横浜市立大、大学改革推進本部主催 説明会

 

全国国公私立大学の事件情報 http://university.main.jp/blog/ 

http://university.main.jp/blog/archives/001984.html より

 

 

20041005

横浜市立大、大学改革推進本部主催 説明会

大学改革日誌(永岑三千輝教授)
 最新日誌(2004104(2)

 101日夜、大学改革推進本部主催(という言葉は当日、現副学長が入試実施体制に関する説明のなかで使用したものだが、この間のすべての手続きからしてまさにそれ以外ではない、つまり大学が主体ではない、そうではありえない)で開かれた説明会に参加した。時間は、18時から19時半という設定で、当局側の挨拶や説明で1920分過ぎまで使った。その上で、「時間がありませんので、時間以内で」という限定を繰り返しつけながら、一応は意見を聞くとして、質疑応答という若干の場を設定した。

 商学部のある教員からは、51名の教員定数に対し現在38名であり、この欠員の多くは今回の改革に対する拒否の態度表明である、この補充はいったいどうなるのか、といった質問が出た。私の聞き取りえた限りでは、文部科学省への届け出にあたり、必要最小限[1]の人員は補充した、という説明であり、現在のカリキュラム体系のためには、補充しないとも取れる発言であった。いずれにしろ、説明会という法的性格の不明な場での、したがって責任ある答弁ではないわけだから、何がどうなるかはわからない。

 別の商学部教員からは、副学長予定者なる人の使用したキーワード「プラクティカルなリベラルアーツ」なる概念とその説明に対する根本的な疑念が改めて表明された。私など、教授会の議論がきちんと行われていないので知らなかったが、新学部長予定者の答弁によれば、入試用の大学案内では、この物議をかもしつづける「プラクティカルなリベラルアーツ」は一切使用しないようにしたようである。それに代えて、「実践的な教養」という言葉を使用することで統一しているという。副学長予定者がこうした対外的な大学案内において使用されることになった言葉(ないし、正確には「用語統一」というべきか)を知っていなかったということ、こうしたことに驚いた。現在の行政主義的改革がもたらす問題性を端的に示しているのではないかと感じた。

 国際文化のある教員は、配布されたカリキュラム表で、担当者欄がすべて星印で示され、固有名詞がわからないようにされていることを問題とした。文部科学省に届出をした正式資料(各担当科目の担当者の職階と固有名詞を明記したもの)を説明会で配布できない(しない)というこの現実は何を意味するのだろうか?「説明会」というのはその程度の非公式のもの、ということであろうか?

説明会は、冒頭、現学長が挨拶し、改革が成功しているとし、中央教育審議会の報告における「総合教養型」大学こそ今回の本学の改革方向であると位置付けた。そうした姿勢からは、権威あるものを利用できるところは利用しようという姿勢、外部の基準・ものさし(「プロクルステスの寝台」)を具体的なものに当てはめるという問題性が伺われる。

だが、本学の方向性が総合教養型大学だとして、それでは、この間の「改革」からは早い時点で関係のなかった医学部はどうなるのか?

また、鶴見キャンパスの最高度・最先端を目指す生命科学連携大学院はどうなるのか?

むしろ、今回の文科系教員削減(の傾向)は、鶴見キャンパス新設(さらには看護短大の4年制化も?)(そちらに教員定数を配置したこと?)に関連してのことではないのか?

現学長発言は、横浜市立大学の総体を歴史的に適切に位置付け表現するという基準から見れば、問題発言だと感じた。これまでの瀬戸キャンパスンに関する「改革」の正当化だけを目指した発言ではないか、と。学長は、昨年12月の自らの市議会答弁を引用しつつ、改革は、「道半ばだ」と繰り返し強調した。この抽象的な言葉だけで、何が今後の本質的課題なのかは示さなかった(私が理解できなかっただけかもしれない)

ついで、市長から任命された大学改革推進本部最高経営責任者の挨拶があった。学長と違い、これまでの改革の進め方が多くの問題をはらんでいることを率直に認める文言がその挨拶には含まれていた。この否定しようもない事実を、何も認めようとしなければそれこそ大問題だろう。当然のことをきちんと認めることは、信頼確立の一歩だと考える。

だが、それがどのような諸事実を意味しているのか。その理解は今後具体的な政策や発言で、おいおいに確認されるであろう。

ついで、市長・行政当局が任命した新学長予定者の挨拶があった。私には彼の日本語が良くわからなかった。後半部分は英語で話したが、それも私には日本語以上に良くわからなかった。この学長予定者を選んだ行政当局・大学改革推進本部の人々は、新学長予定者の発言内容が良くわかっているのであろう。

私が日本語発言部分で理解しえた数少ないことのひとつは、能力主義を強調したことであった。業績さえあげれば年齢に関係なく登用するというようなことを発言したと記憶する。

公明正大な能力主義こそは、私も共感する。公明正大でなければ努力のしようがない。これこそが現在の大学改革で、本学においても全国においても求められていることであろう。

しかし、問題は、能力の内容である。

これまでだってある意味の「能力」を示した人々が登用されてきたのではないか?

今回の「上から」「外から」の任命だって、ある種の能力判定基準を持って行われたのであろう。それが公明正大であるかどうか、多くの大学人の共感や信頼を得るかどうか、広く社会的承認を得るものかどうか、ここが問題なのである。

根本的に重要なことは、能力の基準、能力判定の公明正大さ・審査体制であろう。そこに大学の自治や学問の自由、大学の生き生きとした発展が深く関係してくる。大学内外に対する社会的説明責任が問われる。

そこで次の疑問が湧く。そもそも、今回、新学長予定者を選ぶにあたって公明正大であったといえるのだろうか? いかなる審査体制であったか?誰が見つけてきたのか?その妥当性は?

その手続きに問題はなかったであろうか?

形式的には問題ないとしても、実質的には?

今回の学長任命は、以前この日誌でも書いたが、現大学の最高幹部(少なくとも副学長以下の人々)でさえも、記者会見・記者発表当日の部局長会議で知らされたという。つまり、行政当局の独断専行というべき学長任命である。そこに公明正大さ、能力基準の公開、能力判定のオープンさはあっただろうか? こうした手続きの上で、「外から」「上から」任命された学長の発言、その内実と貫徹力は、どれだけ多くの人が信頼し、共感を寄せるものだったのだろうか?多くの人は半信半疑ではなかろうか。これも今後の新学長予定者の具体的な活動で実証・検証されるべきことであろう。

新学長予定者発言でもうひとつ私が理解しえたのは、大学の研究教育の中心的担い手は恒常的安定的な教員職員によらなければならない、という部分であった。臨時的な任期制のような短期的・不安定・不確実なポストは限定的なものに限るという発言だと理解した。この点、現学長のスタンスとは決定的に違うであろう。そこに新学長予定者のアメリカにおける体験が活かされているとすれば、すばらしいことである。それに共感した。

だが、これまた私の主観的なだけの、そしてまた私の法的感覚でうけとめ理解しえただけのことであるのかもしれない。これも単なる説明会の発言であり、かりに私の理解どおりだとしても、それは単なるリップサービスであるかもしれない。その信頼度・正確度は確認できない。まさにそうした信頼度・説明責任を問われないのが、「説明会」というシステムであろう。今後、学長予定者がどのような発言と行動をとるか、これが問われる。

今回のたんなる「説明会」にいったいどれだけの人が出席したのであろうか?カメリアホール前半分の壇上に向かって左側前方に主として席を占めていたのは、大学改革推進本部関係の人々(20名程度?)だった。中央、右側に座っているのはほんの数人ぱらぱらとだった。

一般教員参加者は、主としてカメリアホールの後ろ半分の席にいた。ここには、かなりの人がいたように思うが、何名だったのだろう?

正規の審議機関の議事録ならば、出欠確認はきちんと個人名に従って行われ、議事録で確定できるが、そのようなものはない。

教授会のような正規の審議機関、学則上の権限と責任を持つ会議ではない以上、別に出席の義務はない。単に「説明」を聞きたい人だけが参加するということである。説明に疑問や異論を感じても、発言することに有効性がないのだから、どれだけの人が発言意欲をもったかわからない。いくつかの挨拶・説明に対しては、「無責任だ」、「いったい何を言っているんだ」という声が聞こえてきた(これも私の空耳かもしれないが)

「時間がない」とはじめから釘をさし、「本日説明した内容に限って」と縛りをかけ、積極的な発言・自由な発言を求める雰囲気ではなく、物理的にも質疑応答とされた時間は10分を切っていた。そうした抑圧的制止的運営をみると、私は発言する意欲も勇気も湧かなかった。

それはさておき、じっさいには少し延長して、答弁を含めて質疑時間は15分−20分くらいになったであろうか。それにしても、ここでの実際の発言は、どのような意味・有効性があるのか、疑問ではある。(説明会を終えるにあたって、意見があれば個人的に後でいろいろと申し出るように、という司会者発言があり、オープンな場での発言ではなく、非公式の場・閉鎖的な場での意見具申は問題ない、ないしは希望しているようである・・・これも私の誤解かもしれないが)

最後の発言者(国際文化学部)は、6月の「説明会」から実質的に重要な点で(担当コマ数その他の実質的部分、任期制等)何も変化がないではないか、と主張した。

答弁では、大学改革推進本部の教育研究評価プロジェクトでの検討が進行中であるとのことだった。そしていずれ中間報告を出すということだった。だが、この理解も正確でないかもしれない。

その発言者は、この重大問題に関する説明会を早急に求める、と発言した。「説明会」の法的有効性はないと思われるが、ともあれ、オープンな説明会だけでも早急に求める、ということであろう。それだけ、オープンな情報が欠如しているということでもあろう。

さて、情報公開、オープンな議論は、どうなるか。

 

Posted by 管理者 : 20041005 01:10 | トラックバック