神奈川のレッドパージ

 

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594.神奈川のレッドパージ 

返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:7月26日(月) 15時57分

<新かながわ>に次の記事がありました。
当時のパージについて、経験者の言葉です。
当時、私はまだ学生だった。
夢中で暮らして、その記憶も定かではない。
私が教師になったのは、1950年秋だった。
適格審査というのがあって、政治活動についての質問があったのを思い出す。
この筆者の場合は、団体等規制令で、共産党員として登録していたのではないかと思う。

聞き語り 神奈川のレッドパージ 
藤沢第1中学校 吉田綏子(当時22歳)

思想による解雇をした権力

 私は一九四八年、専門学校(現在は大学)を卒業し、藤沢市でモデル校となった而立第一中学校に就職しました。担当科目は英語で、英語教師は先輩のT先生と私のはかに三人おりました。
 戦後間もなく、まだ食料も不足している生活にもかかわらず、先生も生徒も新しい教育に向かって希望にあふれ、解放感に満ちた気分のよい職場でした。
 ところが一九四九年十月のある日、T先生と私は校長室に呼ばれました。教員のレッド・パージのことは聞いていましたから、いよいよ来たなという緊迫感が走りました。校長はひどく言いにくそうに、県教育委員会からの通達で、「休職」にすると告げました。理由はアメリカ占領軍の要求で制定された「行政機関職員定員法」によるものだといいます。
二人とも日本共産党員であることは明らかでしたが、思想による解雇など民主主義の世の中にあるわけがありません。私たちの「辞める気はありません」との答えに、校長は説得をあきらめ、書類は後日内容証明つきの郵便で送ってきました。
 「翌日から学校に来るな」という言葉を無視して、私たちは時間通りに授業を続けながら、生徒に校長から教師を辞めるよういわれたが」′悔悟納得できないことを訴えました。子どもたちは熱心に聞き、家に帰って話したようです。それも三日ともたず、教室に入ることは暴力に近い形で妨げられました。
 不当解雇に驚いた親たちは、毎晩のように集会を開き、校長に抗議しでくれました。「合法政党の共産党を理由に解雇することはできないはず」「英語教師五人のうち二人も解雇しておいて、なにが定員過剰だ」等々の意見に校長は反論できず、「実は私たちも困っている」という始末でした。
 この時私は、「権力」というものの存在をはっきり見たと思いました。「定員法」は表向きで、本来は占領軍の反共的な命令であることはみえみえでした。

変らぬ態度で接する人も

 同僚の教師たちは職員会議を 開きましたが、「占領軍の命令では仕方がない」という意見が大半で、県職員組合もなに一つ援助してくれませんでした。
 四面楚歌の中で、以前と変わらぬ態度で接してくれた二、三人の教師がおり、私は人間の価値を知らされた思いでした。
 藤沢で教員レッド・パージを受けたのは藤沢第一中二名、六会中一名、小出中一名でした。私たちは不服審査請求を提出しましたが、県教育委員会は審査会を開いたものの、その後なんの返事もありをせんでした。
 こうして職を奪われるとともに、私は明日食べるものもない状態に追いこまれました。そんな時、佃煮売りをすすめてくれる人がありました。そこで二人で佃煮を仕入れ、小袋につめて、生徒の家々を訪問することにしました。親たちは快く協力してくれ、その年の暮れと正月は家族の世話にならず、なんとか年を越せました。
 明けて一九五〇年、二人で相談して、T先生の家を教室にして、英語塾をはじめました。
 その頃、三鷹事件、松川事件が起こり、共産党幹部の追放、「アカハタ」の停刊、「反共は戦争の前夜」といわれる通り朝鮮戦争が勃発しました。党員としての生活が忙しくなり、塾の方も忙しく、そのためレッド・パージ対策には手がまわらなくなりました。
 レッド・パージの経験は私の人生に深く根ざし、五十年党員になるまでの活動を支えてくれました。いまも地域の党支部で長く活動してきた同志たちと共に、若い人を育てられなかったと嘆きながらも、生き甲斐である仕事を懸命にこなしています。戦争のない時代へ向かって、世界が進んで行くことに希望を持ち続けながら―。