永岑三千輝氏『大学改革日誌』2004年7月5日付

 

・・・大学の自治や学問の自由が何か評議会で答弁できない人が、他方で、大学の自治や学問の自由を「犯すことはない」と断定的に判断できるというのである。これは論理的に整合するであろうか。これは何も考えていないことの証明ではないか。・・・

 

永岑三千輝氏ホームページ

 http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/SaishinNisshi.htm より

 

 

 

200475日 総合理学研究科・佐藤真彦教授HPを通じて知ったが、一楽教授が、評議会の議論を紹介してくださった。評議会報告6 2004/7/2up情報公開の基本精神(民主主義の基本原理)を自らの態度で具体的に示そうとされるもので、そのご尽力に敬意を表したい。密室の評議会でどのようなやり取りがなされているのかよくわかる。表面的には情報公開に賛成しながら(数年前の商学部教授会議事録公開問題において、教授会議事録公開に賛成の論陣を張られた人々・・・そのとき「できるだけ公開したらいいではないか」と主張した人々)、評議会議事録公開など、いざとなると、議事録というには値しないようなもの (多分、そうした形式的な議事録で済ませると判断して公開に賛成したのだろう) で公開したと称し、他大学の閉鎖的な事例を持ち出す。すべての点で東大や京大を見習うのならいいのだが、都合のいいところだけつまみ食いするというのは、ご都合主義というのではなかろうか。議事録のあり方をめぐる議論一つとっても、学長・評議会の雰囲気がわかって、「情報公開」とはいったい何かを考えさせてくれる。

 

本質的な問題は、「大学の自治」に関わる問題であり、大学の人事が外部で決められることに対する一楽教授の質問にたいし、学長は答えられなかったようである。そのことと表裏一体のものとして、市議会・学長答弁では「社会が成熟しているので、学問の自由や大学の自治を侵すことがない」などと答弁している。大学の自治や学問の自由が何か評議会で答弁できない人が、他方で、大学の自治や学問の自由を「犯すことはない」と断定的に判断できるというのである。これは論理的に整合するであろうか。これは何も考えていないことの証明ではないか。

新任人事の公募において「大学の目標」を掲げて、踏み絵を踏むようにしていることは、学問の自由を犯しはしないか?

「大学の目標」なるものは明確か? 学生説明会や新聞での記事で学長は、明確な大学の理念を打ち出せなかったではないか? 社会一般や学生に明確に説明しえない「大学像」(しかも、具体化に当たっては大幅なコースの削減を初めとして、さまざまの点で根本的な変更が加えられているもの、したがって、たくさんのあいまいな点があるもの)を「踏み絵」にすること(したがって判断が恣意的になる−応募者の側においても採用の側においても―ことは必然の条項)が学問の自由を脅かし、応募者の精神の自由を束縛する。それは「学問の自由」に反しないのか?

「社会が成熟している」はずの日本の首都において、都立大学の3月の恫喝文書など、れっきとした学問の自由への侵害行為だと思われるが、どうだろう。すくなくとも、昨日紹介した都立大学非就任者の会のHPかくして、私は、首大非就任者になった」法学部教員・高村学人(31歳)氏および「東京都立大学辞職の弁 荻野綱男2004.7.2によれば、あの「恫喝文書」をみて、とてもこんな大学にはいられないと考えた。

行政の恫喝は、そのように大学人の精神を圧迫し、踏みにじっている。もちろん、当局の恫喝や品性のない言動に嫌気がさしても、そうした恫喝などに屈さず、恫喝を跳ね除け、あるいは諸事情があって当面余儀なく現在のように500名近い教員(485名とか)が新しい大学への就任(さしあたり文部科学省へのカリキュラム申請において)を承諾している。しかし、この状態は、「学問の自由」や「大学の自治」にはほど遠いのではなかろうか?少なくとも、生き生きと自由な空気でないことだけははっきりしているのではないだろうか? 「学問の自由」や「大学の自治」にはその程度・深さと広がりにおいてピンからキリまである。そのどこに、わが大学は位置づけられようとしているのか?