斉藤貴男トーク「教育改革と新自由主義」メモ

 

はてなダイアリー Kawakita on the Web

http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20041106#p3 より

AcNet Letter 206 (2004.11.10) 参照

 

 

[archives] 斉藤貴男トーク「教育改革と新自由主義」メモ

読むと結構鬱になります。

古い保守主義と新自由主義の違い

·         斉藤氏から見ると、今の日本・小泉政権および次の政権を担おうとしている人々が目指そうとしている社会は戦争と差別が当たり前になる国にしようとしているように見えるとのこと。アメリカは国内においては民主主義を標榜しているが、国外に対してはダブルスタンダードで収奪を繰り返しているが、そのミニチュア版を指向しているように見えるとのこと。

·         古い保守主義は日の丸・君が代問題などで姿を現しているが、現実に世の中を動かしているのは新自由主義の考え方。新自由主義は企業に自由を与え、それに邪魔する要因をことごとく排除・監視する考えの総体とのこと。

·         新自由主義とはアメリカが資本主義を貫いている中で採用している考え方で、企業にかける税金を安くし、海外移転を認め、雇用に対してもあまり規制をかけないなど、できるだけ企業活動には規制緩和をして自由に振舞わせ、いわゆる市場原理で世の中を回していこうという考え方。

·         新自由主義にはもうひとつ市場原理・企業活動を阻害する要因を排除していこうという考え方もあるとのこと。安全性よりも効率を重視したいのに安全性を要求する市民グループ、限られた政府の能力(予算)を企業のサポート以外の分野(福祉や教育など)で使用することを要求する者たちなどをできるだけ排除し、限られた財源を企業に役立つ分野でサポートする方向で使いたいという考えをもつとのこと。

·         新自由主義を進めていくと貧しい人はより貧しく、富める人はより豊かになっていく階層間格差が拡がっていく社会になり、国内の文脈で考えれば貧しくなった人たちが犯罪を犯すようになり、国際間の文脈で考えればテロが起きるようになるので、軍事力・警察力で排除、犯罪を犯しそうな人は監視するという状況が生まれるとのこと。

·         新自由主義の社会は大企業・多国籍企業には非常に都合のよい社会になっており、それ以外の世の中の大部分の人にとっては一方的に収奪されるような関係になってしまうとのこと。

·         日本は不景気だといわれるが、それは日本国内だけを見れば失業者は増え若者は職に就けず確かに不景気だが、日本に本社を置く多国籍企業は史上空前の利益を計上している。国内の高い人件費を嫌って日本国内の工場を潰し、海外の安い人件費の場所に工場を作って製造することで、大抵の製造業はグローバリゼーションの恩恵を授かってそのような状況にあるとのこと。企業は儲かっているが日本国内では仕事がないという状況が出てきているとのこと。

·         しかし安い労働力の国はリスクが高く、いつクーデター・暴動が起こるとも限らないとのこと。カントリー・リスク、ポリティカル・リスクと呼ばれるものを解決するために軍事力がほしくなり、これまでアメリカがやってきた経済発展のためには軍事力の行使も辞さないという姿勢が日本が目指している姿ではないかとのこと。

·         グローバリゼーションは国内マーケットにも適用され、新自由主義は海外の企業が参入しやすくするということも行うようになり、法律・商慣習などをグローバル・スタンダードと呼ばれるアメリカの仕組に変えていっているのが今の日本の「構造改革」とのこと。それまでの日本の土建屋政治が不快なものであったために構造改革と呼ばれるものがいいものと思われがちとのこと。

·         しかしこれまでに行われた改革をひとつひとつ見ていった場合、どういう人が恩恵を受けどういう人が迷惑したかは明白で、もともと恵まれた人たちは得をするという構造とのこと。税制改革を例に取ると邦人税の大幅減税、所得税の累進課税の緩和と課税最低限の引下、消費税の大幅アップ。企業と金持ちからは税金を取らず足りない分は貧乏人から巻き上げる方向。経団連・奥田会長が示したヴィジョンによると2015年までに消費税は16%にして、法人税はほとんどタダにするというものらしい。

·         雇用改革では従来日本経済の強みといわれていた終身雇用・正規職員をやめる方向であり、日経連が示した分布によると長期能力蓄積型従業員(エリート)、高度専門能力活用型従業員(スペシャリスト)、雇用柔軟型従業員(その他)にわけられていくとのこと。エリートは将来の幹部候補。スペシャリスト正規雇用でも終身雇用でもないがそれなりに遇するプロ野球選手のような働かせ方。能力が陳腐化すると用がなくなる。もっとも酷いのが雇用柔軟型。企業が雇いたいときに雇い解雇したいときに解雇してよく、それで異議申し立てをする権利がない働き方。最初は工場労働者・女性労働者などから始まり、最近では大学の新卒者も「新卒派遣」となりつつあるとのこと。

教育改革と新自由主義

·         教育改革で有名なのはゆとり教育。2002年4月の教育指導要領に基づき実行されており、従来よりも小中学校で教える時間数が3割削減されているとのこと。導入当初の文部省の公式見解は、従来の教育が詰め込み型で受験競争が激しくなり学校が殺伐としたので、ゆとり教育にすることで全体のハードルを下げることでみんなが必要学力を満たせるようになる、というもの。

·         日本中の学校がゆとり教育になるのであればそれなりに公平であり、高校・大学受験のレベルもその分下がればそれなりに筋が通るが、現実には高校・大学受験のレベルは下がらず、私立の小中学校・中高一貫校などはゆとり教育に従わないという宣言を行っているCMを打ち始める。私立が今までどおりの教育を行い公立だけが3割授業を減らした結果、公立に行くと落ちこぼれになってしまう構造ができたとのこと。

·         ゆとり教育の教育指導要領を作成した教育課程審議会の会長・三浦朱門氏に取材したところ、日本は以前から子供たちの平均学力が高かった、しかし平均学力はむしろ低い方がよい、平均学力が高かったのはできもしない落ちこぼれの尻を叩いていたからであり、その分教師や予算の手間がかかってしまいエリートの育成を阻害していた、だから今のわが国はこのような体たらくになった、これからは非才・無才は勉強などしないでただ実直な精神だけを養っておいてもらいたい、それがゆとり教育の目的とのこと。

·         なぜエリート教育と言わないのか、ゆとり教育は手段であって目的ではないではないかと問うと、それはそうだがそんなことを言ったら国民が怒るだろうと、教育機会を奪ってエリートを優遇するのが目的だがそんなことを言ったらみんなが怒るからそういっているだけだと正直に語ってくれたとのこと。

·         現実的には私立と公立の二分法だけではなくて公立の中でも格差が生まれており、進学重校は優遇され、偏差値の高くない教育困難校と呼ばれているところは高校生としての十分なカリキュラムすらも教えない状況になってきているとのこと。勉強してもムダな(と判断された)子供たちに公共の金を使うだけの価値がないという発想が起こり始めているとのこと。

·         高校の場合は偏差値がはっきりしており、義務教育でもないのでやりやすいので改革が速く進んでいるが、深刻なのは小中学校にその考え方が降りてきてしまっていることとのこと。エリートにもなれず安い労働力にもなれそうにない人間はどうせ失業するので早く社会から疎外しておくという新自由主義の原理が働き始めているとのこと。例えば品川区の通学地域の自由化。教育問題に関心があり経済力のある親のところの子は選択肢が増えるが、世帯収入が少なく共働きをしている家庭は子供をなるべく近くの学校に通わせるしかないという安全面での物理的問題があるとのこと。

·         今品川区で問題になっているのは2006年から開始される小中一貫校。小学校の中間で小学校のカリキュラムを終わらせ、中学校の中間で中学校のカリキュラムを終わらせ、その後は徹底的な受験指導を行い、進学校に何人合格したかでその学校を評価する。全員がついてこれるわけはなく、公立なので入試もできないので、中学の前の段階で出来が悪いとお引取り願うという方法を検討しているとのこと。

·         競争だといいながら競争に参加できるのは恵まれたごく一部の人間でしかない。そのほかは初めから人生を捨てるという構造ができつつある。競争であればスタートラインが同じでなければならない、それは無理でもできるだけ近づける必要があるが、しかし現実はその差を開く方向に進んでいるとのこと。

·         教育はサービスであり子供は生徒ではなく消費者であるという考え方があり、それが古い学校の体質を改革する素晴らしい考えのごとく喧伝されているが、学校内部においては消費者であっても外部に対しては製品として送り出そうとしている。何もかもが企業の原理で動き、学校もその中に組み込まれようとしているとのこと。企業の論理、グローバリゼーションの中で企業の利益を極大化していくことが世の中の利益なんだという一部の人間にしか恩恵が行き渡らないような思想の下で教育が行われようとしているのが教育改革の現状とのこと。

*1:アメリカには州の連邦離脱規定はない

*2:僕の勉強不足もあります・・・。

*3:「Civil War」とは州同士が戦ったアメリカ南北戦争のこと

[コメントを書く]

# 『はじめまして。「ゆとり教育」が上から押し付けられたもので、現場の教師はこれを格差を助長するものとして反対しているなら話はわかりやすいのですが、そうではなくて、かつてのような価値の押し付け、全体主義ではもう学校はもたない、価値相対主義(出来てもハッピー、出来なくてもハッピー)を持ち出してでも丸く収めるしかないという、いわば現場の悲鳴と呼び合う形で導入された側面はあると思います。格差や不平等を縮小するため、出来ない子を出来るようにしてやる、放課後補習をしてやる、別途カリキュラムを組んでやるといったことがよしとされるならこれまた話は単純なのですが、教育現場では能力差を認めることはタブーであり、またそうしたやり方は学力偏重であり結局大資本に奉仕する人材を育成することにしかならない、そんなものは教育ではないという反論も根強くあります。しかし、では格差や不平等縮小のため学校は何ができるのか。斉藤貴男さんはその点についての提言が弱いように思います。刈谷剛彦の「よりまし」論、基礎学力重視の方向の方が、まだ説得力があるのではないでしょうか。』

# kwkt 『はじめまして。コメントありがとうございます。斉藤氏は新自由主義の社会はどのような社会なのかということを明確にしようとしているので、その対策というよりは現状認知の面が強いような気がします。個人が選べない家庭的背景によってかなりの程度スタートラインが決まってしまうことが「自己責任」になってよいのかと。それが刈谷氏の「義務教育段階ではなるべく格差を広げすぎずに全体の質を高めていくことが公共性の原理にたった教育の役割」という議論に接続していくのだと思います。まあそれは立ち位置の違いなのでしょう。』

# 『ええ、立場の違いはわかるのです。それでもなお言い募ったのは斉藤氏自身が「能力差からの出発」に抵抗を示す一人だからです。「能力など他人に判断できるのか」と言うのはいいのですが、それが結果的に格差の拡大放置につながっているとしたらどうしたらいいのか。対案を示せない警鐘はただの煽りになりかねず、短気な人間を苛立たせ(私のような)、それがバックラッシュの遠因にもなっているのではないかと(自戒)。しかしこれ以上は八つ当たりになりそうです。お答えありがとうございました。』

# kwkt 『> 斉藤氏自身が「能力差からの出発」に抵抗を示す一人だからです。
これは存じませんでした。トークのときはそのような趣旨の発言はなかったように思えましたが・・・。

> 対案を示せない警鐘はただの煽りになりかねず、
これはジャーナリストの方々にとっては大変な問題ですよね。

たとえフィクションかもしれませんがスタートラインを可能な限り公正にした後は、競争原理というのは必要だと考えます。ただ例えば小学生の低学年を含むその前の段階までは、個人の能力の違いなのか環境的要因の違いなのかというのは(あくまで個人的に振り返っての所感でしかないのですが)よくわからない気もします。もしここで環境的要因を重視する立場をとり、さらにその後の成長した後の結果も環境的要因の影響ということするならば「能力差の否定」という議論に進んでしまう可能性があるのかもしれません。ただ制度はどこかにフィクションを伴うものですから、途中のどこかの段階からは自己決定・自己責任(能力差の肯定)という考え方をもってこなければならないでしょう。そのフィクションを有効にするためにスタートラインは公正にしようという議論の後、どこで線引きするかは個人の育成暦や社会観に相当影響される可能性があるような気がします。

ご意見大変参考になりました。ありがとうございました。』

<前の日 | 次の日>