「横浜市立大学の新たな大学像について」に関する大学人の声明

−「官僚統制大学」化をおそれる−

 

 アメリカ合衆国をはじめ多くの国では、「学問や科学が政府や行政の直接的な統制を受けず自由に発展することが、最も国民に貢献する道である」ということが、広く政府や国民によって理解されてきた。学問や科学の中心をなす機関である大学においては、研究・教育の内容に関して、大学人の自主的な決定にゆだねる「大学の自治」が、そのための制度として確立してきたことは周知のとおりである。

 大学自治の中心は、大学教員の人事である。その中核の一つは、教員集団が自身の専門性に基づき、教員候補者の学問・教育の水準を判定し、その判定に基づき教員の人事選考を行なうこと、つまり教員集団が教員人事を実質的に決定することである。

わが国では、憲法における「学問の自由」の規定に基づき、学校教育法は「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かねばならない」59条)と規定しており、教育公務員特例法は「教員人事や学部長選考は教授会が行なうこと」を規定してきた。国立大学の大学法人化に伴い、教育公務員特例法の直接的な適用は制度的にはなくなるが、国立大学法人法も、「教員人事に関する事項」を、大学の教育研究に関する重要事項を審議検討する「教育研究評議会の審議事項と規定しており、国立大学法人では教員集団による教員選考という実態は、今後も継続される。公立大学協会も、教員人事の基本ルールとして、公立大学法人化後も教員人事案件は「教授会等教学部門の審議機関の実質審議を経て行なわれるべき」であることを明確にしている(公立大学協会法人化問題特別委員会「公立大学法人化への取り組み:報告」平成1412月)。

 理事会の権限が日本より大きいと通常理解されているアメリカの場合でも、その大学管理体制は、理事会を頂点とする上意下達的なものでなく、教育研究事項と学内人事事項の両面にわたって教授団の自治が、伝統と慣行に基づき確立している。しかも、教授団の自治は学問的水準の高い大学におけるほど強固であることは、高柳信一教授などの研究(『学問の自由』岩波書店)から明らかとなっている。

 大学における学問の自由を保障する第二の制度は、教員の雇用上の身分保障である。身分保障制度がない場合は,設置者や経営者側が教員の研究・教育に対する評価を行ない、これを否定的に評価した場合にはその地位を奪いうる制度を導入することによって、教員の研究・教育の自由が最大限に脅かされるからである。

アメリカにおける「テニュア制度」(終身在職権)が学問の自由(アカデミック・フリーダム)を保障する最も重要な制度として発展してきたことは周知のとおりである。(P.G.アルトバック他編『アメリカ社会と高等教育』高橋靖直訳、玉川大学出版会)。事実、アメリカの大学教員の過半は終身在職権保有者であり、審査を通れば終身在職権を得られるテニュア・トラック在職者を含めると、その数は全教員の8割を超える。

 この様な世界的な大学運営の原則に照らすとき、今回発表された「横浜市立大学の新たな大学像について」(以下、「大学像」と略記する)は、旧ソ連の大学を髣髴させるような、行政・官僚統制大学化への道を開き、ひいては横浜市立大学がこれまで行なってきた世界の学術・教育への貢献のみならず、横浜市民への貢献も不可能となる事態を招く惧れが極めて大きく、深刻な危惧を抱かざるをえない。以下、特に重要なものについて、いくつか具体的に述べる。

 

(1)教員人事の決め方

 まず問題なのは、「大学像」では、教員人事選考は教育研究審議機関の審議事項からはずされて、教員でない経営審議機関の構成員を含む「人事委員会」の審議決定事項となっている点である。これは、上記の学問の自由を保障する国際的な原則に反し、「重要な事項を審議するため教授会を置かなければならない」と規定した学校教育法にも違反し、国立大学法人法や、公立大学協会がいう教員人事に関する基本ルールにも反しており、「大学像」に述べられた案では市立大学における学問の自由は画餅に帰すと言わざるを得ない。

 実際的にも、個別の人事案件について学問的には殆んど素人の集団であるこの人事委員会で、学問的・教育的な水準を基準に適格者を選考することは不可能であり、学問外の諸要因(例えば縁故、思想、市行政への忠誠度など)を選考の基準にして、お手盛り人事が行なわれることが予想されるなど、審査の公平性や透明性はほとんどなくなるであろう。特に、市長によって理事長が任命されるため、教員人事が市長や市行政官僚の判断に依拠する危険性を禁じえない。この「人事委員会」制度が、任期制と併用されるときその効果は倍増し、現存の教員でさえも、迎合的な研究・教育に向かわざるをえないし、言いたいことも言えなくなる。

教員人事の適切性・公平性と透明性を高めるためには、このような非専門家の人事決定への参与を強める方法とは逆に、教授会における選考・審査過程に外部の専門研究者のオブザーバー参加を求め、あるいは彼らの専門的な見解を徴するなどの新たな制度の確立こそが、最も目的に適い、効果があると思われる。

 

2)「教員全員の任期制」

 「大学像」は、市大教員全員の任期制を提案している。前述のように、大学における学問の自由を保障する第二の制度は、教員の雇用上の身分保障である。わが国においては、「大学の教員等の任期に関する法律」は、任期を定めない任用を行なっている現行制度を前提とした上で「@先端的、学際的または総合的な教育研究の職、A助手の職、B大学が定め又は参画する特定の計画に基づき期間を定めて教育研究を行なう職に就けるとき」のみには、任期を付して教員を雇用できるとしている。この法律制定時の衆議院・参議院の付帯決議が「任期制の導入によって、学問の自由及び大学の自治の尊重を担保している教員の身分保障の精神が損なわれることがないよう十分配慮する」ことを求め、文部次官通達も「定年制の適用の回避又は定年制を形骸化させる目的で、この制度が運用されることがないようにすること」など、制度の目的に反する乱用をしないよう指示している。従って、「市大教員全員の任期制」案は、大学教員の任期に関する法律の目的に反したものであると言わざるを得ない。

さらに、優秀な教員を確保する上からも、雇用の保障は重要である。アメリカの終身在職権制度を規定する「学問の自由と終身在職権に関する原則宣言」は、「有能な男女をひきつけうるに十分な経済的な保障をおこなうこと」を終身在職権の第二の目的にあげている。もし、市大教員全員に任期制を導入した場合、適任と思われる人材が応募をためらい、注目される教員は任期制でない他大学に引き抜かれるなど、研究・教育水準の低下が懸念される。

1995年より任期制を導入した北陸先端科学技術大学院大学では、昨年2月時点で66名のポストが任期制だが、すでに27名が任期満了前に転出し、「優秀な教員が大学に残らない」という声が上がっている(読売新聞関西版ウェッブサイト版 200238日)。大阪大学大竹文雄教授(労働経済学)も、大学教員の全員任期制の採用は、質の低い新任教員の採用と教員の業績低下の傾向を強めることを理論的に明らかにしている。

 基礎・応用研究者に関する調査も、研究者の多くが「任期つきの任用は優れた研究成果をもたらさず、安定した雇用こそ、創造的研究成果をあげるために不可欠である」と考えていることを明らかにしている(石田英夫編『研究開発人材のマネジメント』2002年、166頁)。

 

(3)年俸制の問題点

 教員の活性化や優秀教員の流出抑制のために、「大学像」では年俸制導入を提案している。任期制の不利益を補うに足るだけの高賃金を全教員に支払い、さらに特に優秀な教員には一層高い給料を(例えば年俸制の形で)払えば、優秀教員の採用と確保はある程度は可能であろうが、これは設置者の払う賃金総額を大幅に増やすことになり、今回の改革案の目的の一つである経費の削減と真向から対立することになり実現は不可能であろう。

 年俸制の前提は短期間での業績評価であるが、画期的な発明・発見ほどその評価が定まるまでにタイムラグがある場合が多く、短期的評価になじまない。年俸制は、失敗するかもしれないチャレンジングな課題に挑戦することを躊躇させる。さらに、一般企業においても被評価者が評価に納得しなかった場合むしろ勤労意欲をなくしてゆくが、人文、社会科学、及び自然科学にわたる、広範で多種・異質な学問領域をもつ横浜市立大学の場合、被評価者が納得できる統一的な評価基準を作ることは特に困難で、年俸制が教員の所属意識をむしろ弱めて、意欲の減退をもたらす可能性は高いように思われる。近年の労働経済学の研究も、企画が重視されるような種類の職場には刺激性のつよい成果主義はなじまないことを明らかにしている(佐藤厚「ホワイトカラー研究の最近の動向と課題」『日本労働研究機構紀要』24号)。

 さらに前述した研究者調査によれば、国立研究機関の大多数の研究者は、成果への報酬としては「研究上の自由度の拡大など非金銭的報酬」を求めているので、ごく少数の研究者を除いて、金銭的な報酬をもって成果の増大に応える年俸制が、活性化へのインセンティブとしてもつ力は弱いのでないか

 研究・教育活動の活性化のためには、このような短期的評価を行い評価を数値化して金銭的な報酬と直結させる制度ではなく、多数の専門研究者から成る外部評価委員による質的な評価(ピア・レヴュー)を5年程度の間隔で行ない、その結果を公表する制度を作ることが、最も客観的で有効であろう。

 

(4)学問・研究の自由を脅かす評価制度

 任期制と年俸制の基礎となる教員評価基準には、「大学から求められた役割をきちんと果たしているか」が中心に据えられ、その中には「地域貢献、横浜市行政への貢献」があげられている。たしかにそれは市立大学の重要な仕事の一つではあろうが、同時に真の「地域貢献、横浜市行政への貢献」とは何かと省察することは、大学の本質的な仕事である。地域貢献になると信じて進められたことが、予期に反して地域と住民にかえって苦難をもたらし、辛い重荷となった例は少なくない。もしかりに、政治の一部である横浜市の時々の行政に直接的に貢献することが市立大学の目的の一つであると解釈され、それへの協力が教員評価制度として全教員におしつけられたり、非協力が排除の理由とされたりするなら、それは学問の自由と思想の自由を侵すことに他ならない。研究・教育の役割は長い目で見なければならない。市立大学には横浜市の行政に協力する人も、政策に反対する人も、かかわらない人もいて、それらの態度の差異によって大学の中で異なった待遇をされないというのが、大学の自治と学問・研究の自由の意味なのである。

 

(5)「研究費ゼロ」について

 「大学像」は、大学校費による一律な研究費支給を行なわないで基本的には各個人が外部資金を獲得して研究を行なうよう提案している。現在、日本の競争的外部資金の中心を占める学術振興会科学研究費の場合、その採択率はわずか20%程度であり、個々の大学における校費支給の研究費なしには、研究が不可能な構造となっている。ノーベル賞受賞者の白川英樹教授も、自身の経験から、校費による研究費の支給が研究を支える重要な財政基盤となったこと、研究費の校費支給を強めるべきことを強調している。応用・開発研究中心の民間企業の研究に対し、大学は基礎研究中心にならざるをえない。製品開発に直結しない基礎研究に対して企業や産業界が研究費を出すとは思われないから、何時役に立つか分からない基礎研究をする研究者がいなくなり、我が国の基礎研究の水準をゆがめ衰退させることは間違いない。

 大学の教員が大学で教育を行いうる唯一の根拠は、特定の専門分野で最先端の研究をしているという事実だけである。研究費ゼロは大学教育の存立基盤をも奪うものである。

 校費による研究費支給がない場合、地道な基礎研究の多い市大の研究活動の大半は停止せざるを得ない。研究費ゼロということは、教員の採用や確保にとって非常に不利な条件となるにも拘わらず、それに見合うほどの財政上の節約効果はない(試算では、市一般会計からの繰入額の12%)。

 

(6)学長理事長の分離について

すべての国立大学法人では理事長を学長が兼務し、公立大学協会も公立大学法人化に関する見解として、「公立大学法人は、原則として学長が兼務する理事長を中心として自主的・自律的に運営する」ことがとりわけ重要であるとしている。理事長と学長を分離するという市大「大学像」の提案は、この公立大学協会の方針に反して、設置者によって任命される理事長を法人の長とすることによって、大学の自主的な運営の可能性を敢えて縮小させている。学長と理事長の分離は、設置者の大学運営への介入拡大に道を開くものであり、官僚による大学統制につながることが懸念される。

 

7)独裁的機関しての「人事委員会」

 新たに定められた「人事委員会」は、副学長、学部長、研究院長、及びコース長を任命することを通して、教育研究審議機関の構成員を大幅に決めることができ、研究教育に関する大学の方針に事実上決定的な影響を及ぼすことができる。「人事委員会」は、単に全学の人事のみならず、教学を含む全学の基本的決定に、他機関からのなんらの制約なしに事実上の決定権を行使できるオールマイティな機関となり、この制度は極めて非民主的な中央集権的で上意下達的な大学管理運営の制度である。

 しかも、この人事委員会は、一般教員の採用・再任・昇任の発議権をもつ学部長、研究科長、研究院長、及びコース長を選考する権限を持つものであるから、全学の人事に関してはいずれの機関からの制約もない独裁的な権限を持つことになる

 教授会は、これら部局の長を選考する権限を失うだけでなく、学校教育法の規定に違反してカリキュラム審議の権限も奪われるから、教員の下からの意見が表出されるチャンネルは殆んど失われることになる。このような中央集権的な管理システムは、広い分野と多様な人材を持つ大学の管理運営システムとして不適切であり、大学の活力を死滅させることにつながる。

 

(8)性急で秘密主義に貫かれた「改革案」作成過程

 研究・教育は「100年の計」である。市大主催「大学改革シンポジウム」で法政大学清成総長は自身の体験から、「迂遠なようでも」教学を中心に時間をかけて合意を形成することが大学改革の成功にとって極めて重要であると強調した。今回の市大の「改革案」は、今年の3月に「懇談会答申」が出され5月に改革案作成の大学側の表明があってから、僅か半年という短期間に急遽作成されたもので、余りにも性急すぎる。案作成に当っては、教員、学生、市民の声を聞いたと言ってはいるが、市民との対話の唯一の場であった市大主催「大学改革シンポジウム」で、参加市民の発言が一切許されなかったことが象徴するように、意見聴取は全く形式的なものであり、市民との対話への真摯な姿勢が見られなかったのは、極めて残念である。市立大学の中でも、各教授会や研究科委員会が「プロジェクトR幹事会」の案の問題点を指摘する文書を出しているが、「大学像」はそれらの意見を反映していないのではないだろうか。国際文化学部教授会の「遺憾声明」が指摘するように、改革案を承認したという評議会においても、相当数の異論が出たにも拘わらず採決を行うことも拒否して評議会を終了させるという、極めて非民主的な手続きの上で出された大学案のように思われる。市民や教員、学生の声を無視し、設置者や官僚の意向にしたがって急遽作成した「にわかづくりの案」であるなら、それに沿って創られる大学が市民にとって魅力ある大学になるとはとても思えない。

 

 われわれは、1029日に提出された「大学像」は、横浜市立大学から研究・教育機関としての自主性と研究・教育の自由を奪い、設置者による官僚的支配・統制が教学の深部にまで及ぶ、官僚統制大学と化する危険性をはらんだものであることを指摘した。もとよりこれに対しては異論や反論もあろう。われわれとしては、これらの多様な意見を参考にし、大学が情報を公開し時間をかけ広く市民や学生、教員と教授会の意見を聞いて再検討することを要望する。

 

2003年(平成15年)1125

 

「横浜市立大学問題を考える大学人の会」(印・呼びかけ人)

 

賛同者:浅井基文(明治学院大学教授)、浅野 洋(横浜市立大学名誉教授)、伊豆利彦(横浜市立大学名誉教授)、石島紀之(フェリス女学院大学教授)、板垣文夫(横浜商科大学教授)、伊藤成彦(中央大学名誉教授)、今井清一(横浜市立大学名誉教授)、久保新一(関東学院大学教授)、清水嘉治(神奈川大学名誉教授)、田中正司(横浜市立大学名誉教授)、田畑光永(神奈川大学教授)、田村 明(法政大学名誉教授)、玉野研一(横浜国立大学教授)、土井日出夫(横浜国立大学教授)、中川淑郎(横浜市立大学名誉教授)、中村政則(一橋大学名誉教授)、鳴海正泰(関東学院大学名誉教授)、本間龍雄(東京工業大学名誉教授)、宮伸光(法政大学教授)、毛里和子(早稲田大学教授)、安田八十五(関東学院大学教授)、柳沢 悠(東京大学教授)、山極 晃(横浜市立大学名誉教授)、山田弘康(横浜国立大学名誉教授)、横山桂次(中央大学名誉教授)、吉川智教(早稲田大学大学院教授)