ここまでヤバい、今の日本!

 

伊豆利彦のホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/index.htm

http://www1.ezbbs.net/27/tiznif/ より

 

 

1369ここまでヤバい、今の日本!

返信  引用 

名前:なるほど    日付:1119() 1942

斎藤貴男(ジャーナリスト)×キー(反戦落書き裁判被告)
アメリカの「衛星プチ帝国」、日本
http://www.kyokiren.net/_protest/saito&key2

 

 

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教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会「あんころ」 http://www.kyokiren.net/index 

http://www.kyokiren.net/_protest/saito&key2 より

ここまでヤバい、今の日本!

斎藤貴男(ジャーナリスト)×キー(反戦落書き裁判被告)


●アメリカの「衛星プチ帝国」、日本

キー:「日の丸・君が代」の強制に反対した教員の大量処分・解雇といった現状は、とても法治国家とは思えないんですが、東京都が特にひどいですよね。やはり…

斎藤:東京都がすごいのは、何よりも石原慎太郎という都知事のキャラクターによるところが、とりあえず大きいですね。とりあえずというのは、石原が右翼だからとかいうことだけの話なら、まだしも私たちは幸せなわけです。それはいずれ、彼が引退なりすれば済むことですから。あるいは、どうしても都立高校のやり方に耐えられなければ、他の府県に引っ越せばいい。それで時間稼ぎをして済むことならいいのだけれど、そうでなくて怖いのは、石原は確かに突出しているけれど、彼のやっていることは明日の日本全体のことだということなんだよね。

 石原慎太郎という人は、一言で言えば、徹底した差別主義者です。きわめてシンプルな、剥き出しのレイシストなんですね。今の都の政策というのは、差別を政治で表現するとああなるという姿、それ以上でも以下でもないと僕は理解しています。が、それはしかし、今のグローバリゼーションの中で新自由主義というものが目指すところとまったく一致しているわけです。つまり、もともと力を持っている、社会的地位の高い人間が、すべてを支配する。何もかも金や権力でもって弱い人をぶっ潰し、奪いつくしていく。こういう構図が新自由主義だと僕は考えています。

 それがアメリカで80年代以降ずっとやられてきた。彼らは世界中を侵略し、国内においてはさっきのジュリアーノじゃないけど貧富の差を極端に広げてきた。それを今日本も真似しようとしているわけだけれど、日本の場合にはもうちょっと平和や平等を目指そうとした時期が曲がりなりにもあったが故に、ふつうの政治家や役人ではちょっと恥ずかしくてできないわけですよ、あれほど人でなしのやり方っていうのは。少しは躊躇があるわけ。だから、小泉の構造改革がなかなか進まない。進まないほうが本当はいいんだけどね。

 それを、石原という剥き出しのレイシストは何の躊躇もなくやってしまうわけ。福祉を削ったりして、例えば障害がある人が苦しもうがなんだろうが、石原は何もためらわない。あの人は、そういう苦しんでいる人がいるとむしろ嬉しくなってしまう人だとしか僕には思えない。困るのは、今の東京は明日の日本であるということですね。

 今の日本は徐々にアメリカを真似しようとしているといったけど、じゃあ、どういう社会を目指そうとしているのか。これは、最初に言ったように、戦争と差別と監視の国です。アメリカのミニチュア版。僕自身の表現で言えば「衛星プチ帝国」。衛星国でありながら、なまじ金持ちだから帝国にもなりたい。でもそれはアメリカの傘の下ですから、あくまでも「プチ」――ちっちゃな帝国ですね。これを目指してる。すべてはここに向けて収斂している。キー君の事件も、さっきの「生活安全条例」も。「戦争反対」なんてとんでもないという話になるわけです。だってこれから、アメリカの子分になって世界中を荒らしまわろうとしているんですから。アメリカの価値観に従えないやつは徹底的につぶして行く。アメリカだけでは大変だから日本も手伝う。手伝う代わりに、分け前もいただきまーす、と。これが今の日本政府の立場だよね。

 だけど、そんなことをやっていけば、必ず世界中から軽蔑されて憎まれるから、当然仕返しがあるよね。これを「テロ」って言っているわけだけれど、やる側にすればテロでもなんでもなくて、ただの報復ですよね。例えばイラクのようなことをやれば、僕がイラク人だったら、まず日本人を狙うと思う。だって、元々仲良くしていたのに、アメリカに言われたからって軍隊をよこすようなやつを誰が許してやるもんか、と思うのは当然なわけですよ。いくら「戦争に行くんじゃない」なんて言っても、問題は来られたほうがどう受け取るかなんだから。また、貧富の差が広がれば、当然理不尽な差別を受けた人間はやっぱり不満だらけになる。犯罪も当然増える。だから監視社会だ、となってくる。それがまたゼロトレランスを招いて、それがさらなる不満を呼んで、犯罪はより残虐になっていく。

● そのような全体状況の中で教育基本法「改正」をとらえると…

斎藤:で、教育です。これからの教育改革で目指されているのは、そうなっても不満を抱かない人間をつくること。今年の2月に「教育基本法改正促進委員会」という超党派の議員連盟で、民主党の西村眞悟という議員が教育基本法を「改正」したい最大の理由として「お国のために命を投げ出す人間をつくる」と明言しましたが、まさにそれなんだよね。つまり、それぞれの子どもが自分の未来を自分で考えてはいけない。お上の命ずるとおりに動く。人殺しをさせられて、あげく自分が殺されても何も文句を言わない、死んじまえば何も言えないけどさ、そんな子どもをつくるための教育が今、目指されている。一言でいうとこういうことですね。それを称して「愛国心」とかなんとか言ってるわけだけれど。

 ただここにもダブルスタンダードがあって、つまり、お上が認めたエリートは簡単には死なせないわけ。お上が認めたエリートは早いうちから優遇して、参謀本部として活躍してもらう。特に優秀じゃなくても、お上の身内なんかもここに入れるのね。けど、お上が認めないノンエリートは早いうちから自分の分をわきまえて人殺しをさせ、あとはエリートのための弾除けになってもらう。こういう思想を小ちゃいときから植えつける。

キー:エリートが少数化するということですか。

斎藤:少数化というのではなくて、エリートとそうでない人ができてしまうということ。どうしたって組織の中でリーダーシップをとる人間とただ使われるだけの人間ってできちゃうわけで、そのすべてを否定するわけにもいかないけれども、そこにはお互いに対する共感だとか、仮に社会的には上の地位になった人間でも、下の人間をモロに見下しちゃいけないというお約束というか、人間としての「たしなみ」っていうのが必要だと思うんです。もしも何か教えるんだとしたら、その「たしなみ」を教えるべきであって、今はそうじゃないんだよね。もう小学校から選別してエリートには「あなたは将来人の上に立つ人間になるのよ」なんていう帝王学みたいなことを教え込む。そうでない者には「ゆとり教育」の名の下にもうそもそも知識を伝えない。知識がなければ何も言えなくなっちゃう。

● 「日の丸・君が代」、そして「愛国心」について

斎藤:今日本が目指している方向っていうのが、さっき「アメリカの衛星プチ帝国」っていったけど、漫画家の石坂啓さんに言わせると、アメリカがジャイアンで、日本がスネオだっていうわけ。いつも乱暴なジャイアン。いつもそのまわりでウロウロしてちょこまかしている、小金もちで小賢しいスネオね。ジャイアンは時々いいこともして、頼もしく見えることもある。でもスネオは決してそう悪いやつではないんだけれど、頼もしくもないし、ただみんなに馬鹿にされて軽蔑されてるだけ。こういうポジショニングであるわけ。漫画だからそれで済むけど、現実にはアメリカの手下として乱暴も振るう。素手の暴力と違って武器を使って暴力を振るうわけだから憎悪を招くわけですね。だからドラえもんのたとえもまだまだ甘いと言う話になるわけですが。

 今度在日米軍の総司令部が、米軍基地の再編協議で、今ワシントンにあるものを座間に持ってこようとしている。そんなことをやられた日には、まるっきりアメリカのアジア戦略の中心が日本になるって言うことになる。イラクやイランや北朝鮮に対する侵略がそこからの命令で始まれば、モロにテロの対象だよね。

 日の丸・君が代の問題ですが、僕はこれが非常に屈折していると思うんだけど、スネオの存在っていうのはあくまでもジャイアンの家来でしかない。とすれば、いい悪いは別にすれば、今の日本にいる人間は、本来であれば「日の丸・君が代」でなく、星条旗を崇めて、アメリカ国家に忠誠を尽くさなければいけない。これが筋なわけですよ。

 じゃあ、なんで星条旗にしちゃわないのかと言えば、これは右でも左でもいやなわけですよ、さすがに。民族意識は誰にでもあるわけで、そう簡単にアメリカの植民地や家来にはなりたくないよね。そういう意味でのアメリカに対する反発が強まっては困る。そこで、癒しとしてのナショナリズムが求められる。

 もちろん僕らは国家権力から「日の丸・君が代」を強制される自体が嫌なんだけれど、大半の人はそれでもって民族意識を満足させることができるわけ。ことの本質を隠されたままなんとなく強くなった気にさせられる。こういうことだと思う。

キー:「癒しのナショナリズム」とか「プチナショナリズム」と社会学者が言うところのことですが、ちょっと拡大してみると――僕はサッカーは好きなんですけれど――ワールドカップとか最近ではアジアカップで国家斉唱することにも、プチナショナリズムってあることはありますよね。

斎藤:あんまり過剰に考えてもいけないと思うんだけど、例えばこういう状況がまるでなくて、もうちょっと世界が平穏なときに世界大会があって、自分の国の選手を応援したり、勝って日の丸が揚がって君が代を斉唱するのが嬉しいということを全部否定したとしたら、それはちょっと野暮かもね。当然、在日の人だとか、かつて侵略された側の国の人が日の丸も君が代もすべて否定するのは、これはこれで当然なんだけどさ。

 日の丸が国旗で、君が代が国歌だと法律で定めたことは非常に抵抗があるのだけれど、僕はそれらが国旗・国歌であってもいいと思う。そこのところは、このサイトの読者と僕はやや違った考え方かもしれませんが。それはとても血塗られた歴史なんだけれども、右翼がいうようにどこの国もそんなもんですよ。それが流されたり揚がったりしたときに反省をこめて、歴史をひきずって今があるんだ、という思いを馳せて、反省の糧にできるのであれば、むしろその方がいい。ただ、それはかつての侵略のシンボルであったわけだから、在日の人たちとかと十分話し合ったりしなければいけないんだけれど、これで新しい歌・旗をつくるって話になったときに、新しい歌・旗を作る人が新しい権力になってしまうよりは、むしろどうせ血塗られたものなんだ、国歌(国家)なんてものは、というコンセンサスのもとに、でももうこういうことはやめようね、という意味でそれが続くんであれば、むしろいいことだと思う。

 ただ、愛国心だとか郷土愛だとか――絶対にそれをいっしょくたにしちゃいけないんだけど――ひとりひとり違うでしょ。愛国心の「国」っていうのは統治機構という制度だからいけないのであって、日本という地理的な条件の中に郷土愛を求める人がいても、これはぜんぜんかまわないと思う。ただそれはそれぞれの価値観に見合った「そこはかとなくあるもの」だと思うんですね。それが何らかのかたちで制度的なものから強要されることがあってはいけない。今、国が求める愛国心というのは、そのような意味での郷土愛ではない。明らかに統治機構のために命を捧げさせるためのものです。だからこそ強制がある。

● 平等を真っ向から否定する教育基本法「改正」

キー:教育基本法っていつごろできたんでしょうか。

斎藤:憲法の理念を実現するために、憲法とほぼ同時、憲法のすぐ後にできました。ちっちゃいときから憲法の理想に向けた子どもを育てようということで、いわば憲法とセットなんですね。

 ただ、そこにもいろんな問題があります。例えば、第3条の「教育の機会均等」のところですが、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって……」とありますが、そうすると「能力に見合った」というのはどういう意味だ、ということになる訳ですよ。教育者の側が「能力」というのを勝手に判断して「お前は能力がないから教えないよ」ということも可能にさせる。ただここに「すべての」がついてるから「まあいいかな」とか、言葉の遊びみたいなところがあるんだけれど、改正論議の中でこの「すべての」っていうのを取っちゃうとか、人それぞれ「お上」が育てようと思えば育てるし「こいつはどうせ特攻隊にする奴だから」と思えば教えない。それでもいいですよ、ということがこれからはやられようとしている。

 このパンフレット(教育基本法「改正」反対市民連絡会の10円リーフレットのこと)にあるように、少数のエリートと従順なもの言わぬ大衆をつくる、これなんですよね、「改正」の狙いは。とりあえず戦争とかをおくとしても、日ごろの社会の中で企業を動かす少数のエリートと、そうでないその他大勢。その他大勢だけれども黙って安く、非常に高い生産性で働く子どもを育てたい。

 今までも例えば就職のときに、普通の会社に100人大卒から入ったとしたら、学歴であったり、家柄であったりで、実は最初から分けられてる。将来の幹部候補生は最初からエリートコース(人事、秘書、総務)があって、地方の営業所周りなんかはどんなに出世しても課長どまりということがあるんだけど、それは一応ないことになっていて、建前は同期大卒ならヨーイ、ドン! で一斉にスタートという幻想で、企業は成り立ってきた。建前さえあれば、会社の中で競争できる可能性はそれなりになくもないので、「こいつは出世なんてしないだろう」と思われていたやつが、頑張って出世したりということもあったりする。それを日本社会は「活力だ」とずっと言ってきた。80年代くらいまではJapan as No.1、そのやり方は正しい、とやってきた。

 だけど、経済のパイが段々縮小してくるとそのやり方は無駄だと上に立つ人は考えるようになった。むしろ、どん底から這い上がってエラくなった人までもが「自分たちはエリートだ。最初から人を選別して、給料やボーナスも全部変えて、目に見える形で分けよう」というふうになったわけ。

 そうなると社会に出る前の教育の時点で平等だ、なんて教えられると困るのよ。学校の時は平等だったのに、なんだ、社会に出てみたら差別だらけじゃないかとなると、齟齬をきたすので、もう子どもの時からわきまえさせる教育を施す。これも狙いなんですね。そうなってくると、会社の中の上下関係だけに留まらずに、社会的な身分制度となって士農工商みたいな意味を帯びてきた。だから女性の派遣社員がモロにセクハラの対象になったりする。こういうことを経営側は「生産性が高い」と見るんだよね。確かにエリート以外の人件費をすごく低く抑えるわけだから、ノンエリートが頑張れば、一番効率がいいことになる。本当はそんなふざけた扱いをされりゃ、まじめに働くやつなんかいなくなる道理だけど、そこはムチで、ちょっとでも怠けたやつはすぐクビということをやっていく。

 そして、国内だけでは収まらない企業がグローバリゼーションで世界中に展開していく、そのリスクを抑えるための軍隊だ、ということになってくると、国民全体を戦力としてみることにもなってくる。そのときに、企業社会に入れない、就職できない子たちが自衛隊に入り、兵隊にされていくわけです。今だって貧しい都道府県から自衛隊員は出てきている。エリートとノンエリートがはっきりしている社会っていうのは、命令をしている司令官と、どこにでも飛んでいって命令に従って人を殺したり自分も殺されたりするのを厭わない末端の兵隊という構図。軍隊の上下関係って言うのは非常に差別的だし、差別が容認された社会じゃないと成立しない。戦後の自衛隊だって体育会系みたいな上下関係はあるんだけれど、世の中全体が「平等がいいよね」って思っているうちはなかなか機能しにくい。だけど、今みたいな世の中になってくると、軍隊のヒエラルキーが世の中全体と非常になじんでくる。教育も今それにどんどん合わせようとしている。

● やっぱり、教育って大きい

キー:日の丸・君が代強制とか教育基本法「改正」反対とかで大いに騒がれていますが、当の子どもたちは、どうなのか。自慢じゃないですけど僕はものすごく馬鹿で(笑)、学生時代、日の丸・君が代とか愛国心とかもまったくわからずに普通に起立していたわけです。最近の『心のノート』にしても、愛国心を植えつけるようにすごく巧妙につくられているわけですよね。それに対して実際に子どもたちはどういう反応をしているんでしょうか。けっこう従順に受け入れたりしてるのか。どうなんでしょう

斎藤:子どもはいちいち深いこと考えてないと思うけど。ただね、いくら勉強ができなかろうがなんだろうが、小・中学校で9年間通って植えつけられるものっていうのは、ものすごく大きいと思いますね。

キー:それは、斎藤さん自身も?

斎藤:僕の生まれは1958年なんだけど、この頃は日教組がすごく強くてね、僕はよく「あんたは戦後民主主義の典型じゃないか」と言われる。それがいいか悪いかは別として、人っていうのは誰しも「時代の子」であるし、今キーくんが「君が代もぜんぜん抵抗なく歌ってた」って言ったけど、僕らのときは歌わなかったんだよ、やっぱね。歌わない学校が多かったのよ。地域によっても違って、愛知県とか千葉県とか管理教育が強いところは違ってたらしいけど。

 一番いけなかったのは、これはほとんどの世代に共通すると思うけど、社会科で近現代史ってやらないじゃない。何でやらないかっていえば、やはり、戦争の評価をしたくないからでしょ。本当は一番大事なわけじゃない。平和を考える上でも。それなのにやってない。3学期に入ってもせいぜいが江戸時代で「あとは本読んどいて」って。そういうことを戦後50年続けてきた。だから、近現代史とか戦争の問題とかに興味を持った人しかやらないで過ごしてしまう。だから、「じいさんが戦争で死んだ」なんて被害者の部分だけを感情的にしかとらえていない。被害者でもあったけれど、加害者でもあったというような構図は、やっぱり勉強しないとわからないでしょ。社会の中では一部の上層部の人だけがそういうことを考えて、考えて反対する人もいれば、「おれにとっちゃ得だな」と思うやつもいる。損得で言えば、戦争したら得なやつの方が上層部には多のさ。

 僕はキー君より成績はよかったと思うけど(笑)、うちは鉄屑屋だからぜんぜん勉強やらなくて、戦争とかの問題なんかまったく意識がなかったんです。フリーになっていろんな仕事をしていく中で、必要に迫られて少しずつ勉強した。これを若い頃からもうちょっとちゃんとやってたら、こんなふうじゃない、もっと立派なジャーナリストになれていたかもしれない。教育ってやっぱり、すごく大きいんだよ。絶対に大きいよ。だから教育基本法を変えて世の中全体がどんどん戦時下になっていけば、10年もしたら世の中まるっきり変わっちゃうよ。

● 「命」を欠落させた戦後世代の政治家

斎藤:戦後史の大失敗は、全然勉強してないのに損得だけには長けているやつらが上のほうにきちゃってること。右翼が恐ろしがるぐらいなんだよね。中山正暉っていう青嵐会の最近引退した右翼政治家がいるんだけど、この人が石原慎太郎のことを「安物のヒットラー」って言った。最初僕が「憲法も変えられようとして、先生たちにとっては願ったりかなったりじゃないですか」と少し茶化した。そうしたら、「いや、違うんだ。私がタカ派なのは戦争をしないためのタカ派なんだ。今の若い政治家は本気でやろうとするから困る。戦争の怖さが全然わかっていない。『北朝鮮がテポドンを打ってくるなら、先制攻撃でミサイル打ちましょうよ、先生』なんていう。『ちょっと待ってくれ。ミサイルを打ったら、本当に人が死ぬんだよ。それを君はわからんのか』と説教したことが何度もある」そう言ってましたね。

 みんな、まさか政治家が本気で戦争をやろうとしているとは思わない。できれば人殺しなんてしなくて済むならしたくないんだから、とすごくノーマルに考えるんだよね。俺もそうだった。いろいろ取材していても30代後半くらいまでは「オレが考えている程度のことは東大出のやつだったらとっくの昔にわかっていて、どうしても避けられないからこうしてんじゃないかな」と、ついつい思う。だけど、40を超えて多少は深い取材をするようになってからはっきりと思ったのは、「やつらは本気でやりたいんだな」と。そのときに「絶対に自分と自分の身内は関係ない」という大前提がある、ということがつくづくわかるわけ。

 最近も小林節っていう改憲論で有名な憲法学者がいるんだけど、この人がここ一年くらい、とたんに態度を変えてきた。『赤旗』とか『週間金曜日』に出るようになった。なんでかっていうと、理論としては自分は今でも改憲派だけど、今の小泉にやらすわけにはいかない。最高に優秀なスポーツカーがあったとして、こんなやつらに運転させたらたまったものじゃない、というたとえをする。「どうしてですか」って聞いたら「だってあいつら、本当に二世・三世ばっかりで、封建時代の領主の気分なんだよ」。「どういうときにそういうふうに感じるんですか」って聞いたら「だって、一緒にやってたんだからよくわかるわ」というんだ。「先生、それってちょっと遅すぎませんか」って言ってやったんだけど。どこで気づくかってくことなんだけど、この人は自分の娘の命を考えたんだって。要はエリートさんたちはなかなか気づきにくい環境にいるんだよね。

 今の二世・三世議員の人たちっていうのは、他人の命というものに対する最低限の礼儀みたいなものが、まるっきり欠けているのよ。脳みその中、どっか欠落しているとしか思えない。そういう育ち方をしちゃってるんだよね。ただ問題は、そいつらを当選させたのも我々だっていうことです。世襲議員を批判することもいいんだけど、落とすこともできたのに、しなかった。

● 教師という職業がおそろしいものになろうとしている

キー:僕の体験ですが、中学の時に日中戦争は何年とかやるなかで、フツウに「侵略」という言葉は出てきました。でも、それを「流す」んですよね。それ以上のことを説明しない。中学の授業でどこまで教えるのか、という点はあるにせよ、人の命にかかわる、という教え方ではない。だから流される人間にとっては、政治に関われない、という構図は根強くあると思うんです。とっかかりがない(苦笑)。僕が――奇跡的に――政治に興味を持ったのは二十歳越えてからですね。

斎藤:キーくんが中学くらいっていうのは、何年くらい?

キー:1992年くらいかな。

斎藤:その頃っていうのは、加害者としての意識というのがまがりなりにも高まり始めた時期なんだよ。また先生と生徒の資質っていうものもある。俺なんかは日教組の影響があるっていったけど、やたら先生が戦争の話をするのがイヤでさ、どっちかっていうと右翼っぽい少年だった。ただ、戦争っていうのは僕は絶対悪だと思う。やむをえない戦争っていうのもあるかもしれないけれど、でも絶対悪なんだよ、それは。そういう思いがありさえすれば、あとは淡々と事実を教えればいい。決めつけっていうのはかえって逆効果の場合もあるし、何でもかんでも反戦教育をすればいいってもんでもない。ただ戦争を教える先生が、戦争は絶対にいけないんだということだけは共有してもらいたいと思うけれども。

 これまたいい悪いは別にした話なんですけれど、学校の先生がみんな戦争大好きになっちゃったということであれば、けしからんけれど、どうしようもないとも思うんだ。ただそういう人ばかりなら議論の余地もあると思う。是々非々で話すこともできる。だけど今一番恐ろしいのは、なにもかもが人事とか労務でそれがなされるってこと。

キー:生徒だけじゃなく、教師同士が点数つけ合う、点数低いとクビっていうのもありますよね。これは学校というよりも、もう企業の論理ですよね。

斎藤:学校の先生の多くは戦後民主教育を受けてきたはずだし、戦争大好きなんていうのは多数派じゃないはずですよね。でもそういう人たちが逆らったらクビ、逆らわないで従順だと給料が高くなる。これは企業式の成果主義ですね。企業論理としてはありえても、これを学校で教師がやったら、いかにある一定の考え方にするかとか、進学率を上げるかとか、そういうところでしか評価のしようがなくなるでしょ。そうすると、本当に恐ろしい職業になる。教育と洗脳っていうのは紙一重だから。そこが一番怖いところですね。

 それで従ってるような人は、教師なんかやっちゃいかんとも思う。日の丸・君が代で立たなかったり歌わなかったりして処分されたり訴えたり、ああいう人たちは非常によく頑張ってるとは思うんだけど、なんでいつまでたっても少数派なのか。けしからんのは、労働組合も全部裏で手を握っていたりするからね。訴えたりする人は『自己責任』でやってるわけでしょ、組合は共闘しない。

 まあ、いろいろな場面があって、ここで逆らったら撃ち殺されちゃうということが確実な場面だったら、それでも「逆らえ」とは言わないよ。逆に、この程度のことなら妥協して組織の存続をはかったほうがいいという判断をする場面もあるとは思いますよ。だけど、今の状況っていうのは、逆らっても撃ち殺されはしない。せいぜい処分、3回やるとクビとか言ってるけど、まだその程度です。一方で、やらされていることはとてつもなくひどい。

 今、この状況の中で日の丸・君が代を強制するというのは、さっき国旗/国歌であってもいいと言ったけれど、それとはまったく別の次元の話です。これだけ議論がある中で、しかもかつての加害した国の人や在日の人がまったく納得してくれてない中で強制をする。しかもそれが、教師だけじゃなくて、子供が立たなくても教師のせいだと言い始めた。これはもう、それまでの何十倍もひどい事態だと思うんですよ。

 それは単に日の丸・君が代の問題だけじゃなくて、この場合は都立高校や養護学校だけれども、特に高校生に対して自分の判断では何も考えることができないという前提で決まっているわけでしょ。つまり大学へ行くか社会人になろうかという人間が、立つのも立たないのも教師が決めて、その命令に従う以外の行動は取れないと考えて言っているわけでしょ。まったく高校生の人格というものを認めていないわけだから、それは3年間に一度の卒業式や入学式だけの話ではなくて、この高校教育すべてがそもそも成り立たないわけだよね。まったく人格を認めていない相手に教育しているということでしょ。これは教育というものの根幹に関わる話なわけですよ。

 だったら、ここで保身に回ってしまったら、何のためにその人が教師になったのか、教職員組合というのは何のためにあったのかということが、根底からおかしくなっちゃう。だからここでは職を賭しても闘ってもらわなければ、そんなヤツらのところに大事な子供は預けられない、ということにならなきゃおかしい。

キー:僕もその意味で子どもをつくるのは怖いですね。

斎藤:都教委の連中というのはある意味でとても気の毒だと思うんだよ。石原みたいなヤツに君臨されて、逆らったらクビというのは、彼ら自身がずっとやってきているわけだから。俺のところに手紙をくれた福祉局の人がいたけれども、毎日の仕事が思想教育なんだって。つまり何か企画書を持っていっても、石原の思想に合わないものは全部却下。それはつらいでしょう。だから石原都政になって5年経って、ものすごくそいつらの人格は歪みきったと思うよ。個人としては本当にご同情申し上げるけども、それを人様の子供にまでやらせるわけにはいかないんだよ。俺の子を石原の私兵なんかにされたくないもん。

 教育基本法の問題ってなかなか一般に伝わっていかなくて、日教組の先生が騒いでるだけという――その日教組はいちばんダメなんだけど――この誤解が抜きがたくある。だから本当に教育が悪かったんだよ(笑)。だから今までの教育は改めなければならないんだけど、今改めようとしている方向は、あまりにひどいよね。最悪の方向だよね。

●最悪にして現実味のある近未来

キー:自身、被弾圧者ということもありますが、現在ってまぎれもなく「戦時」ですよね。それは昔と違って、国民を総動員する必要はない。「戦争」が起きた。その情報を大量のメディアが伝えてくれる。リアリティがないんですよね。戦闘シーンもハイテクな映像に媒介されて、消費され、忘却される。考え方によりますが、「落書き」もメディアです(僕みたいにパクられちゃだめですが)。落書き反戦救援会で「graffiti is not a crime!」、日本語訳すると「落書きは犯罪ではい!」というスローガンを一貫して打ち出しています。たしかに逮捕されるという点で「犯罪」なんですが、ぼくらは確信犯的に「犯罪ではない!」と言う。それは「落書き」という行為、それに及ぶ身体の欲望――全面的肯定――が含意されています(もちろん、批判は受けてきましたが)。メディアに媒介されないメディア、人の繋がり、場所、そういったことをもっと考える必要があると思います。そういう(広範な)――直接的ではないにせよ――横断的な連結が強く求められていると思います(それは、必ずしも多数派の論理に収斂するのものでないのですが)。すみません、かなり偉そうに言ってますが。

斎藤: やや大げさに聞こえるだろうけど、本当に第3次世界大戦に近づきつつあると心配してるんですよ。あのイングーシでの小学校占拠事件で、ただちにブッシュが支援を約束した。アメリカが言えば日本も協力するわけです。万が一にも米軍がチェチェンに爆弾を降らせるような事態になれば、これは世界に拡がる。世界的なグローバリズムのなかで今度はそのテロリストグループが連携するかもしれない。テロリストだってグローバライズされるわけだから、先進国の国家や多国籍企業というセクターと、テロリストといわれる勢力がグローバライズされると、これは第3次世界大戦ですよ。狙う側からすれば、いつもいつもロシアばかりじゃなく、関係もないのにしゃしゃり出てきた国のほうが憎い、ということもあるわけですよね。そのときに国家間の戦争だったら降伏させるということもあるだろうけれど、テロリスト相手だと降伏にならないわけですよ。そしたら世界中がいつもどこかで戦争していると。アメリカはその当事者であることを買って出ているわけだけど、日本がそれこそ分不相応に噛んじゃったりすると、日本は世界一のテロ地帯になっちゃうかもしれない。

 そういうことも含めて、今の日本がどこへ向かおうとしているのか、きちんと考える必要があるんじゃないでしょうか。

〈了〉


フォームの始まり

フォームの終わり


対談を読んで

私はタバコが大嫌いです。あのにおい、なんともいえない煙たさ、そして吸っている本人以上にそばにいる人が害を受けるというあの理不尽さ、本当に許せないです。そんなわたしにとって、禁煙条例といったものは、すばらしいものに見えました。
しかし、現状は違うのですね。この対談を読んでいて思いました。それは監視社会の始まりとなっているのだということ。
私の通う大学も、大学内では禁煙がだいぶ徹底されてきました。私のようにタバコのいやなものにとってはうれしいかぎりでした。けれど、一概には喜べない。大学は独立行政法人となり、国の監視がより厳しくなった今、ポイントを稼ごうと大学のお偉いさんは、国の喜ぶことをしていくのでしょう。そこに思想教育なんかが入った日には
今回の裁判はさぞかし辛いコトだらけかもしれませんが、頑張ってください。必ず意味をもたらすと思います。

投稿者:インカシ 20041108 215246


1114日(日) 場所:杉並区立西荻わかば公園(中央線・総武線西荻窪駅下車7分)

·         14時:皆が一同に会すことを信じて公開討論

「未来絶望監視都市杉並区へようこそ」

出演予定者[関係者豪華オールキャスト]

o        山田宏(杉並区長)

o        加藤真(杉並区都市整備部公園緑地課長)

o        柿本博美(杉並区区長室区政相談課長)

o        K(お口汚し止めて完全無罪頂戴ってば)

o        F+その番犬(杉並区民+その番犬) 

·         15時:デモ出発
サウンドシステム搭載!(DJ:ラマダーン、ストライキ、FIST FUCK、ほか)
その他にもいろんなことやっちゃう! 路上を自転車が安全に交通する権利などを訴える直接行動クリティカルマスとかOLとかスケーターとかデモ好きとか学生とかパンクスとか思想家とか、路上の管理と排除ににたてつく奴、超歓迎! この日の杉並区は爆音・アナーキー・カウンターカルチャーの返礼に染まるはず(区長も参加するわよね)


よびかけ

【わたしたちはK君への仕打ちを絶対に許せない。だから、まず、あの公園からデモをしよう!】

私は昨年4月、杉並区立西荻わかば公園という小さな児童公園の公衆便所外壁に「戦争反対」「反戦」「スペクタクル社会」と落書きしたら、近隣住民に通報され、警官に「器物損壊」罪の容疑で逮捕されまし た。数日後、容疑を「建造物損壊」罪という、5年以下の懲役刑にあたる重罪にされ、起訴され、裁判をするハメになりました。私は裁判で一貫して無罪を主張しました。

しかし今年2月、「懲役12月、執行猶予3年」の有罪判決を受けました。これは執行猶予中の3年間、例えば道交法でひっかかっただけでも、即、刑務所行きということです。こんなの絶対に納得できないから、私は控訴しました。そして93日の控訴審判決公判では、な、なんと2度目の有罪判決! しかも判決文では、私の落書きが建造物損壊罪にあたる、という理由を何一つ説明しない。というか、そもそも説明できないんですよね?

裁判所がマジでふざけています。「法」的に。

私はへとへとにさせられながらも上告することを決めました。つまり天下の最高裁判所で争うということです。落書きで。そう、落書きで。

本事件の翌日、本公園を管理する「杉並区」は私を告訴しました。これまで区は落書き事件で、告訴はおろか被害届も出したことがありません。それなのにどうして区は、本事件で告訴をしたのでしょうか? それは警察の意志が強く働いてのものだと考えます。

事件前から本公園は「悪」、「タツ」という落書きが為されていました。事件翌日、警察から杉並区に「告訴」の要請があり、公園緑地課長の加藤真氏は、私が書いた落書きがどの落書きかもわからずに、また現場を確認することなく警察が用意した告訴状にサインをするだけという、杜撰な告訴手続きを行いました。

地方自治体が本来担うべき役割や自立性は蝕まれ、近隣住民が落書きした者を警察に突き出すなど、昨今の地域社会の警察化・管理統制化を象徴するかたちで、本事件は「事件化」されました。

街には以前よりも、警官の数が増えた。なんかどんどん増えてる。落書きの取り締まりには、人間よりも機械が活躍している。コンビニはもう当たり前だけど、デパートやマンションに、何より街頭は監視カメラであふれている。自由よりも安全、防犯が優先される。警察だけでなく、自治体や住民がグルになってパトロールや取り締まりをする。今は、路上喫煙が規制されたりしてるけど、近い将来、飲酒やたむろしてるだけでも逮捕される社会というのはぜんぜん夢の話じゃない。24時間総監視社会の到来?

こうした絶望的状況下、私と私を支援してくれる人たちで、杉並で、あの公園からデモをすることを企画しました。

落書きは街を混乱させる。しかし道を切り開く。

監視の目が、警官がわたしたち一人一人の中で眠っている。奴を殺そう。

人には街を、街のイメージを変形する権利がある。

都市は、地理的・経済的なファクターとしてだけではなく、「イメージ」によっても規定されるということが非常に重要だ。そしてまさにそうしたイメージをめぐる争いが日常生活そのものの中で展開される。

ここにみなさんの参加を呼びかける次第です。

西荻わかば公園にお集まりください。

主催:11.14「抵抗の発明」杉並行動実行委