HPの情報では医学部などに大量動員をかけたそうだ
し、学生にも「レポート提出」(成績評価)を武器に大量動員したという噂も流れている。いずれ
その真偽の程も明らかになってこよう。

事実の問題として、会場は立ち見参加者がいるほど満杯状態であった。最初、たくさんの招待
席が用意されていたが、招待された人はあまりこなかったようで、普通の市民が次々と座るこ
とになった。

市長は、このシンポジウムで「市民からの意見をどしどし出すように」と発言していた。誰か録
音を取っていた人は、是非その部分を正確にHTML形式で(また録音の音声とともに)公開して
欲しいものである。

市長の発言からして、参加者の会場発言も一定の時間を取って容認すると予測した。

しかし、その期待ははずれた。実際には、会場からの意見表明や応答をいっさいみとめない
やり方だった。

なぜ、市民の生の声を恐れるのか?

「生まれ変われ」をスローガンにしながら、官僚的形式主義的精神の根本的転換を自らやるべ
き学長ほかの責任者が、「生まれ変わって」いないことをはっきりと露呈することになったので
はないか?

指導するものが率先して「生まれ変わって」いることを態度で示さないで、指導されるものに「生
まれ変われ」と命令形のスローガンを掲げることは、欺瞞的ではないか?

このシンポジウムのやり方に対しては、会場の各方面から怒りの声が噴出した。

「先ほど市長のいったことと違うではないか」など、大きな批判の声が巻き起こり、会場全体が
一時は騒然とした。

学生や教職員・一般市民に対する説明をこれまでいっさいやってこなかった秘密主義・非民主
的手法・非市民的やり方が、そのような会場の批判的発言からは強く出された。

これまで一度もがくちょうが教職員や市民学生と対話する姿勢を見せなかったことが批判の根
底にあるようだった。

学長に明確な説明を求める声も繰り返し出された。

今後、何回か市民に対する説明集会・公開討論会を開催すべきだとの主張も出された。

このような会場参加者・市民の生の声を聞こうとしない態度は今後改革案の具体的提出に当
っては、許されないだろう。

市民とともに大学を作り上げていくためには、せっかく集まった多くの市民の生の声をしっかり
聞く耳と場を持つ必要があろう。

それこそ、シンポジウムのやり方にも貫徹した「市民の視点」であろう。

生の声を出させないやり方に代わるものとして、文書による意見表明を求めた。アンケート形
式で、多くの人が書いていたようである。

こうした方式をとった以上、せっかく多くの市民・参加者が書いた市民意見の公開は義務であ
ろう。

参加者の多くの市民は、ほかの市民が度のような意見を持っているのか、大きな関心がある
だろう。それこそが会場発言を求める人々の希望だった。

大学側の一方的意見、大学側が選んだシンポジウム討論者だけの意見ではなく、まさに市民
の多様な意見こそ、シンポジウム討論者との生き生きとしたやりとりこそは、市民の関心を高
め、市大を発展させる起動力となるであろう。

その市民の声をはたしてきちんとHPで公開するかどうか。これまた伏せてしまうのかどうか。

大学当局に都合のよさそうな意見だけをピックアップするようなことになるのかどうか?今後の
大学当局のの態度を見てみよう。

市民の声=意見をワープロですべて文書化し、学内外に公開し、市民・学生・OBOG教職員・
卒業生すべてに改革論議に参加するチャンスと素材を提供することは簡単なことであり、1500
万円もの予算を取っている以上、やるべきことだろう。

改革立案の段階から、市民との応答があることこそ、市民が関心を盛り上げる必要条件だろ
う。

そうしたものを十分公開した上で、さらにもう一度は、大学側と市民との対話集会、市民公開シ
ンポジウムをやるべきだろう。

清成氏の報告、あるいは、各討論者の発言もきちんとHTML文書にして、大学HPで市民と全国
民に公開することは当然[1]であり、その早急な公開も義務であろう。

有隣堂社長の篠崎氏は、法人化賛成の立場から、教学と経営をわけることを主張した。

(山の手学園だったかの経営者として、経営を手放したくないという動機もあるのかもしれな
い。あるいは教育と経営を分離して経営を握っている自分の現在の立場の正当化ということで
あるのかもしれない。)

だが、今回基調報告・記念報告をした法政大学総長は理事長をも兼ねる。その基調報
告を聴いたあとで、なお教学と経営を分離することを主張したわけである。

およそ、経営と教学を分離すれば、教員・教学サイドのコスト意識・責任意識・自己責任の認
識・自立的精神・社会的説明責任の意識など形成されようがないという肝心のことは理解して
いないようである。

それは、篠崎氏が研究者ではないことが決定的な背景だろう。また、高等学校までの経営と大
学経営の根本的違いも理解されていないのであろう[2]

それほど経営を難しいものと想定すること自体、問題である。現在、事務局責任者が大学につ
いてまったく知らなくても、2‐3年間だけほかの部局から回ってきて勤めても、基礎的な経営事
務は処理してきたのであり、難しいはずがない。

基礎的な経理関係は、一般職員がそれこそ勤勉に市民的道徳性と練達性で処理しているか
らである。

予算決算の公開原則を可能な限り徹底すれば、財務体制の問題等はほとんど問題なくなろ
う。どこが非効率的か等、社会の厳しい指摘を受けられるように可能な限り公開すればいい。

その場合、株式会社の情報公開は参考になろう。民間営利企業がやれるほどの経理公開を、
ステークホルダーである市民、学生、教職員に行っても当然であろう。

大学の経営などは、民間営利企業の難しさから考えれば、比較にならないほど容易なものと
みなければならない。

多くの私学をみればわかるように、厳しい私学でさえ、大学教員が経営も握っているというの
が実情である。

国立大学法人や公立大学法人の経営が私学より容易なのは、すぐさま予測できることであ
る。

問題は政策的な経営構想であり、どのような学部を増設するか、どのような研究科を増設する
か、どこに研究の重点をおくか、教育のどこに予算を重点的に配分するかと言った点である。

そうした点こそは、研究者がきっちり議論を重ね、広く社会の意見を聞きながら、行っていくべ
きものである。

そして、市民シンポジウムや議会における説明など、広く社会的説明責任を果たすなかで、実
現すべきものを実現していくということにある。市民に対する公開の説明をこそ、大学人はやっ
ていかなければならない。

清成氏の基調講演の優れた点は、大学改革の方向性、経営の方向性をきちんと全学的に議
論したということを、迂遠なようでも民主的議論を積み重ねることを強調した点にある。

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[1] 清成氏の基調講演も傾聴に値する指摘はたくさんあったし、卒業生の村松さんの発言に
も感動した。そのほかの討論者の発言も良心的なものが多かったと感じた。数百人の市民を
前にした(いわば数百人の試験官の前の発言である)以上、市民の見地に立たないものにはブ
ーイングが出たであろうが、そのようなことは感じられなかった。市民公開というシンポジウム
のやり方は、清成氏によれば、東京都とは違って、民主的だそうで、その進んだ点は法化しな
ければならない。

もう1歩、進めることを市民は求めた。参加者市民に発言させないやり方、このシンポジウムの
やり方・進め方が批判の的だった。

[2] ただ、公平にいえば、篠崎氏は、学内の学長諮問委員会である「将来構想委員会」の中
間報告を支持する形での発言をしたと理解できる。その意味で、大学内部の検討を尊重しよう
という姿勢を示したものであり、「あり方懇談会」座長の思い出すだけでも煮え繰り返るようなあ
の傲慢な態度とは決定的に違う。

ただ、「将来構想委員会」の答申は、大学内部の真空のなかで形成されたものではないという
ことへの洞察が不足している。大学教員には経営責任をいっさい考えさせないようなシステム
が学則に違反して(学則審議事項には「予算見積り」があるが、一度も審議事項とされたこと
がない、評議会という大学の最高意思決定機関で、学則は無視されつづけてきた、それを必
然化したシステムこそ問題である)、ずっと続けられてきた。そのぬるま湯にどっぷり大学人が
浸かっていた。

一昨年以来今年3月まで大学を我が物顔に支配したあの「辣腕」事務局責任者の圧力‐どうし
てそれが可能だったのか、その原因も上記学則無視問題に象徴されるような要因も含め、深く
検討する必要がある‐の元に、それへのささやかな抵抗として、将来構想委員会のプランも書
かれたという側面がある。「将来構想委員会」の答申のなかにも、市大が改革すべき積年の弊
が「教学と経営の分離」という形でもぐりこんできているのは、そのためである。あるいは、商学
部に関しても、まったく不動のように改革がなされていないとの批判も強い。そのような商学部
の保守的体質(変化を望まない姿勢、大学院博士課程の創設庭も非常に遅れたという事情な
ど)に対する批判も「将来構想委員会」答申やその他の答申ににじみ出ているかに思われる。

ともあれ、今後の改革構想では、そのような学則という大学の基本的規則を暗黙の内に無視
しつづけるようなシステムを構築してはだめだろう。