国旗掲揚と国歌斉唱を強制する米長発言

 

・・・テレビの画面に映っている彼の顔には、気のせいか狂信者の面影が宿っているように見えた。

 

激高老人のページ 作田啓一 COLUMN

http://homepage3.nifty.com/BC/C9_1.htm#62 より

 

 

国旗掲揚と国歌斉唱を強制する米長発言

 

 東京都教育委員会は今春の都立校で上記の強制を行い、それに従わなかった教員250人の処分を実施した。委員の一人である米長邦雄氏は園遊会で、教育委員の仕事をねぎらった天皇陛下に向かい「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と語った。天皇陛下はそれに対し「やはり強制になるということではないことが望ましい」と述べた。このやりとりの報道を素直に聞いた人は、国旗掲揚と国歌斉唱を強制をもってしても全国の学校にひろめようとする米長委員の得意げな使命感の表明に対し、天皇陛下は強制という手段は好ましくない、とたしなめた、と受け取れるだろう。それに対し「もちろんそう、本当に素晴らしいお言葉をいただきありがとうございました」という米長委員の反応は、いかにもトンチンカンであった。この人は強制という方法をたしなめられたことにまるで気がついていないのか、または気がつかなかったふりをしているのか、そのどちらかだ。拙者には、強制という手段が否定されたことに気がつかないふりをして、国旗掲揚と国歌斉唱の目的に関して天皇陛下が否定しなかった側面をことさら強調しているように思えた。それは弱点を見ないようにする彼の防衛反応の為せるわざのようだ。

 しかし、この人はいったい何のために国旗掲揚と国歌斉唱にこだわるのだろうか。その目的の向こうに何があるのだろうか。拙者にはよく分からない。掲揚と斉唱が国家の秩序の安定のために不可欠の手段であると考えているのかもしれない。そうだとしても掲揚と斉唱へのこだわり方は異常である。というのは、たとえ国家の秩序が望ましいとしても、この手段が絶対的に必要であるという根拠は見当たらないからだ。テレビの画面に映っている彼の顔には、気のせいか狂信者の面影が宿っているように見えた。

 それにしても石原東京都知事が、国が決めたことを公務員として行うのは義務だから、都教育委員会がやっていることは強制ではない、と言っている(『朝日新聞』大阪版、2004 10/30)のは解(げ)せない。99年に成立した国旗・国歌法は何ら制裁規定を含んでいないからだ。

 海の向こうではブッシュが勝った。キリスト教道徳のハードな担い手のイメージを撒き散らして、同性婚や妊娠中絶の禁止の法令化を望む保守層の支持を勝ち得たのが勝因であるとする説もある。保守層の有権者にとっては同性婚や妊娠中絶が社会秩序の根幹を脅かすと思われているのかもしれない。しかしこれらが社会秩序の維持にとって絶対的に必要であるとは拙者には思えない。それらが絶対的と思えるのは狂信と言うほかはない。こうした狂信が大統領選を動かし、引いては世界を動かしてゆくと思うと、少々無気味である。近代以降、世界は合理的に秩序づけられるようになったと思われてきたが、じつはそうでもないのだ。(2004/11/6