私の個人的な意見    2003年11月14日       伊豆利彦      HOME 大学問題一覧


 小川学長が大学の意見として提出した「横浜市立大学の新たな大学像」を読んで驚いた。

 市民の要求にこたえ、市民が誇り得るような、魅力ある大学をつくることに反対するものはないだろう。市財政の逼迫という事情も分かる。
 しかし、この「大学像」は決してそのような市民の要求にこたえるものでも、魅力あるものでもない。むしろ、何かわけのわからない、非現実的な絵に描いた餅のようなものである。
 その分かりにくさは、市民の生活の要求からかけ離れ、市大が積み上げてきた現実的な成果を無視し、プラクテイカルなリベラルアーツというような理解しにくいカタカナを持ち込んでいるからではないか。市民の実感から遠い学者の作文、市民不在の改革案だ。
 学部を解体して2学部とし、学府、コースをおくという考え方も分かりにくい。どうしてそんな面倒なことをしなければならないのだろう。

 文理学部が理学部と国際文化学部に分離したのは、文理学部では一般社会の理解を得難く、いい学生も教員も集まらず、就職にも差し障りがあるからということだった。しかし、それはもう時代遅れだというのであろうか。何がなんでも、その実体がわからない、カタカナの魅力あるリベラルアーツでなければならないというのであろうか。これが市民の理解を得るとは思わない。
4学部を存続しても、魅力ある大学はつくれるのではないか。学部の規模があまりに大きくなれば、学部教授会も解体され、これまでとは違ったものになるのであろう。それは教員が大学の主体であることをやめ、教員と学生の関係にも変化を来し、市大の特徴の少人数教育のよさが失われることになるだろう。

むしろ狙いはその学部教授会の解体にあるのではないか。教員を大学の経営から排除し、ばらばらにして、上意下達で、ひたすら、どこかできまった<大学>の方針に従って、研究と教育の仕事をすればいいというのだ。そして、その研究費は自分でどこかからもらってこなければならない。つまり、金になる研究をしなければならない。教員も学生も、決して大学の主体ではない。さらには研究の主体でもない。それが、新しい民主主義だ。昔ながらの学部自治に固執するのは、新時代を理解しない時代遅れだ。

この大学解体の意図は、経営と教育を分離し、理事長の選任方法は示されていないが、市長の任命するもので、学長はその下に副理事長になるということに端的に示されている。
 その点は気になると見えて、弁解めいたものをながながと述べている。
 そもそも国立大学では国立大学法人法により、理事長と学長が同一人であることが定められているが、公立大学の場合、地方独立行政法人法の「公立大学に関する特例」によると、学長を別に任命することが可能であり、別に任命する場合、学長は経営審議機関の副理事長となるというのである。
 なぜ、理事長を学長の上におくかとう理由については、次のようなわけのわからぬことを述べている。市立大学の場合、1 公立大学法人と設立団体である横浜市との1 対1 の対応関係であり、国立大学と比べ両者の関係が緊密になり、法人の長としての負荷も大きくなる。また、 市立大学の場合、教育研究に加えて附属病院、センター病院の両病院の難しい運営・経営面に対しても責任を持たなければならないというのである。しかし、国立大学だって病院その他、はるかに複雑で多様な機関の管理をしているのである。結局は市が教育研究機関の長とは別の理事長を立てて、直接、大学を支配したいというだけのことではないか。

 私は退職後10年も経っているので、ボケもしたし、最近の大学の事情も分からないし、見当外れのことが多いだろう。すべては現役の教授会が決めることで、私などが口を出すべきことではないと思っていた。しかし、教授たちもほとんど情報を知らされず、意見も無視されて、ごり押しに決められたと聞いて驚いた。教授会がそのように無力化されているなら、外部からも声を上げて、教授会を励まさなければならないと思った。

 人事委員会にしろ、任期制や研究費の問題にしろ、市が直接に大学を支配しようとする意図が露骨である。このような大学がすぐれた人材を集め得ないことは明らかだし、教師を無気力にし、一日も早くこの大学から逃げ出そうとさせることは明らかだ。こんなことで魅力ある大学ができるわけがない。

 私はなぜ、学長がこんな案をつくったのか理解ができない。市は金を出しても、大学は市長や市の役人の私有物ではなくて、独立した学問の権威で、市民に対し、国民に対し、人類に対して責任を負うのだ。
 大学は行政に協力はするが、行政に従属してはならない。そのとき、大学は死ぬのだ。学問はねじ曲げられるのだ。それは学長自身もよく知っているはずだ。しかし、なぜ、こんな「大学像」をでっち上げたのか。
 それは、市長や副市長や、局長や、そういう役人たちに脅され、だまされ、策謀に乗せられ、お膳立てに従って突っ走らされたのではないか。そうでなければ、きれいごとが山ほど書いてあるが、それを実際にやってみれば、学生は集まらず、教師たちも逃げ出す結果が明らかな、こんなとんでもない作文をするわけがない。

 私は<あり方懇>の答申なるものが非現実的で、作為に満ちており、その杜撰さに驚いたが、しかし、大学の審議の過程で否定されて、これを契機に新しい改革案が生まれるものと思っていた。
 しかし、学長は役人たちといっしょになって、最後まで秘密主義をつらぬいて全貌を明かさなかった。教授会や、評議会その他、大学の正規の機関でまともに論議を展開することを避けて、ひたすら<あり方懇>の路線を突っ走ったのだという。
 教授会からいくつかの決議があがり、多くの意見が出されたが、これらは無視されたという。最後の評議会も反対意見が多数出たのに強引に押し切り、反対者の氏名を記録にとどめることも、反対者の数を明らかにすることも拒否されたという。

 情報公開の原則に立てば、元来、教授会や評議会の議事録は公開されるべきものではないのか。そして、大学の議論というものは、対立があっても、論議をつくすことで、その対立をのりこえて、一致した見解に達するものではないのか。それが学問的態度というものだ。多数決というのは大学にはふさわしくない。多数の反対があるのに強引に一つの路線を走るということは許されないのだ。なぜ、そのような無理を学長はしたのか。

 このように問題のおおい案を、学長は正規の議をへた大学の意見して市長にうやうやしく言上し、麗々しく新聞発表もおこなった。彼らは教授会の権威を破壊したいのであろう。しかし、いまは、これまでの学則が生きているのだ。これを踏みにじり、教授会を無視して大学の意見をでっち上げるやり方は、まさに、ファッショではないか。この横暴を許してはならない。

 この過程そのものが、これからの大学の姿をあらわしている。私の知っている教授は、何をいってもムダなのだから、もうこの問題については発言しない。隠者になって論文書きに専心すると述べた。これが大学の頽廃でなくて何であろう。今度の改革はこのような教師の無気力化を招くのだ。
 大学の魅力は個々の教師の熱い心によって生み出される。企業でもそうだが、構成員が熱意を失えば、それは衰滅に向かうのだ。たいていの場合、改革とか再出発とかいうのは新しい希望を生み出すものだと思う。<生まれ変われ市立大学>というが、そこにあるのは徒労感と虚無的な感情ばかりではないのか。どこに、わきたつような、新しい未来への希望があるのだろう。これが<魅力ある大学>の実態なのだ。

 いま、全国で同じような問題で大学人がたたかっている。東京都立大でも同様のことがおこって、学長がこれを受け入れず大学が一つになってたたかっているという。これが大学の普通の姿ではないのか。いちはやく、市長の言いなりになった市大の現状は情けない。しかも、市長に強要されたのではなく、大学自身が自発的な意志で、正規の機関の正規の議を経て作成した改革案だということになっている。すべての責任は、学長と教授会、評議会にあるというのである。

 これは、学問の自由と大学の自立のために頑張っている全国の大学に対する裏切り行為である。学問の自由の意味など、市長その他には理解しがたいかも知れぬ。しかし、大学の総意をになって、それをわからせるのが、学長の役目ではないのか。それなのに術策を弄して教授会の疑義や反対意見をごまかし、ひたすら、大学の名において、市長や事務当局に屈従し、大学破壊をおこなった学長の責任は重大だと考える。
 おそらく学長自身この案には多くの疑問を持っているのではないか。学者としてはすぐれた方だと思うが、それだけに、このような策謀と術策にはめられてしまったのではないか。

 ここまで来てしまった以上、これを取り消すためには、学長が自己の過ちを認めて辞職する以外に道はない。ここまで暴走を許した教授会としては、学長に辞任要求をして、問題をあきらかにするしか、道はない。そうではないだろうか。