鬼界彰夫(筑波大学)

『選ばれる立場にあるのは誰か:都立大を巡る一連の事態の本質と大学を巡る市場原理のあり方』

 

「意見広告の会」ニュース131より

http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/040413ikenkoukoku131.htm

 

 

【抜粋】

・・・それは任期制・年俸制に関して言えば、よほど特殊な事情がない限りそれを大規模に導入する大学が出てくるとは考えられないということである。こうした判断の傍証となる事実をここで三つ挙げたい。第一は都立大、横浜市大の改革や様々な言説を通じてあたかも任期制が大学運営にとって先進的な制度であるかのような誤った印象が一時的に醸成されたにもかかわらず、法人への移行に際して現実に全員任期制という自己破壊的な制度の導入を決定した国立大学はわずか一校であったこと、しかも報道を見る限りその決定は不幸な誤解に基づいていると推測されることである。第二は京都大学再生研井上氏再任拒否事件に関する京都地裁の判決後の記者会見で、尾池京大総長が、京大として全学一律に任期制を導入する気がないと明言するとともに、任期制の乱用に対して警戒の念を表明したことである。第三は私が所属する筑波大学での出来事だが、一昨年以来定年の3年延長とリンクさせる形で半ば受け入れなければならない外圧かのように全員任期制の導入が真剣に評議会で議論されてきたが、定年は延長するが任期制は導入しないという決定が最近なされたという事実である。その動機は任期制の導入が優秀な教員の確保の障害にしかならないという単純な事実に大学幹部が気づいたことだと思われる。

・・・新大学の学長予定者を発表した2月13日の定例記者会見で石原都知事は「(世界の)素晴らしい大学の90%はアメリカの大学」と述べ、自らの大学改革のモデルがアメリカの大学であることを公言している。今回都がCOEメンバーに対して行った優秀な研究者の冷遇政策が、自らが誉めそやすアメリカの有力大学が営々と築き上げてきた教育研究システムの対極に位置するものであることを石原氏は知らないのであろうか、それとも知りつつ知らないふりをしているのだろうか。過去数十年の間にアメリカの大学がヨーロッパの大学を水準的に追い越した大きなきっかけの一つが、今回の都のごとき愚かな学術政策によりヨーロッパを追われた優秀な学者達をアメリカの大学が手厚く迎えたことだったという歴史的事実を石原氏は今一度想起すべきである。

・・・都立大と横浜市大の命運を握る人達、もしあなた方の真意が自分たちが表明したプランをいかなる犠牲を払っても実現することにあるなら、我々学者として最早あなた達に言うべきことは何もない。しかし都立大と横浜市大を良くすることをなお意図しているなら、何はさておいても全員任期制と年俸制の撤回を直ちに決定すべきである。そのことによりこのままだと失われる両大学の多大の知的資産が保護されるだろう。都民、市民から両大学を預かるものとしてあなた達にはその義務がある。

 

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新大学(「首都大学東京」)の文科省への設置認可申請が近づくにつれ、都立大を巡る状況は刻々と変化し、それに伴い現在日本の大学にどのような根本的な変化が起こりつつあるのかが序々に明らかになってきた様に思われる。今後長期に亘り日本の大学を方向付けるであろうこれらの事態の本質を確認すると共に、大学を巡る市場原理の本来のありかたについて私見を述べたい。

 

47日の読売新聞によると都立4大学の教員中、長期出張者などを除く513人の96%に当たる490人が新大学への就任の意思確認書を提出したという。そして就任を固辞した23名中12人が社会科学研究科の21世紀COEプログラム「金融市場のミクロ構造と制度設計」のメンバーであるという。同COEプログラムは都立大から採択された2プログラムの一つであり(他の一つは工学研究科の「巨大都市建築ストックの賦活・更新技術育成」)、16名のメンバーを擁している。従って都立大2COEの一つの75%のメンバーが新大学への就任を拒否したことになる。この結果都は「経済学コース」の設置を断念したという。

 

この興味深い出来事に対しては、大学と教員の関係をどのように見るかによって全く異なる二つの解釈が可能である。第一の解釈は、都の大学改革に経済COEメンバーが最後まで抵抗し、それに対する処罰として新大学から経済学コースが切り捨てられた、というものである。この解釈によると都が茂木総長を通じ最後までCOEメンバーの「説得」を試みたのは都の温情であり、それを無視したCOEメンバーの行動は愚かなものということになろう。第二の解釈は、新大学への移行において現在は任期のついていないポストすべてに5年の任期が一律につき、しかも後述のように実質的賃下げである年俸制が導入されるという大幅な待遇悪化に対して、COEメンバーが自分たちの研究者としての客観的価値に対する不当に低い評価と判断し新大学とは契約せず、将来見つかるであろう別の大学と契約する道を選んだ、というものである。この解釈によると都が最後まで「説得」を試みたのは、COEメンバーが新大学にとって極めて価値の高い「資産」であり、都としてはどうしても彼らを手放したくなかったからということになる。つまり都としては彼らにパーマネントなポストや特別給といったより好い条件を提示すべきであったのに、現実にはただ「説得」を試みただけであったということになる。これはいかにも非現実的な「値切り」であり、その結果有能なスタッフをみすみす失った都は大学経営者として愚かの極みということになろう*1

 

これら二つの解釈のどちらがより適切かは、この件に関して大学と教員(COEメンバー)のどちらが相手を選ぶ立場にあり、どちらが選ばれる立場にあるのかによって決まる。教員が主として選ばれる立場にあり、少々の待遇の悪化なら我慢しても現在のポストをキープするのが合理的なのであれば、第一の解釈が正しい理解となろう。他方大学が教員から選ばれる立場にあるならば、COEメンバーという付加価値のついたスタッフの獲得において,条件を上げるのではなく下げた都の行動は愚かで無謀であり、第二の解釈が正しいことになる。

 

こうした問いは、もし本来の意味での大学教員市場が既に日本で成立していれば生じないものである。その場合大学と教員の双方とも市場において相手を選ぶ立場にあると同時に相手から選ばれる立場にあるのだから、今回の事は大学と教員の間で条件が折り合わずに契約が成立しなかったということに過ぎないからである。まさに今が、そうした市場が姿を現しつつある過渡的な時期であるからこそ、こうした問いが有意味なのであり、都立大における小さな出来事の中に日本の大学の未来を見ることができるのである。

 

状況証拠は圧倒的に第二の解釈を支持している。昨年8月以来都立大の再編が問題になり始めてから、外部からも判る都立大からの教員流出が少なくとも三回起こっている。法学部4教授辞任、Nature論文のナノテク研究者の転出、そして今回の経済COE就任拒否、である。これらの教員はいずれも現在の教員市場で特別な付加価値のある人々(ロースクール特需、Nature誌のインパクトポイント、COEという文科省の権威付け)であり、客観的にいって売り手市場にある人々であり、選ばれるよりはむしろ選ぶ立場にある人々である。たまたまこうした人々が強い正義感を持ち、石原体制に反発して出ていったということは論理的にはありうるが、任期制・年俸制という大幅な待遇切り下げ(都の説明によると年俸制とは、年俸の1/2が固定給で残りの1/2が広い意味での成果給であり、両者併せて現行の給与水準が維持されるということであるから、実質的賃下げである)に対して、はるかに高い自己評価をしている研究者が新条件を問題外とみなした、と考えるのがより現実的だろう。この解釈が正しければ今回のCOEグループ流出は都にとってトラブルの終わりではなく始まりということになる。COEグループほど高い自己評価をしていなくとも、都立大の学術的水準を考えるなら、新待遇が自己の研究者としての客観的価値に対して不当に低すぎると感じている教員が相当数いると考えるのが自然である。彼らはしかるべき転出先が見つかれば新大学に留まる理由は何もないと考えているはずである。4教授辞任の場合と同様に都はそうした行動は信義に反すると考えているかもしれないが、教員の側の過失が何もないのに一方的に待遇を改悪したのは都であるから、彼らに文句を言う筋合いは全くない。そうした結果を望まないなら、任期制と年俸制を即座に撤回すればよいだけである。

 

では状況証拠を超えて、新大学とCOEメンバーのどちらが本当に選ばれる側なのかをどのようにすれば決定できるのだろうか。そのためには、大学が選ぶ立場にあるという解釈が成り立つために必要な条件が現実に成立しているかどうかを検証すればよい。COEメンバーに何の落ち度もないのに待遇を悪化させられ、しかもCOEメンバーにとってそれを受け入れる以外に選択肢がない,という事態が起こりうるのはただ一つの場合だけである。それはCOEメンバーにとっての現実的な転出先である研究志向大学すべてが一律に首都大と同じように任期制・年俸制導入による待遇改悪を行う場合にのみ起こりうることである。そしてそれが現実に起こり得る唯一の可能性は、日本の研究志向大学の核をなす国立大学が一斉にそうした待遇改悪を行うことである。かつてのように全国の国立大学が自立した判断に基づく行動決定権を実質的に持たず、文科省の意向に応じて一斉に行動するという体制であればこれは起こり得ることである。しかし今回の法人化の本質とは各大学の行動の実質的な決定が各大学の判断に委ねられたことである。このシステムが機能するなら、各大学は何が文科省の意向かではなく、何か自分たちの大学にとって有益かを専ら考えて行動するはずであるから、有能な教員を獲得する上での無意味な足枷にしかならない任期制・年俸制を導入する大学が続々と出てくるというのはおよそ考えにくいことである。法人への移行に伴って全国の大学から次々と伝えられるニュースを見る限り、事態は実際に急速に各大学の独立主体化の方向に動いていると判断される。各国立大学は文科省の下部組織から、専ら自分の大学の本当の利益を第一に考えて行動する独立したプレーヤーへと急速に変貌を遂げているように思われる。それは任期制・年俸制に関して言えば、よほど特殊な事情がない限りそれを大規模に導入する大学が出てくるとは考えられないということである。こうした判断の傍証となる事実をここで三つ挙げたい。第一は都立大、横浜市大の改革や様々な言説を通じてあたかも任期制が大学運営にとって先進的な制度であるかのような誤った印象が一時的に醸成されたにもかかわらず、法人への移行に際して現実に全員任期制という自己破壊的な制度の導入を決定した国立大学はわずか一校であったこと、しかも報道を見る限りその決定は不幸な誤解に基づいていると推測されることである。第二は京都大学再生研井上氏再任拒否事件に関する京都地裁の判決後の記者会見で、尾池京大総長が、京大として全学一律に任期制を導入する気がないと明言するとともに、任期制の乱用に対して警戒の念を表明したことである。第三は私が所属する筑波大学での出来事だが、一昨年以来定年の3年延長とリンクさせる形で半ば受け入れなければならない外圧かのように全員任期制の導入が真剣に評議会で議論されてきたが、定年は延長するが任期制は導入しないという決定が最近なされたという事実である。その動機は任期制の導入が優秀な教員の確保の障害にしかならないという単純な事実に大学幹部が気づいたことだと思われる。

 

以上の議論を要約すると次のようになろう。都立大経済COEグループを巡る出来事が示しているのは、任期制・年俸制導入という優秀な教員をできるだけ確保すべき大学にとって自己破壊的決定のために都立大はこれまで確保していた最も優秀な教員を徐々に失いつつあるということである。ここ半年の事態の推移を見るなら、このプロセスはむしろ始まったばかりであり、都が任期制・年俸制の撤回を明言しない限りあるラインまで容赦なく進行すると予想される。その後に残される首都大が学術的に現在の都立大に比ぶべくもないであろう事は想像に難くない。都立大再編に際して都がこれまで声高に宣伝してきた「理念」を鑑みるなら、これはまことに皮肉な事態といわざるを得ない。48日付の「全学教員の皆様へ」という文書で山口都大学管理本部長は任期制・年俸制の導入について、「導入の趣旨は、努力し、業績をあげている教員を適正に処遇することにより教育研究を活性化し、優秀な教員を確保することにある」、と述べている(「意見広告の会」ニュース128より)。COEグループを措いて一体どのような教員が「努力し、業績をあげている」と彼は考えるのだろうか。彼らに対して安定した研究条件を提供する以外に一体どんな「適正な処遇」があると考えるのだろうか。こうした初歩的な問いに答えるために都は一体どれだけの授業料を払う気なのだろうか。

 

新大学の学長予定者を発表した213日の定例記者会見で石原都知事は「(世界の)素晴らしい大学の90%はアメリカの大学」と述べ、自らの大学改革のモデルがアメリカの大学であることを公言している。今回都がCOEメンバーに対して行った優秀な研究者の冷遇政策が、自らが誉めそやすアメリカの有力大学が営々と築き上げてきた教育研究システムの対極に位置するものであることを石原氏は知らないのであろうか、それとも知りつつ知らないふりをしているのだろうか。過去数十年の間にアメリカの大学がヨーロッパの大学を水準的に追い越した大きなきっかけの一つが、今回の都のごとき愚かな学術政策によりヨーロッパを追われた優秀な学者達をアメリカの大学が手厚く迎えたことだったという歴史的事実を石原氏は今一度想起すべきである。

 

最後に「市場原理」という言葉について述べたい。都立大を巡る事態は、各国立大学が独立したプレーヤーになることによって大学教員の市場が急速に形成されてゆくだろう事を示している。しかし大学と大学教員が市場原理に支配されるとは、我々教員が無慈悲に安く買い叩かれるといったことを意味するのではない。各市場の何たるかはその商品の本質によって決まるのであり、大学教員の市場は我々が未知の真理の探求を愛する研究者であることによって根本的に規定されている。この市場において大学と研究者は互いに相手を選びながら、相手に選ばれるという関係にあるが、そのいずれにおいても選択の原理はよい大きな利益ではなく、より良い研究である。大学はより優秀な研究者、より優秀な教員を選ぼうとするし、教員はより良い研究条件を提供する大学を選ぼうとする。従って研究者たる大学教員の市場が成立し、外的な要因が排除され本来の市場原理がそこに働くなら、全体としては日本の研究者の水準と大学の研究環境をより向上させる方向へと選択圧が働くであろう。

 

大学を巡る市場の今一方の重要なプレーヤーが学生(およびそのスポンサーたる父兄)である。究極的な意味での大学間競争とは大学同士が顧客として獲得すべき学生の質と量を巡って行う競争である。国立大学の独立主体化に伴い大学と学生を巡る市場が確立・成熟するにつれ、大学と学生は互いに相手を選び、相手から選ばれる対等な関係へとますます入ってゆくだろう。そこで学生が大学を選択する際の究極の基準は教育の質であるが、それを決定する最大の要因が教育の授け手である教員の質である。各国立大学が独立性を持たず、全てが予め定められた大学の序列に従って決められていた時代、人々は教員のリストを直接見るのでなく、大学の序列により教員の質を間接的に判断していた。それに対して各大学が独立性を持ち、それぞれのマネージメントの良し悪しにより教員の質が変動するようになると、当然人々は直接教員のリストと彼らの経歴・業績により大学の質を判断するようになる。これは大学側からすれば、より良い学生により多く選ばれるためには、教員市場においてより良い教員を獲得するのが最も効果的な方法であることを意味する。従って大学を巡る事情が成熟し、教育と研究という商品の特性に見合った市場原理が本来的な形で働くなら、物事は「良い研究」、「良い教育」を指標としながら進化してゆくことが可能である。「競争原理」、「大学間競争」といった言葉はこれからますます多用されるであろうが、その際あたかも物事が「より大きな利潤」を指標としながら進行するかのような誤った、そして皮相な理解に大学人が惑わされるようなことがあってはならない。そうした無責任な言説に対しては各人がその場で責任を持って発言し、修正する必要がある。「任期制」を巡って一部で起きたような、誰も望まないような愚かな決定が誤解と無責任に基づいてなされるといったことを二度と起こすべきではない。大学を巡りより良い教育と研究を目指して人々が適切に競争するとき、事はより良き方向に変化しうることを我々は社会に対して説明すべきだし、自らが適切な方法での競争を実践すべきである。確かに我々の未来は混沌としている、しかしそれは日本の学術研究と高等教育にとって決して光なき混沌ではない。

 

都立大と横浜市大の命運を握る人達、もしあなた方の真意が自分たちが表明したプランをいかなる犠牲を払っても実現することにあるなら、我々学者として最早あなた達に言うべきことは何もない。しかし都立大と横浜市大を良くすることをなお意図しているなら、何はさておいても全員任期制と年俸制の撤回を直ちに決定すべきである。そのことによりこのままだと失われる両大学の多大の知的資産が保護されるだろう。都民、市民から両大学を預かるものとしてあなた達にはその義務がある。