『学問の自由の無理解』と

『研究者には理解できない判決の論理過程』

― 阿部泰隆編著「京都大学井上一知教授任期制法「失職」事件」(仮題),信山社2004年,『第6章 京都地裁平成16年3月31日判決論評』より ―

 

Academia e-Network Letter No 91 (2004.04.08 Thu)
         http://letter.ac-net.org/04/04/08-91.php

http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/040409AcNetLetter91.htm 参照

 

 

【抜粋】

・・・もし、大学教員の任期制が一般化されれば、大学教員になりたければあるいは昇進したければ全て任期制以外はない、ということになり、個々の大学教員がその自由意思に基づいて任期制か否かを選択することは不可能になる。そうすると、いついかなる理由で再任拒否されるのかは見当がつかないから、すべて萎縮せざるをえず、自由に議論することはできなくなる。このことが学問の自由を阻害することは明らかである。この判決は、学問とは何かを理解しているのだろうか。

・・・本件判決は、とにかくなぜか知らないが、原告を助けたくないという事情が先にあって、後からそれに合わせる理屈を無理矢理付けている、都合の悪い論理、事実にはすべて目をつぶっているというしかない。

・・・本件のような具体的な事案について、事実認定、本人尋問から関わって観察すると、裁判所の判断が当事者の主張に答えていない、あるいは本人尋問からも、事実をつまみ食い的に極めて恣意的に認定している、ということがよくわかる。この裁判所がこれほどまでにやる気がないことは不明にして予想しなかった。裁判所こそ正義の機関であると信じて裁判所を頼りとした井上先生は、全く信頼を裏切られて、やるせない思いであろう。

しかし、日本の司法が一般的にこんなずさんな判断をするものではないだろう。普通にいえば、どこからみても、本件は高裁では明らかに勝つべき事件であると思われる。

 

 

八 『学問の自由の無理解』

 

・・・そして、任期制度の下では任期を付された大学教員は再任拒否にあわないようにと、再任拒否権を有する者の意向に従わざるをえないので、自由な学問ができない。これは学問の自由を実質的に阻害するのである。

 

・・・もし、大学教員の任期制が一般化されれば、大学教員になりたければあるいは昇進したければ全て任期制以外はない、ということになり、個々の大学教員がその自由意思に基づいて任期制か否かを選択することは不可能になる。そうすると、いついかなる理由で再任拒否されるのかは見当がつかないから、すべて萎縮せざるをえず、自由に議論することはできなくなる。このことが学問の自由を阻害することは明らかである。この判決は、学問とは何かを理解しているのだろうか。

 

したがって、任期制の一般化は違憲である。現に、任期制法も、任期を導入できる場合は限定的だとして、1号任期制も限定されているのである。

 

この判決は、本件の任期制がなぜ1号に該当するのかという原告の指摘に対して被告に釈明させず、判断もしていないが、それは任期制が学問の自由により限定されていることへの理解がないためであろう。これも判断逸脱である。

 

このように、任期制と学問は一般的には両立しないから、まだ研究者として評価の定まらない若手はともかく、教授の任期制を一般的に導入する国は寡聞にして知らない。任期制を一般的に広く大学教員に適用している韓国においても、人事権者側から任期制を適用できるのは助教授以下であって、教授については教授側から求めなければ任期制を適用することができないしくみになっている。任期への同意を騙して取っても有効だなどという被告の屁理屈に乗る国はほかにあるとは信じがたい。

 

しかも、原告は、任期制が学問の自由を侵害するという、抽象的な主張をしているのではなく、本件の具体的な状況で、本件の任期制が原告の学問の自由を侵害していると主張しているのである。公平な、合理的な再任審査ルールがなく、恣意的に再任拒否をすることができるしくみでは、仮に任期制に同意していたとしても、自由な学問は侵害されるから、本件の再任拒否は違憲であると主張しているのである。これへの答えはない。・・・

 

 

一〇 『最後に ― 研究者には理解できない判決の論理過程』

 

私は、裁判所に、訴えを棄却、却下するならば、当方の示した理由をすべて論破してほしいとお願いした(第3章第1節)。当然のことである。

 

しかし、この判決は、重要な論点で、原告側の主張を一切考慮していない。附款の無効論、合理的な手続によって再任の可否を判断してもらう権利、再任拒否が行政処分である点、再任拒否が原告との関係で職務上の義務であるという点などがそうである。錯誤論のキーになる研究所協議会の平成10年4月21日申し合わせは完全に無視されている。

 

そもそも、本件の審理から伺えるところでは、裁判所は、法律判断なら、当事者に特に丁寧に論争させる必要はない(さっさと結審する)という態度を示していた。しかし、法律判断でも、論争して初めて論点がわかり、より妥当な考察ができるのである。法律家が学会でさんざん討論し、論文で議論を闘わせるのはこのためである。裁判官だけが、議論しなくても、すべて立派な法律論を展開できる神様であるはずはない。

 

被告はほとんど法律論を展開せず、原告は失職したと主張するだけであり、あとは、騙して取った同意も有効とか(第4章第1節)、外部評価委員会の判断に縛られるのは大学の自治に反する(第3章第6節)などと、普通にいえば失笑を買うような主張しかしていなかった。われわれ学界では、論争をするときは、答えないのは負けである。学生の質問に答えないのは失格である。両当事者の主張をみれば、井上教授が勝つのが当然であった。

 

しかし、裁判所は、当事者の主張が何であれ、法律論だから、自分で判断するということであったのであろう。その結果、判断脱漏までしても、返事をしない方に肩入れした。それにしても、なぜこのような判断に至るのであろうか。

 

本件の「同意」の実態をみないで、とにかく法律の条文と書面だけをみるという解釈態度、どんな手口であれ同意書を取ればそれが騙し討ちでも有効だという信じがたい理屈に乗っていること、それから再任審査が原告との関係で法的なルールであるということへの理解を欠くとことなどをみると、本件判決は、とにかくなぜか知らないが、原告を助けたくないという事情が先にあって、後からそれに合わせる理屈を無理矢理付けている、都合の悪い論理、事実にはすべて目をつぶっているというしかない。

 

一般に、研究者は裁判所が認定した事実に基づいて法理論を検討するにとどまるので、どうしても事件の表面だけ扱っている観がある。本件のような具体的な事案について、事実認定、本人尋問から関わって観察すると、裁判所の判断が当事者の主張に答えていない、あるいは本人尋問からも、事実をつまみ食い的に極めて恣意的に認定している、ということがよくわかる。この裁判所がこれほどまでにやる気がないことは不明にして予想しなかった。裁判所こそ正義の機関であると信じて裁判所を頼りとした井上先生は、全く信頼を裏切られて、やるせない思いであろう。

 

しかし、日本の司法が一般的にこんなずさんな判断をするものではないだろう。普通にいえば、どこからみても、本件は高裁では明らかに勝つべき事件であると思われる。