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  新首都圏ネットワーク

論説

          「大学改革」という名の大学破壊
       −法人法から都立大学、横浜市立大学「改革」へ−

                            2003年11月17日
              国立大学法人法反対首都圏ネットワーク事務局


1.都立大「新構想」をどうみるか

(1)知事による都立大「新構想」は、国立大学の法人化をめぐる法案の成立
と符節を合わせている。

 石原知事による検討委員会案の廃棄と新構想の強行は、国立大学法人法成立
という大学情勢の推移を見てなされたというべきである。おそらく都立大の新
構想を、国立大学法人法案をめぐる緊迫した情勢のなかで出すことはできなかっ
たし、また、法人法案の結果が異なるものであった場合にも、新構想をこのよ
うな内容において出すことはむずかしかったであろう。

 明確に意図されたか否か不明だが、国立大学に対する「改革」と都立大「改
革」は、結果的には、“各個撃破”の戦術に合うものになっている。横浜市大
のケースをどうみるかは別途検討が必要であるが、国立大学と都立大のケース
は、意識的な戦略的連携がなされていると見ることを可能とする状況になって
いる。

 もしそうであるとすれば、まず国立大学を決着し、つぎに都立大を手がける
というのが、「大学改革」派のありうべき戦略である。しかしさらに、そうで
あるとすれば、その戦略は、単にことの順序、分断による突破、だけにとどま
らないであろう。

(2)法人法を上回る強権的「改革」

 都立大、横浜市大の「改革」構想の特徴は、その手法においても、内容にお
いても、国立大学法人法を上回る強権的性格と、内容的な大胆さを特徴として
いる。

 つまり、“第1波”としての国立大学「改革」は、外見的にではあれ、大学
の「同意」をとりつけ、また「同意」をとりつけうるような緩やかな内容の
「改革」としてなされた(実はそのようなものでないことは我々が批判してき
たとおりである)。大部隊としての国立大学をこのようにして屈服させること、
それが第1のステージであった。都立大、横浜市大などの公立大学に“第2波”
として、より強権的な、よりドラスティックな「改革」がおしつけられようと
しているのは、大部隊である国立大学の「改革」が、つまり国立大学の屈服−
大学を屈服させることができる−という既成事実があるからである。

 総体としての大学の抵抗を抑え込んだことによって、「改革」派は、都立大、
横浜市大に対して、より大胆な「改革」を強行しようとしている。「大学改革」
は必要である、「大学改革」に抵抗することは理不尽である、法人法成立によっ
て形成されたこうした、あいまいな「世論」と意識状況が、公立大「改革」の
環境をなしている。

(3)都立大、横浜市大「改革」の先例性

 第2ステージにおける都立大、横浜市大「改革」の内容は、他の公立大学、
さらには国立大学、私立大学を含む大学全体に波及しうるであろう。それは、
きわめて例外的な「エキセントリックな改革」というべきものではない。およ
そ無法かつ無謀とみえるこれらの大学の「改革」プランも、今日の大学をめぐ
る状況、歴史的文脈と無縁に生じたものではない。

 「大学改革」派にとって、国立大学法人法は必ずしも満足しうるものではな
かった。経済産業省の澤昭裕氏によれば、法人法案は不十分なものだが、第1
歩としては評価しうる、というものであった。また、麻生自民党政調会長(当
時)によれば、法人化後の国立大学は早晩民営化されるべきものであった。牛
尾治朗氏(経済財政諮問会議議員)は、国立大学法人という中間的な形態はな
るべく短期であるべきで、その先の民営化等の筋道をなるべく早く明らかにす
べきだという趣旨の発言をしている(東京大学広報誌『淡青』第10号、2003年
7月)。要するに、「大学改革」派にとっては、国立大学法人は過渡的な段階
にすぎないのであって、より大胆な「改革」が必要であるということなのであ
る。

 都立大、横浜市大「改革」が、そのようなより大胆な「改革」の要素を含ん
でいることは明らかであろう。これらの「大学改革」が首尾よく成立するなら、
それはつぎにはさらなる国立大学「改革」の範例として引照されることになる
だろう。事実、佐々木東大総長の所信表明にみられる学長の非常大権(独裁権)
要求をみれば、トップダウンの意思決定システムを通じた企業統治への接近が
見てとれる。

 つまり、第2ステージの公立大学「改革」は、そのつぎには、国立大学「改
革」の第3ステージへ、そして、このような「改革」のサイクルは、私立大学
を巻き込んで日本の大学全体の「改革」に突き進むことになるはずである。少
なくとも、そうした展開が「大学改革」派の戦略的な展望であろう。

2.「大学改革」の終着点と論理

(1)大学の民営化および市場化

 前述のように国立大学「改革」の終着点は、民営化になる可能性が高い。も
ともと独立行政法人制度自体が、その成立時から、可能な場合には地方移管・
民営化の道をさぐるという行財政改革施策の一手法であった。さらに、民営化
の時期が、6年の中期目標期間終了時になるか否かも分からない。今日の国家
財政の破綻への歩み、去る8月1 日の閣議決定(行革本部による評価による組
織改廃)などからすれば、大学等への財政支出が一層削減される可能性は高い
と見なければならない。それは、公立大「改革」の進度や、他の「官から民へ」
の諸改革の動向、政権の行方などと関連する。しかし、これらの条件が現在見
通されるような状況であるとすれば、比較的早い時期に民営化政策がとられる
ことになるであろう。独立行政法人化が行財政改革への第1歩であるとすれば、
独立行政法人の第2歩は「民営化」や地方移管、あるいは単純な廃止である
(法人法によって準用される独立行政法人通則法35条)。

 都立大、横浜市大「改革」も現在は、民営化まですすんではいない。しかし、
財政的コストを最小化し、教育を実学化することで経営パフォーマンスを向上
させるという発想は、ほとんど民営化に近いものであると言ってよい。また、
法人の長と学長の分離、教員の全員任期制(横浜市大)などの構想も同様であ
る。市場において、市場的に自立しうる経営体として大学を構成すること、そ
れがこれらの「大学改革」の要点である。

 大学を「市場のニーズ」(学生のニーズ、企業のニーズ)に合わせて、最小
の費用で最大の効率を達成する、それが、今すすんでいる公立大学の「大学改
革」の目標であり、また国立大学を含む大学全体の「改革」の目標である。
「大学の市場化」とこれを呼ぶことができる。

(2)市場原理主義の論理

 市場原理主義またはマーケット至上主義は、問題を経済的効率性によって判
断する。そのような思考からすれば、大学を市場化し(国公立大学の民営化、
株式会社による大学設置、さらには私大の株式会社化も展望しうる)、高等教
育を市場によって供給されるサービスとするとき、研究活動もまた市場の必要
によって賄われるものとするとき、大学の教育研究は最も効率的になると考え
られる。

 高等教育(以下たんに教育)を市場化するとは、まず、教育サービスを受け
るための教育費負担を学生の個人負担にすることを意味する(市場におけるサー
ビスはいつもその利用者によって負担される有料サービスである)。学生の教
育費負担は、この同じ考えによれば、自己の労働力(人的資本)の価値を高め
るための投資である。その投資は、将来必ず回収されるので、教育費の本人負
担はまったく公正であると見なされる。

 教育費が学生によって負担される場合には、学生は、もっとも効果的な投資
となるような大学を選択するであろう。そのような学生を集めるためには、大
学は、学生が卒業後の職業生活においてもっとも有利な就職をし、高い報酬が
得られるような教育を整備しなければならない。そのような大学間の競争が起
きる。学生にとって、このような意味においてもっとも有利な教育とは、企業
が欲する教育でもあるであろう。市場に置かれることによって、大学は、競争
を通じて、「自発的に」実学的な教育をめざすことになる。また、教育費負担
についても競争が起きるとすれば、それをなるべく引き下げるために、そうし
た実用的目的に役立たない支出は可能なかぎりカットすることになるであろう。

 マーケット至上主義によれば、このような市場の論理によって、経済社会の
必要とする教育サービスを効率的に得ることができる。大学教育に投資される
社会的資源は効率化され、社会的な浪費が削減、解消されるという効率的な結
果が得られることになる。このように、教育システムを市場化すること、それ
が「大学改革」派の構想である。

 研究活動についても同様である。研究費の調達と研究成果の還元を市場的ま
たは擬似市場的ルールに服させること、それが「大学改革」派の構想である。

 研究が社会的に有用なものでなければならないとすれば、そのような研究に
ついては、社会的な必要が市場的なニーズとして出てくるはずである。社会的
な必要に沿った研究活動が発展するためには、したがって、研究システムを市
場化することがもっとも効率的な結果をもたらすであろう。研究の資源を、恒
常的な予算支出から解放して、競争的資金に一元化すること、競争的資金は、
企業であれ、政府であれ、研究を必要とする主体がオファーするものとするこ
と、それによって、「社会」が必要とする研究活動には、もっとも無駄なく効
率的に資金が配分され、また、社会的に不要な支出は支出されなくなるであろ
う。研究システムの市場化は、社会全体の研究費をもっとも効率的に配分し、
社会的な浪費をなくすことによって社会的な効率を高めることになるであろう。

 横浜市大の「改革」プランが、研究費を計上しないという案を示している。
言い換えれば、研究費はすべて学外から調達する競争的資金によるということ
を意味する。この“非常識な”案は、しかし、上述のような市場原理主義的な
考え方によれば、“正攻法”なのである。つまり、横浜市大的構想は、“突飛
な”例外ではありえない。

(3)大学システムの市場化は現在の政策潮流である。

 「大学改革」派の論理が以上のようなものであるとすれば、そのような「大
学改革」は、現在の設置形態にかかわりなくすべての大学に妥当することにな
る。

 大学を市場における自立的経営主体として構成し、「研究教育サービス」を
「社会のニーズ」に沿って、「市場的に」供給すること、それが、大学と企業、
国民経済の効率的な循環を達成すると構想されているのである。

 このような「大学改革」を推進している改革派は、現在の内閣を頂点に、財
界、規制改革会議、経済財政諮問会議、経済産業省、そしておそらく文部科学
省において有力な地位を占めている。都知事がこうした改革派と深いつながり
をもっていることも周知のとおりである。つまり、このような議論は、一部の
エキセントリックな政治家や学者だけのものではない。現在の社会経済政策を
推進するメインストリームの構想なのである。法人法から都立大「改革」まで
の動きが急速に進展しているのはそのためである。

3.どのようにして大学を守るか

(1)「構造改革」としての「大学改革」

 すでに見たところから明らかなように、法人法に始まる「大学改革」は、市
場主義的な「構造改革」の一環である。あらゆる公共的・公的制度や財政を可
能なかぎり「民に」、すなわち市場に移行する、というのが構造改革の“哲学”
であり、大学もまたその例外ではない。遠山プランが「大学の構造改革」とし
たキャッチフレーズは、予想以上に有意味である。

 したがって、「構造改革」をどう考えるか、そして大学や高等教育をどう考
えるか、という二重の問題が提起されている。

(2)法人法は過渡的ステップである。都立大、横浜市大は“奇妙な例外”で
はない。

 法人法から都立・横市「改革」への展開は、「大学改革」、市場化としての
「大学改革」が、日本の大学制度全体をターゲットにおいたものであることを
示している。これまでの運動の経過からすれば、運動の側は明らかに国公私分
断にのってしまっていたと言える。この国公私分断を乗り越えること、それが
運動にとってのもっとも重要なポイントである。

 都立・横市問題への連帯は、単なる連帯にとどまってはならない。国立大学
にとっては、都立・横市「改革」は、明日の国立大学の姿を示すものであり、
国公のこうした動きは、私立大学からも本来の大学らしさを奪うことになるで
あろう。

(3)大学システムの市場化を批判する

 「大学改革」派の主張にもかかわらず、大学における教育や研究は「経済的
効率性」のみによって計ることはできないし、計るべきものでもない。

 「社会的有用性」が厳格に押し付けられるならば研究が死滅することは研究
者であればだれでも了解することができる。教育が市場化するならば、社会的
な弊害はもっと著しい。改革派の構想の前提になっているような「市場」や
「経済社会」は、現実の社会と大きな乖離があるからである。高等教育の市場
化が社会的公正を破壊することは目に見えている。教育の内容が上述のような
論理によって規制されることの害悪はさらに大きい。

 「効率性」の名による「大学改革」は、大学と社会を破壊する。