成果主義賃金が大学教員に与える影響

 

 

著者 永井隆雄 慶応義塾大学文学部卒業。同大学大学院で経済学、心理学を専攻。日本総研、朝日監査法人などを経て現在はAGP行動科学分析研究所所長。商学修士。日本大学大学院非常勤講師。連絡先(tanagai@d4.dion.ne.jp

 

横浜市立大学と東京都立大学で今度から大幅な組織変更があるという。報を見る限り、都立大に関しては伝統ある人文学部がなくなってしまうのかという心配を感じたし、横浜市大に関してはやや捉えどころがないものの、それなりの新しい構想なのだろうと学府という目新しい言葉から勝手な想像をめぐらす・・・・。ただ、どちらの事情も私は詳しくはないことを最初に断っておきたい。

ところで、私は大学人ではなく、大学を卒業後、民間企業に勤務し、その後、人事管理を支援するコンサルティングの仕事に就くことになった。爾来、10年以上にわたり、大手企業、外資系企業、中堅企業の人事改革を裏方で支援してきた。はっきり言って、人事改革は労使双方にとっていい話しばかりではない。労組などない会社も多いので、そこにはいわく言い難い虚と実がある。いきなり賃下げするのにそのお膳立てするのに雇われることもあるし、最近流行りの「成果主義」を目の当たりにすることもある。

ただ、企業自身が余裕のない昨今、企業の人事改革は悩ましさと苦渋を感じないではいられない。そんな状況に直面し、従業員の暮らしやキャリアプランなど一切考えない経営者の本音を聞かされ、内心では心情左派的な義憤も覚えるが、そもそも経営コンサルタントなどそこまで深く踏み込んで仕事しているわけではなく、表層にあるマニュアルや制度を通りのよいように作っているだけに過ぎない。私自身、割り切ってこの仕事をしているのであって、何かの使命感に燃えて今の仕事をしているわけではない。

学界人は株屋、不動産、コンサルタントと言い、私たちのような仕事をしている者を下に見ているようだ。日本の経営コンサルタントには学識も良識もなく、そういわれても仕方ない面もある。しかし、そこまで経営の内情に踏み込んで仕事をしているわけではないことを断っておきたい。私たちコンサルタントは、戦略や経営方針を所与として、企業がうまく作れない資料を一種の慣れという専門性によってこなしているに過ぎず、それは銭湯の壁にある安っぽい富士山をタイルで描くような関わり方なのだ。ただ、このコンサルタントという仕事はものすごく儲かる仕事で、税金対策に私自身、すごく悩んでいるし、遊び歩いても使い切れない金が入ってくる。虚業といえばそれまでだが、学業と大学の非常勤講師との両立には格好の生業である。

かつては学究に憧れた者として、一定の専門性を確保するために、また見識なきコンサルタントとのそしりを免れたいと思い、それなりには勉強してきたほうだが、今もって人事の問題は建前と本音、表層の議論と現象の実態が大きく乖離し、その点が何よりも難しい。成果主義を一刀両断する書として注目される高橋伸夫先生の近著も、かなり企業の現実に迫っていると思うが、見落とされている論点や現象も多く、実務運営を裏方で見る者には不十分で浅いとの感を持つ。この点は似たような視点に立てる人はほぼ同意見を持っているようだ。しかし、その他でなされる学界の論議はほとんど企業で起こっている人事改革の動きとは別次元のところで戦わされているように思う。つまり、現実感さえないことがほとんどだ。それほど企業の現実はおどろおどろしく実相の見えにくいものなのである。

以下では、今回の講演に関連するものとしてまとめた実務家向けの論考を抜粋にて紹介したい。

 

成果主義賃金が大学教員に与える影響

 

賃金決定の方式 1

年功主義 

 年齢、勤続年数、性別で処遇を決定する方式

メリット  

  @属人的な基準であり、客観性が高い。

  A将来設計ができ、安定感がある。

デメリット 

  @一律賃金となり刺激性が乏しい。

  A貢献度が反映されにくい。

B平均年齢の上昇でコスト高となる。

賃金決定の方式 2

能力主義 

 能力の発展や職務経験をより反映して処遇を決定する方式       

メリット  

 @貢献度やパフォーマンスで処遇差がつき、刺激がある。

 A適材適所が可能となる。

デメリット 

 @能力の評価が難しい。

 A能力の陳腐化に対応できない。

 B実質的に年功主義と差がなく、コスト高。

 

成果主義登場の背景 1

l成果主義登場の時期

n企業では90年代後半から「成果主義」が意識され始めた。能力主義は行き詰まってしまった。

n年功主義の弊害が声高に指摘され、

  脱年功主義が不可欠と意識されるようになった。

成果主義登場の背景 2

n不況の長期化で企業収益が悪化し、人件費削減が強く要請された。しかし、あからさまには削減困難。

n定期昇給やベースアップの抑制、廃止が論議され、やがて賃下げ論が登場してきた。

n報酬管理での米国式への移行が不可欠という認識が企業に芽生えてきた。

成果主義の光と影 1

l旗印としての成果主義

n各人の貢献度に応じて「適正」に処遇し、人と組織を「活性化」する。格差拡大によって刺激性を確保する。

n企業収益、企業の支払能力に応じて「適正」な総額人件費を決定する。人件費を変動費化し、経営を「健全化」する。

成果主義の光と影 2

l現象としての成果主義

n経営上の問題を棚上げし、人件費を収支調整の安全弁にする動き。

  →組織への信頼感の劣化。

n一部の高業績者を優遇する一方で、平均的な処遇水準を切り下げ。低業績者の放出。実質的な雇用調整。

 

成果主義人事の功罪 1

l成果主義の効用

企業収益の改善→株価の上昇 

 リストラ関連株

一部高業績者のモチベーション向上

成果主義人事の功罪 2

l成果主義の弊害

n短期志向が強くなり、長期的な発想の弱体化。

n業績評価が困難で、評価への不満が噴出。

nチーム志向の劣化や組織の連携の悪化。

n組織への信頼感が損なわれ、離職率向上。

n労働密度の上昇でストレス増加。

 

年俸制

l年俸制登場の時期

l成果主義の具体的な方式として90年代前半から取り沙汰されるようになった。

年俸制の内容と意義

l年間での報酬額を予め決定し、等分、16分割などで支給する報酬形態。

l従来あった諸手当の整理統合。基本給への一本化。

l定昇の廃止。えび反りの賃金カーブのフラット化。

l賃金後払い方式の脱却。単年度の貢献度と当該期間の報酬を一致させる方向。

年俸制導入の実際

l導入時にはやや高めに移行し、次年度以降、貢献度をにらんで総じて報酬削減。

年俸制に付随する 目標管理制度

l目標管理制度

l各人が到達すべき目標を設定し、それに対する達成度合で評価する仕組み。

l本人と上司が話し合って目標は決めることになっているが、全体目標を落とし込んで数値的な基準として示されることが多い。

常に失敗する目標管理制度

l本来は自発的な目標設定によるモチベーション向上の手段だが、モチベーションを損なう顛末。達成できる目標の付与では成果主義のニーズに合わないので、大半の従業員はがんばっても到達できない水準が「期待」し要求される。

l運用例 ターゲットボーナス

l目標をクリアした場合のみ支給し、未達成ではゼロという報酬方式。

日本企業における雇用調整の問題点

l雇用流動化論

l雇用の流動化はそもそも市場原理であり、それによって外部労働市場が機能する。

l社外にも人材を求めることでより一層、適材適所が実現する。

日本企業における雇用調整の問題点

l雇用流動化の実際

l賃金の割高な中高年層を排出・代謝するだけ。再就職の途は非常に厳しい。

l採用は相変わらず新卒中心。

lコンティンジェント・ワーカーが増加するも、正社員優遇に変化なし。周辺「労働者」の増加と雇用の不安定化。

大学への成果主義導入と問題点
業績評価の難しさ

l処遇差をつける以上、業績評価をどうするかが中心課題となる。

l一般企業でも業績評価は常に悩ましい問題となっている。

l異なる職種での不公平感が常に問題となっている。

lそれでもやるなら、何もしない人をどうするかが焦点に。

 

大学への成果主義導入と問題点
業績評価をクリアにする方法

l絶対評価は基本的に難しい 

 → 相対評価は1つの帰着点

l寛大化と中心化の傾向が強く、差がない。8-9割が並か並以上の評価段階になっている。

l下の1割か2割は出てもらう仕組みは必要では。

l期待基準の明確化

l大学にとって望ましい人材の明確化

 

任期制の意義と問題点

l処遇システムの基本原理は安定性と刺激性。

l任期制は刺激的な施策。

l刺激の強さをどうするかは程度の問題。

l人材コストの固定費から変動費化する動き。

lその意味で成果主義人事改革。

l大学経営にはプラスだが、働く側にはありがたくはない。しかし、今までよすぎたのではないか?

 

 

成功する賃金管理の背景

誰にどれだけ払うのかを決める仕組みで考えるべきこと

 

社員、職員、あるいは従業員といわれる人が少々嫌なことがあっても職場に毎日やってくるのはなぜか。それは何かのボランティアではなく、まさしく食うためであって、そのための糧である給料をもらうためである。自分や愛する家族のために割り切って仕事をしているのであり、やりがいとか自己実現とか、ましてや社会への貢献とかだけで人生を処しているわけではない。つまり、人と会社を結ぶのはお給料以外の何ものでもない。会社のことを、組織、勤務先、あるいはお仕事といっても、それは同じことである。

人事管理というと、モチベーションとかリーダーシップとかいろいろなことがある。しかし、突き詰めたら、誰にどれだけお給料を払うか、という問題になる。つまり、人事制度とは主に賃金制度であり、誰にどれだけ払うのかを決めるための仕組みである。ただ、賃金の支払いは表層的な出来事/現象であり、その背景にどういう思いや考え、配慮、狙い、あるいは思惑があって支給されるか、このことも無視できない。言い換えると、賃金には応分の主義や理念、思想が伴ってくるのである。つまり、賃金の背景には相応の賃金の決め方がある。

ところで、賃金といっても、現金給与だけのものだけではない。もう少し広く見ておく必要がある。月例賃金のほかに、賞与/一時金があるし、退職金、報奨金がある。また現金の形を取らないものもあり、表彰もあれば、日常の激励や接点もある。これらを気取った表現で「認知と承認[1]」ということもある。賃金に現金でないものまで含むかどうかといえば、労働法上は含まない。しかし、賃金の背景にある理念や思惑などに思いを馳せれば、賃金と同様に日常の激励や、ちょっとした声かけが重要な意味や役割を持っていることに気づくべきだろう。

一般に賃金は現金の形態をとるもののことで、そうでないものを含めるとき、報酬[2]という言い方がより適切であろう。ただ、報酬のうち、現金でないもの、賃金以外のものを測ることは難しい。そもそも測れないものを多くとか少なくということはないし、なるべくたくさん与えてそれによってみんなが幸せならそれに越したことはない。しかし、現金で払う賃金にはおのずと制約があり、原資の枠がある。そこで、ここでの議論は現金形態の賃金を主としたものにして話を進めたい。

企業は売上などの収益を上げて活動している。そしていろいろな費用を負担し、利害関係者との関係を維持している。債権者には借金を返さないといけないし、仕入先から物品を買えばその支払いもする。そして、働いている人には給与を払わないといけない。いろいろなものを払った後の残額が利益であり、企業にとってその利益の大きさが成績である。企業には最終的な成績のよさも求められている。とりわけ出資者は成績のいい会社に投資をしたがる。投資されない会社は発展のチャンスをつかみにくい。給与と利益は対立する関係にあるので、給与をたくさん払えば払うほどいいということにはならない。さりとて給与を惜しむ会社には人が寄り付かない。

企業の付加価値[3]に対して人件費が占める割合を一般に労働分配率という。これは一概にどのくらいがいいか、ルールがあるわけではない。企業の成績ということからいえば、低いほうがいい。しかし、経営成績を重視して賃金を払うことを惜しめば人が寄り付かないし、会社に実在する人(社員や職員)がやめると言い出さないにしても、やる気の維持が難しくなるかもしれない。そこで、企業は、賃金の社会的水準を考慮する必要がある。

日本では長らく労働の流動性が概して低かったので、給与を下げても人が辞めないという前提で動いてきた。ところが、事情は変わってきているし、病院の場合、以前から公的な資格があれば移りやすいので、かなり流動してきた。そこで、分配率だけで賃金を決めることは、人材の引き寄せと定着かの観点からすると、どうしても無理がある。

最近、一般企業は成果主義ということを言い出している。これは総額人件費の適正水準を強く意識した賃金の決め方である。総額人件費を意識し労働分配率を企業にとって健全な水準に保とうとする発想や意識は以前からもあった。ただし、以前は賃金の社会的水準を考慮して人件費を固定費として認識する発想がより強かった。ところが、成果主義が唱えられるようになってから、企業は最終利益の確保を優先し、その上で人件費をどうするかという発想を持つようになった。つまり、成果主義のもとで人件費は変動費として認識されるようになったのである。

賃金は総額としてみると、人件費管理ということなのだが、一方で総額が決まった後、個別賃金の決定という問題が出てくる。個別賃金の問題とは平たく言うと、一人一人の給与をどうするかということである。一般に給与を決める際に次のようなことを考えないといけない。

1生活保障職務・成果対応という2つの側面があることである。給与はそれによって受給者が生活の糧にしているものである。ゆえに生活できない給与では問題がある。しかし、給与自体が十分に高くなった今日、この側面は軽視されてきている。一方で、仕事の内容(難易度やきつさ、つらさなど)に見合ったもの、成果や業績に応じたものという面がある。この点を強く意識しようとする傾向が近年の成果主義の特徴でもある。

今日、賃金決定において生活保障の原理は軽視されつつあるが、それを踏まえて賃金カーブが形成されてきたことも事実で、おおむね28歳で結婚し、その後二人の子供をもうけて世帯形成し、40歳から50歳にかけて生計費がピークに達すると想定されてきた。賃金の年功色は、こうした生計費に関するライフサイクルに対応してきたわけである[4]

2に給与[5]をどう決定する目安や根拠をどうするかという賃金決定の基準の問題がある。客観性の高い基準として従来は年功があった。年功主義とは、年齢、勤続年数、性別などの個人属性で賃金を決める方式である。もちろん批判はあるかもしれないが、年功による基準は、客観性が高く、従来の賃金管理の基調をなしてきたし、今日でもそれをかなり引きずっていることは否定できない[6]。一方で、能力主義成果主義がいわれることがある。これらは混同して使用されることもあるが、はっきりとした違いがある。能力主義とは、職務遂行能力(職能)の発展に応じて設定された資格等級に基づいて賃金を決める方式である。職務遂行能力を示す資格等級に対応した職能給表があり[7]、属人的要素で決まる年齢給などと合算して賃金を決めるのが一般的である。

職能は何らかの評価によって査定し評価して決定される。評価という以上、それはどこかでは主観的なものとならざるを得ない。主観的であれば、それは自ずとエラーもブレも発生するだろう。しかし、主観的であればそれが誤っていて、客観的であればそれが正しいともいえない。客観的である年功ですべて賃金決定することはもちろん無理があり、公平性という点でも問題がある。

今日では、月例賃金[8]の基本給を職能給のみとし、年齢給を廃止する改定事例も増えてきている。しかし、年齢給を廃止しても、年功色がなくなるわけではない。職能給のスタート金額自体が年齢給/本人給ともいえる。問題は職務や成果の評価を行ってどれだけ昇給差がつくかである。昇給格差がどれだけあるか、まさしくそれが実質的な職能給である。支払費目において年齢給を廃しても、年功的な運用をしていては能力主義的にも成果主義的にもならない。

ところで、能力主義を形にした職能資格制度が年功的に流れ、失敗していくことはよく指摘されている。今日、能力主義を主張する企業の人事制度改定の事例はほとんど皆無となっている。なぜなら、能力主義は、成果や業績がなくても自動的に昇給し、コスト高で経営原理に合わないからである。しかし、能力開発や自己啓発、仕事に必要なスキルの鍛錬や知識習得を重視しようとする職能資格制度には一定の意義がなかったわけではない[9]

能力主義に対して、90年代後半以降、登場してきたのが成果主義である。成果主義については、能力主義ほど明確な定義や制度としての形態があるわけではないが、年功的要素では賃金を決定しようとしないこと[10]、その代わり職務・成果対応の原理を強化することである。それ以外に上述の総額人件費の抑制や削減を意識した制度運用がある。職務・成果への対応ではもちろん、十分に処遇できていない実在者の水準是正が議論される。なぜなら、企業は人件費原資が少なく定昇[11]ベア[12]を抑え続けた結果、貢献度の高い実在者はその前の世代と比較すると、昇給の恩恵を十分に受けず、低い水準に停滞しているという現実があるからである。ところが、そのことはそう重点があるわけではない。むしろすでに昇給してしまった層、つまり賃金もらいすぎの人材の報酬削減を企業は強く意識している。なぜなら、成果主義の本質は人件費原資の減少に対応する動きであり、それゆえに昇給よりも賃下げが功を奏するからである。端的にいえば、人件費の抑制や削減こそが成果主義なのである。

このような性格を持つ成果主義のもとでは、どのような制度改定や運用ルールが登場してくるのか。まず年俸制がある。これは現在の貢献度合いを現在の報酬水準に対応するものとみなし、貢献度合いを表記する業績評価の仕組みとして目標管理制度の導入がセットになる。そこでは、あらかじめ示される目標課題とその達成度合いによって業績評価し報酬管理に反映しようとする。この場合、年俸制のポイントは下げる運用である[13]。本来、年俸制はそうではないのだが、日本型年俸制とは、下がるベクトルを持つ賃金管理の仕組みであるそして、年俸制、あるいはそれに近い賃金制度とセットで運用される目標管理もまた、本来はそうではないのだが、ミッションを達成できなかったことを確認する制度運用とならざるを得ない。しかし、できなかったことを確認する取り組みがモチベーションを向上させることはなく、日本型目標管理制度がことごとく失敗してきたことは多くの企業事例から虚心坦懐に学ぶべきことである[i]

いうまでもなく、年俸制や目標管理は元来、そのようにネガティブなものとして考案されたものでもないし、導入されるべきものでもない。しかし、そういう扱われ方があることを無視して取り組むことは閉塞感ある人事管理を一層行き詰まらせる危険性がある。

目標管理は本来モチベーションを向上させるための仕組みであり[14]、業績評価と連動させずに上司と部下が同じ目線で職場の問題解決を話し合う制度として導入される時のみ成功する。収益獲得などの経営問題がどうしようもないからといって、結果と結論だけを組織の末端に求め、そのための方策や実行推進策を示さないまま、ただ激しく従業員を問い質すだけでは、非生産的で重苦しく虚無的な顛末とならざるを得ない。ある意味で、目標管理万能論は今最も危険な人事改革である

ただ、ここで補足し、かつまとめておきたいが、目標管理をメインにした業績評価を推し進める人事改革は今日主流を占めており、短期的な成果を問い、それによって処遇を上げ下げする制度運用は是とすべきものであり、経営上も効果があるものとして考えられていることは「事実」と言わざるを得ない。

 

 

 



[1] 認知と承認とは、recognition and celebration のことで、R&Cといわれることがある。

[2] 米国では、報酬のことを、reward という。報酬を全体的に捉えるべきという発想から、total reward という。

[3] 売上総利益で見ることが多い

[4] 企業はかつて、相応の年齢になれば結婚することを推奨し、かつ子供が生まれ、育っていけば、生活費がかかる。だから、社業にますます励むように、というビジョン提示と動機付けを行ってきた。しかし、現在は打って変わって、自立を強く推奨し、世帯の形成や維持に冷ややかな態度を取ろうとするようになってきているようだ。

[5] 給与とか給料という言葉が一般的だが、これは支払う側の立場に立った表現で、労働側は賃金という表現を取る。本文では文脈に応じてわかりやすいように適宜使い分けている。

[6] 企業の多くは脱年功主義を標榜している。しかし、一律の初任給を払い、入社3年ないし5年は低い水準に留まり、そう大きくは昇給させないという賃金管理は一般的である。それどころか、90年代、初任給の上昇で賞与水準を切り下げるなどの運用はかなり多くなっている。若年時に低めに処遇すること自体、年功賃金は頑としている証左である。企業が問題にしているのは年功賃金によって海老反りになってしまう中高年の賃金である。こちらだけいきなり切るのはもちろん悩ましい問題である。

[7] 賃金表のことを賃金テーブルともいうが、これには職能給表と年齢給を主とした本人給表がある。

[8] 賃金には、月例賃金のほか、賞与がある。月例賃金には、基本給のほかに諸手当があるのが一般的である。

[9] 修得すべき知識が実際の仕事につながらず、社員や職員が仕事そっちのけで資格取得や社内試験の突破に憂き身をやつすという批判もよく聞かれた。また能力開発主義が破綻したのは、生涯にわたって気づきやスキルアップが可能と楽観視したことにあると思われる。スキル形成はもちろん内容にもよるが、若年時においてより活発で、30歳代半ばを過ぎればかなり緩慢なものである。スキル形成と実際の賃金カーブの乖離は日本型年功賃金の根本的な綻びである。

[10] 年功的処遇の一般的傾向として、生活保障の原理に従い、自動昇給という手続きがある。成果主義が謳われると、自動昇給部分が最初に削減されるし、年次による自動昇格も控えられ、昇格審査を厳格に行おうとするものである。

[11] 定昇とは、定期昇給のことで、同一資格等級内での習熟昇給、年齢給での生活昇給を含むもので、昇格による昇給を含まない。賃金体系を設定する以上、定昇がないことは若年層には昇給の機会がないことになる。定昇を惜しむ運用を続けると、世代間不公平が生じてしまう。通常、定昇は2%ないし2.5%程度で設計されている。

[12] ベアとは、ベースアップのことである。ベースとは賃金表のことで、その書き換え更新がベアである。初号値の更新をすれば初任給は上昇するが、実在者すべてにそれが波及する。ベアは物価の上昇に対応し、インフレ時代には必須の仕組みであった。しかし、デフレ時代にはどう扱うか、難しい問題を生じた。

[13] 期待した昇給がなくなること、ましてや賃下げを蒙ることは給料をもらうほうにはありがたい話ではない。しかし、国際的に高い賃金を押しなべて全員に払うことには無理もある。ゆえに賃下げがよくないとかけしからんという議論はここでは行わない。

[14] 欧米の産業心理学の教科書などでもモチベーションの章で目標管理は議論される。人事評価のところでは議論されない。



[i] 最近では米国でも目標管理が問題視されている。例えば、コーエンは次のように指摘する。

1950年代後半になり、MBO(目標による管理)と呼ばれる新しい経営理論(management philosophy)が機械モデルのバリエーションとして登場してきました。MBOは組織によって決定され、そこで優先すべき課題に適合した数値で示される目標を従業員に任命するというアイデアに基づいています。MBOにしたがって、新しい業績評価モデルが登場してきました。個人の働きぶり(performance)は、あらゆる目標を到達したかどうかという成果で評価測定されることになりますが、そのほとんどは量的に測られるものになります。定期的なレビューを行い、正確に定義された目標数値を達成したかどうか、つまりできたかできなかったかで従業員を評価します。

MBOの考え方と目標主導型の業績評価は当初、ダグラス・マクレガーのような傑出した人々にも非常に魅力的だったようです。人物特性(traits)や行動といったあいまいな思いつきで人を評価する代わりに、MBO型の業績評価は、明確な話し合いを約束し、測定された成果や結果によって人を評価する、量的な目標を提供します。表面的には、量的な測定を活用するという考え方は、MBOを客観的で公平で、科学的にも信頼できるものにしました。業績評価は多かれ少なかれ、狙いとする目標に到達したかどうかについて個人的な責任をより確実にするスコアシートになっていったのです。

1960年代から1970年代では、MBO人気は、MBR(結果による管理)と呼ばれるその後出てきたバリエーションと共に、急速に上昇しました。このような動向は、大企業を中心に、業績評価に適用され、幅広く浸透しました。

1980年代までには、MBO人気は頂点に達しましたが、その効能は同時に疑問視されるようになりました。多くの組織は、MBO型の業績評価は、何年もかけてやり方を工夫しても、思い通りの成果は得られないことに気づき始めました。MBO型の業績評価は、そのやり方に抵抗し不満を持ったので、モチベーターとしては概して失敗してしまったのです。上司と部下はどちらも、データをでっち上げ、期待する評価と報酬を保障してくれる「客観的」な証拠を考え出したのです(つまり、評価のためのデータをでっち上げた)。

1980年代は、TQMが起こってきた時期でもありますが、MBO型の業績評価に関しては非難轟々になってきました。実際の能力開発や業績向上は、TQMが主唱するように、量的な目標を設定することだけでは実現できないものなのです。まさしくシステムを変更しあらゆる要素(人材や仕事の仕方、構造、プロセス、ツール、リソース、職場環境など)を働かせて初めてなしうることなのです。

多くの組織は当初、MBOを織り込んだ業績評価を適用し拡大してきましたが、1990年になると、MBOに失敗した組織が業績評価を行うことを諦めるようになりました。業績評価は有用で不可欠と信ずる場合は、定例的な儀礼として継続されました。一方で、行動ベースの業績評価が復古し、洗練された評定尺度を織り込んだ評価シートがますます頻繁にお目見えしました。つまり、業績評価の新たなバリエーションが見えてきたわけです。例えば、コンピテンシーに基づく業績評価は、仕事をする際に見せるハイパフォーマーの発揮するスキルやコンピテンシーを測定するものと考えられました。業績管理システムは、業績評価を代替するものとして売れはじめ、機械的なMBO型評価は古臭くただのくだらない長話を添えるだけのものに成り下がったのです。またさらに多面評価は、多くの人が評価することで一人の評価によるバイアスを沈み込めるという発想でバイアス問題を解決するものとして発展してきました。人事系のスタッフによって推進され、これらの諸制度は、前提条件を代替し、その結果、過去を反映したさらに進歩的な評価手法による意図せざる効果が評価手法をひっくり返してきました。

Tom Coens and Mary Jenkins Abolishing Performance Appraisals 2000 第2章 p.36-37 永井隆雄訳)

(解説)コーエンらによると、MBOは90年代には疑問視され、行動ベースの評定尺度に代替され、さらに多面評価が出てきたということです。日本でもコンピテンシーなどを業績評価に活用する動きはあるが、MBOを併用するやり方がまだまだ一般的で、MBO型の業績評価への反省は不十分である。