国をしばる憲法から国民をしばる「憲法」へ

 

法学館憲法研究所 http://www.jicl.jp/hitokoto/index.html より

 

 

 

国をしばる憲法から国民をしばる 「憲法」へ

2004830

 

斎藤貴男さん(ジャーナリスト)

【聞き手】馬奈木厳太郎さん(早稲田大学大学院)

 

国民の生き方の規範としての憲法へ

 

―改憲をめぐる現在の状況についてどのように見ていらっしゃいますか。

斎藤 自民党、民主党、公明党は「論点整理」や「中間報告」を相次いで公表し、憲法を変えたいということで一致しています。財界も改憲に向けた提言を出すということで、全体として完全に改憲のシナリオができています。このままいくと憲法は改正されるだろうと思います。多くの方は、その流れはそんなに大変なことではないと感じておられるのではないかと思います。9条改正や男女平等の見直しなどいろいろ指摘されていますが、一番危惧しているのは、その大本にある憲法についての考え方です。もともと憲法とは権力を縛るためにあります。しかし、改憲論は、そのような立憲主義の考え方を否定しています。逆に、国民の生き方の規範だというような話になっています。こういう考え方で改正された憲法の下で生きる人間の将来のことを思うと、暗澹とした気持ちになります。民主党は新しいタイプの憲法などもう少しスマートな言い方をしていますが、やはり同じようなことを言っています。

 憲法とは国民の生き方を規定するものだと考えているからこそ、教育基本法を変え、国のために命を投げ出す人間をつくるというようなことを、単に大仰なこととしてではなく、本気で言っているのだと思います。端からは被害妄想的と見えるかもしれない恐怖を私が抱くのは、単に「論点整理」などを見ただけからではありません。20何年間かの記者の仕事をしてきてそう感じています。

 最近法学セミナーの9月号に書きましたが、改憲派の論客の一人である小林節慶応大学教授も、おそろしくなって付き合いきれないという趣旨のことを言っています。

 

「自由からの逃走」

 

 これも同じ所に書きましたが、自民党内の憲法調査会で、伊藤信太郎衆議院議員が、「多くの国民は自由を求めているようでいながら、実は自由から逃れたいと密かに思っている。だから新しい憲法では国民はこういうふうにものを考えれば幸せになれるんですよということを示してやる必要がある。これは潜在的にマジョリティーの国民が持っている願望ではないか」というようなことまで言っています。一般の人の想像をあまりにも超えているので、なかなかぴんと来ないかもしれません。彼はエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を持ち出してこのように言っているのですが、フロムの場合は、人間というものは弱いので、ほうっておくとファシズムにやられてしまうから、そうならないためにどうしたらよいかという議論をするために、人間の弱さというものを提示したのです。伊藤氏の発言は、ナチスから逃れていった人が必死で書いた人類の知的財産までを平気で冒涜すると同時に、人間というものをとことんなめきっていると思います。あからさまな選民意識です。このような人がこの国のリーダー然として振舞っていることが許されてしまっている社会に限りない危惧を抱きます。この人は父親の故・伊藤宗一郎防衛庁長官・衆議院議長の子息です。親の七光りといってよいでしょう。小泉内閣の閣僚の全員がこのようなタイプです。自分の力で何事かを切り開いたことのない人たち、権力を私して他人を自分の意のままに動かすことを当然のように考えている人たちが、国民の規範としての憲法を定めるなどというのは、考え方の根幹からして異常です。このことはどれほど警戒しても警戒しすぎることはないと思っています。

 

憲法が変わったらどうなるかという想像力 

 

―改憲か護憲かというより以前に、憲法が自分たちにどう関わるのかということについて当事者意識を持てない若い人が多いのではないかという見方についてはどう思われますか。

 

 

斎藤 私も同じ見方をしています。何もかも憲法のおかげで今があるというような言い方はあまり好きではなく、憲法という制度的なものはそこはかとなくあって欲しいと思いますが、ジャーナリスティックに分析してきて導かれた結論をいえば、先ほど言ったような人たちが支配してきても、現在のところ自由がある程度存在するのは、憲法のおかげだと考えざるをえません。私は、平和や人権の意識がまがりなりにも普及していた時代に子どもの時代を過ごしました。そして、バブル経済の負ではないいい意味での影響として、差別はいけないというように、少しづつでもましな方向になってきていたと思います。声高に強調するというのではありませんが、これはやはり憲法のおかげであることを自覚すべきだと思います。

 若い人たちが、自分たちは憲法のおかげではなく、もともと自由だと思っていたり、戦争を知らない人が増えてきたということは、素晴らしいことだと思います。その反面、憲法が変わってしまったらどうなるかとか、戦争になったらどうなるかということについての想像力があまりに欠落しています。ここで立ち止まって考えないと、世の中は180度転換しかねません。

 

人質事件と「自己責任論」

 

―自由とか平和とかということをあまり意識しないでも生活できてきたのは憲法のおかげだということを考えるきっかけとなることができるものが、何か具体的にありますでしょうか。

斎藤 第1はイラクの人質事件です。これには見るべき視点が二つあると思います。一つは、人質になった方々に対して自己責任だとか言った大衆の空気です。人間は誰でも自己責任を伴っていますが、人質になった方々は、その意味での自己責任は、死にそうになったほどですからいやというほど果たしたわけです。誰にも迷惑をかけたわけではありません。それなのに、何の関係もない人間がいろいろいうのは、本当はとんでもなくおかしいことです。それは、自分が持っているさまざまな不満を弱い立場の人間にぶつけたのであり、情けないというか、卑しいというか、最低のできごとです。しかも、マスメディアも大衆も対象によって使い分けました。安田さん、渡辺さんの時よりも初めの3人に対するバッシングの方がすごかった。しかも、高遠さんに対するものが一番すごかった。それは早く言えば「女子供」だからです。この低次元さは尋常ではありません。橋田さん、小川さんの時は褒めましたね。それは死んでしまったからですよ。「生きて辱めを受けず」という、まさに銃後の思想です。このような大衆の空気の怖さというものを改めて見直す必要があると思います。大衆というのは、このホームページを見ていただく人たちを含めてです。

 二つ目は、自己責任論は政府が強調したことです。当初は、人質の方々の自作自演だとまでおとしめました。権力は少なくとも国民一人ひとりの生命や尊厳など護ってはくれません。ただ、それを護るという建前があるからこそ税金を取って国家は成立しているわけですが、その建前さえもかなぐり捨てました。政府はいざとなれば国民を簡単に見捨てます。それどころか、自分のせいにしてしまいます。そして、こういう人たちが今政権の中枢にいるのだということをもう少しわきまえなければなりません。小林節さんが「この人たちとは一緒にやっていけない」と言い始めたような事態になってきているのです。

 

今表現活動に対する攻撃がすごい

 

 第2に、今表現活動に対する攻撃がすごいです。例えば、立川の自衛隊宿舎に反戦ビラを配った人や、しんぶん赤旗を配った社会保険庁の職員が逮捕されました。また、石原都知事の車を蹴った人が逮捕されました。蹴った行為はもちろんいけません。しかし、単に蹴ったのではなく、知的障害のある方が石原知事によって補助金を減らされて怒ってやったことです。石原知事のしていることは社会的弱者の差別です。大本の原因を改めることなしに、それに反対する人を権力で逮捕するというのはファシズムです。

 私が直接取材したものでは西荻窪の落書き事件があります。党派性もない―党派性があるかないかは関係ありませんが―唯の若者がトイレに「戦争反対」と書いて逮捕され、44日間拘留され、建造物損壊罪で懲役1年2か月の刑を受けました。これは新聞が一面トップで扱ってもおかしくない事件です。戦時中の新聞を見ると、逮捕してみたら共産党員でなかったことが分かって厳重説諭のうえ釈放したというふうに書いてあります。今回の事件は落書きの内容自体を問題にしており、戦時中よりひどい言論弾圧です。戦後まがりなりにも言論の自由があり、普通の人間が言いたいことをある程度言える期間があったというのが戦時中ないしそれ以前とは違います。この期間があった分だけ、権力を持った人々の逆切れというか、普通の人があれこれ言うのはうるさいという反応を示しています。民主主義の期間があるだけに、民主主義を憎む人々による反動の時代になるという可能性もあります。

 一連の言論弾圧をよくよく精査してください。そうすると、憲法が変わってもそんなにたいしたことにはならないとは絶対に言えないと思います。

  

国がやることを社会の側が受け入れる素地

 

 

―国家のやるそのようなことを社会の側が受け入れる素地ないし気分があるのでしょうか。今行われて入るオリンピックにしても、フォア・ザ・フラッグというか、日の丸のためにというか、そういうものにコミットすることに全く躊躇しない、あるいは意味を自覚しない雰囲気があるように思いますが‥‥。

斎藤 客観的に見れば社会が弛緩しているということでしょうが、多くの人は無自覚的にせよ、積極的に受け入れてしまっています。伊藤信太郎議員が言っていることが当たっていないとはいえません。戦後培ってきた自由をもてあましてしまっています。高度成長時代やバブル時代のように会社に入ってしまえばなんとなく生きていけた時はある程度自由を享受できました。しかし、今のように会社で正社員として働くこと自体がとんでもなく大変なことになってきた時代では、何でもいいからとにかく仕事を下さいということで、より強い者にしがみつくことが当たり前になってしまっています。不満だらけですが、その不満が選挙などで表現されずにより強い力にすがり、不満は自分より弱い立場にいる人にぶつけて差別しています。権力を持った人が差別発言をしても新聞もそれを揶揄さえせず、国家の側も差別は悪いことではないよというようなメッセージを発しています。こういうメカニズムになってしまっています。

 オリンピックについては、平和への期待という建前は重要であり、オリンピックがあること自体は賛成です。しかし、国を挙げて強化合宿ができるような金のある国が金メダルを取っており、偽善的です。そして、あまり政治的な意識を持たないで共同体意識を持たせる場になってしまっています。

 人間は21世紀の今日まで何世紀もの間何のためにいろいろな議論してきたのでしょうか。金がなくてつらいからより強い者にすがるというのでは、原始人ではないかと思います。知性が全否定されているような現状があります。これでは獣です。獣なら獣で殴り合いで決めようということになりますが、人間はもっといやらしくて、権力を持った人間が自分に都合のいい世の中を作ろうとしています。弱い人間は権力を持っている人間の駒になろうとしています。

 

日本国民であることをやめない理由

 

―なかなか状況が変わらないという雰囲気があるかと思いますが、にもかかわらず日本国民であることをやめない理由は何でしょうか。

斎藤 日本国民であることをやめないのは、自分が生まれた日本列島という故郷が好きだからです。それと日本という国家に対する愛国心は区別して考えています。それに、外国に行けばそちらの方が素晴らしいとも思えません。

 

権力に対する怒りの原点

 

―斎藤さんの権力に対する怒りの原点のようなものは何でしょうか。

斎藤 権力が威張っているのは許せないという私の性格もありますが、直接的には、記者として20数年間やってきた取材活動の積み重ねですね。例えば、ワクチンの予防接種の副作用で亡くなったり知的障害が残った子どもの親が裁判に訴えていますが、因果関係を認めようとしません。たまたま裁判で認められても、絶対に誤りらないで金だけ払います。

 殺人犯とされたが、1986年に再審で無罪になった梅田義光さんの事件を取材したことがあります。取材当初は、記事にはならないだろうと思いました。警察も検察も裁判所もそれぞれ「犯人だと信じて仕事をした」というありきたりの答えしかしないと思っていたからです。多くの人は国家を信じていますから、同じ立場に立たされれば皆そう思うでしょう。しかし、実際はとんでもありませんでした。警察官は、「上司が梅田が犯人だというから犯人にした」と言っていました。裁判官は、当時の裁判の不備は認めるわけです。その上で、「見ていたわけではないから本当に梅田が犯人かどうかはわからない。しかし、国家の代理人としての裁判所が決めたのだから後で覆すことがあってはならない」というようなことを平気で言うわけです。そして、取調べた刑事課長は、「間違った責任は課長というポストにあるのであって構成員である私個人にはない」と言い出すわけです。似たような話は天皇の金貨の偽造事件の際に大蔵省でも聞きました。「役所の責任というのは国庫課長というポストにあるのであって、当時そのポストについていた者にあるのではない」とのことでした。若い時は国がやっていることは正しいことだとついつい思ってしまいがちであり私もそう思っていましたが、記者をやっていてそうでないことがわかりました。40歳を過ぎて自信をもって国を批判することができるようになりました。

 それから、父のこともあります。父は、関東軍の特務機関に勤めた後シベリアに抑留され、1956年に日本に帰ってきましたが、スパイ扱いされました。スパイなどできるような父ではありませんでしたが、国は一度スパイの疑いをかけると途中でリストからはずすようなことはしないで、死ぬまで公安の監視下に置いていました。このような体験も国は信じられないという気持ちにつながっています。

 

 

◆斎藤貴男さんのプロフィール

 

ジャーナリスト。1958年東京生まれ。早稲田大学商学部卒。英国バーミンガム大学大学院修了(国際学MA)。日本工業新聞記者、プレジデント編集部、週刊文春記者などを経て独立。著書は「カルト資本主義」「機会不平等」(文春文庫)「プライバシー・クライシス」「(文春新書)「バブルの復讐〜精神の瓦礫」(講談社文庫)「梶原一騎伝」(新潮文庫)「小泉改革と監視社会」「『空虚な小皇帝―『石原慎太郎』という問題」(岩波書店)「日本人を騙す39の言葉」(青春出版社)「サラリーマン税制に異議あり!」(NTT出版)「経済小説が面白い」(日経BP社)「ワクチンの作られ方・打たれ方」(ジャパンマシニスト社)「いったい、この国はどうなってしまったのか!」(魚住昭との共著、NHK出版)「『非国民』のすすめ」(筑摩書房)「教育改革と新自由主義」(寺子屋新書)「絶望禁止!」(日本評論社)など多数。法学セミナー9月号から「ルポルタージュ憲法」連載中(第1回「立憲主義が危ない」)。