「小さな政府」の本質は、金持ちに仕える政府である。ゆえに、「小さな政府」とは、言い換えれば、「金持ち政府」である。その第一の証拠が銀行への公的資金注入(政府が日本銀行や民間金融機関から金を借り、その金で銀行の株式・債券を購入。他にローン形式もある)である。バブル時代の博打(ばくち)の後始末のために大量の公的資金が使われた。バブル時代、銀行は不動産業界と結託、超過剰融資でやりたい放題の地上げの原因を造った。裏社会とも結託した不動産業者の地上げは苛烈だった。銀行とて、そのことを知らぬはずがあるまい。そんな銀行に1999年3月には、7兆4592億円もの公的資金を注ぎ込んだのである。この措置のどこが「小さな政府」なのだろうか。「金持ち・巨大企業政府」と言うべきものではないか。「小さな政府」論者は、「自己責任」と「自助努力」を強調しているが、銀行にはそれを求めない(下段注1、2、3、4)。ひどい矛盾である。
下段注1(上段は市場原理主義者の「小さな政府」論、中段は市場原理主義者の銀行への公的資金投入論、下段は私の批判である)
中谷巌氏
「求められる『改革の理念』とはいかなるものか。筆者は『革新をもたらす個人をこれまでの権威主義的な組織や既存の秩序の呪縛から開放する』ということでなければならないと考える。日本社会では(日本だけではなく多くの伝統社会ではそうだが)、秩序を乱す行動は多くの場合、忌み嫌われる。しかし、革新とは秩序に対する反乱にほかならないから、秩序を乱す行動が忌み嫌われ、社会的に糾弾される状況下では、革新は生まれない。現代日本が閉塞状況に陥り、革新が生まれにくいのは、このような秩序を維持し、革新を忌み嫌う『空気』が日本社会に充満しているからである。」(1997年11月11日付日本経済新聞)
「日本の構造改革、不良債権処理を遅らせている大きな要因は、日本人の護送船団的発想だ。護送船団的発想とは、競争を『弱肉強食』と言って忌み嫌い、なるべくなら全員が落ちこぼれないように共存共栄を図っていこうという、いわば母性的、平等主義的発想である。護送船団においては、船団が進む速度は一番船足の遅い船の速度に合わされる。それよりも船足の速い余裕のある船は全力疾走することはなく、適当に道草を食いながら、隊列を乱すことなくついていく。何とも平和な、麗しい光景である。これで経済も順調に発展するなら、『護送船団万歳』である。しかし、それでやっていける時代は終わった。世界は『大競争の時代』に突入した。一番遅い船足の船にしたがっていると、本来速い船も大競争には勝ち残れない。つまり、全員討ち死にしか待っていないのである。日本が今陥っている病とはまさにこれである。かわいそうだから競争は回避しよう、競争による淘汰(とうた)を言い出す人は極悪非道人で、救済こそ理想だという考え方。この考え方は、仏教国日本には想像以上に強い。私自身にもそういう発想に陥ってしまうことがあることは否定できない。西洋人のように合理的にばっさりと不要部分を切ることができない。しかし、強いものが弱いものを助けるという姿は望ましいにしても、強いものをつくらないというところまで来ると問題だ。強いところはどんどん強くなって国際舞台で活躍してもらうことが必要である。そのためには、競争の場をしっかりとつくり、競争に堪えられるだけの体力、筋力を日本人がつけるようにしなければならない。それなのに、船足の速い船もゆっくりと走行せよということでは必要な体力、筋力はつくりようがない。」(中谷巌氏著、日本経済「混沌」からの出発、日本経済新聞社、1998年6月22日1版1刷発行)
「市場主義のもとでは、官と民の協調的な関係は効率的な資源配分にとって大きな障害になってくる。なぜなら、官が資源配分を決めてしまうからである。官が資源配分を決めてもよいのは、何が正しい方向なのかについて自明である場合である。つまり『確定性のパラダイム(理論的枠組み。中根注)』が通用している時代に限られると言い直してもよい。しかし、何が正しい方向なのかについて、民間の知恵が必要な場合には、市場主義が必要になる。したがって、官はむしろ市場メカニズムが有効に機能するためのルールを定め、そのルールが守られているかどうかを監視する役割に徹する必要が出てくる。つまり官と民は協調するのではなく、どちらかと言えば敵対した関係になければならない。敵対と言うと、ちょっと強い言葉に過ぎるかもしれないが、市場主義のもとでは、市場参加者は官が定めたルールにのっとって、すべての情報をマーケットの参加者に対して開示し、そして、資源配分にかかわる意思決定はマーケットの参加者にゆだねるということが必要になる。これが市場主義のエッセンス(最も重要な特質。中根注)である。」(中谷巌氏著、日本経済「混沌」からの出発、日本経済新聞社、1998年6月22日1版1刷発行)
中谷巌氏
(聞き手)−−公的資金の投入を決める前に、減資などを通じて経営責任を問うべきだとする声がある。
(中谷氏)「なぜ金融機関に公的資金を投入するのかという素朴な疑問も分かるが、責任や倫理の問題と、金融システムが全滅する問題は区別しなければならない」
(中略)
(聞き手)−−どのように公的資金を投入するのか。
(中谷氏)「資本注入に向け数十兆円規模の枠を用意する必要がある。十三兆円では到底足りない。現在実施されている金融監督庁の調査の結果に基づき、政府が実質的な強制力を持ち、一括して投入すべきだ。強制するには法律上の詰めが必要となるが、だからといって小出しにしたり、金融機関の申請を待っていてはだめだ。自己申請では経営責任を問われるのを嫌い、だれも手を挙げない」(1998年10月6日付日本経済新聞)
私の批判→銀行への公的資金注入は中谷氏が忌み嫌う「護送船団」そのものである。中谷氏が公的資金注入を主張するのは矛盾に満ちている。また、「秩序に対する反乱」である革新の重要性を主張する中谷氏が「金融の秩序」を維持することを主張したのは、実に皮肉な現象であった。
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下段注2(上段は市場原理主義者の「小さな政府」論、中段は市場原理主義者の銀行への公的資金投入論、下段は私の批判である)
竹中平蔵氏
「最悪のシナリオを避け、危機をこれ以上拡大させないためには、今の痛みを受け入れ、経済を覆う無気力の根源(規制・保護と政府介入)を絶つという覚悟がいる。」(1998年9月21日付日本経済新聞)
竹中平蔵氏
「金融システムの健全化については大胆かつ速やかに公的資金を投入する意思を政府が表明すべきだ。法制度上難しい面はあるが、強制注入が必要だ。」(1998年10月14日の経済戦略会議の第六回会合後のコメント)
「日本の金融機関は全体として債務超過に陥っている可能性があり、強制的な資本注入が必要。経営がどうしようもなく悪く存続できない銀行は特別公的管理(一時国有化)に移し、存続可能な銀行には強制注入していく。政府が日本債権信用銀行に取った措置はいい前例となる。」(1999年1月9日付日本経済新聞)
私の批判→銀行への公的資金注入は「規制・保護と政府介入」以外の何物でもない。竹中氏の発言は矛盾に満ちている。金融機関に対する「規制・保護と政府介入」が許されるなら、当然、他業種に対する「規制・保護と政府介入」も認められるべきである。
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下段注3(上段は市場原理主義者の「小さな政府」論、中段は市場原理主義者の銀行への公的資金投入論、下段は私の批判である)
香西泰(ゆたか)氏
「(欧州やアジアでアングロサクソン流の市場主義への反発が出ていることについて)確かに欧州主要国はほとんどが社会民主系の政権となり、マレーシアのマハティール首相が市場主義の行き過ぎに反発するなどの動きが出ている。日本は市場原理がもっと機能するように構造改革を進めるべきだし、グローバル化の流れにも積極的に応じることが、長い目で見て日本経済の新たな発展につながる。」(1999年1月9日付日本経済新聞)
「日本は普通の先進国になる。個人や市民社会が重要な役割を果たす、成熟した先進国だ。そこでは自己責任や自立という普遍的な価値を持たざるを得ない。市場原理も同じだろう」「(市場万能主義への批判について)絵にかいたような市場原理主義者は米国でも少ない。市場原理の活用があくまで基本だが、金融については節度ある規制を考えなければならない」(1999年3月24日付日本経済新聞)
香西泰氏
「銀行は今や大手、中堅ともほぼ全行が傷を負っている。このままでは自己資本比率を上げるため資産圧縮に走るほかなく、貸し渋りが加速する。短期に危機を打破するには、破たん(破綻)前の金融機関に公的資金を投入し、計画的に金融システムを強化するしかない」「(銀行経営者の責任について)厳し過ぎると各行とも萎縮し、融資先に影響が出かねない。経営責任や株主責任は一律ではなく責任の程度によって考えるべきだ。大手米銀シティコープが経営不振に陥った時も経営陣は残った。後悔した人に、安い報酬で働かせた方がふさわしい場合もある」(1998年10月7日付日本経済新聞)
私の批判→銀行経営者を擁護する発言(文を素直に読めば、そういう解釈となる)は、香西氏が言う「自己責任や自立」に反している。銀行に対して「自己責任や自立」を要求するべきである。もちろん、銀行に対する公的資金の注入は、「自己責任や自立という普遍的な価値」に反している。また、金融のみならず、経済全体に対して「節度ある規制」を考えるべきである。
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下段注4・・「歴史的不況を克服し、世界金融恐慌の発生を阻止するため、金融システムの早期安定化を図る目的で緊急避難措置として大規模な公的資金注入を断行することが不可欠である。」(経済戦略会議が1998年10月14日に発表した「短期経済政策への緊急提言」より。なお、経済戦略会議が規制・保護や護送船団からの決別を説いている事実については、第一章で紹介してあるので参照されたい)
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第二の証拠が「小さな政府」を強調する経済戦略会議(第一章参照)が露骨な巨大企業優遇政策を説いていることである。以下の文章は、経済戦略会議が1999年2月26日に発表した「日本経済再生への戦略」(経済戦略会議答申)からの抜粋である。
【経済戦略会議が1999年2月26日に発表した「日本経済再生への戦略」(経済戦略会議答申)より】設備廃棄に伴い遊休化する土地の流動化を促進するため、当該用地に関し用途地域規制等土地利用上の諸規制を徹底的に緩和するとともに、土地の新たな活用に伴い必要とされるインフラの整備を行うため、国等の公共投資において特別に配慮する。また、土地の有効利用を進める観点から住宅都市整備公団、民間都市開発推進機構等公的機関による買い上げを促進する。
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【経済戦略会議が1999年2月26日に発表した「日本経済再生への戦略」(経済戦略会議答申)より】
設備廃棄に伴い発生する解体費用、退職金等の費用について、時限を切った緊急的な措置として、政府系金融機関から超低利融資を行う。
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【経済戦略会議が1999年2月26日に発表した「日本経済再生への戦略」(経済戦略会議答申)より】
策定された国家戦略に基づいて、資源を集中的に投入する。官民が協力する国家的な技術開発プロジェクトを立ち上げ、その成果を民間部門に移転する手法、民間による先端分野での研究開発を強力に支援する大規模な国家基金の創設による先端分野での研究支援など、分野に応じて適切な手法を選択する。
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これらは、明らかに巨大企業の保護と政府介入である。にもかかわらず、経済戦略会議は「小さな政府」を強調し、「規制・保護や護送船団」からの決別を説いているのだ。ひどい矛盾である。また、「小さな政府」論者である田中直毅氏も矛盾したことを言っている。以下は、1999年1月8日付日本経済新聞からの抜粋と私の批判である。
田中直毅氏(21世紀政策研究所理事長)の発言と私の批判
「株価が下げ止まらないという不安が投資家にリスクをとることをためらわせ、これがまた株価下落につながっている。この悪循環を断ち切るための緊急措置として、国による株式買い入れを提言したい」
(具体的な手法は) 「毎月一兆円程度を向こう三十カ月間買い入れる。買い入れ目的、方法、利益処分法などの詳細は国民にすべて開示し、極めて透明性の高いものにする。株式の買い入れ・運用は政府が決めるのではなく、信託銀行、投資顧問会社などから入札方式で選んだ運用機関にゆだねる」
「これで市場が活気づけば、企業は株式持ち合いの解消に積極的に動けるようになり、資金不足にあえぐ事業会社も市場から資金を調達できるようになる」(1999年1月8日付日本経済新聞より)
いったい、これのどこが「小さな政府」なのだろうか。それにもかかわらず、田中氏は、「景気対策に関心が集中するあまり、『小さな政府』実現に向けた取り組みがおろそかになっている」と言うのだ。大いなる矛盾である。
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これらの例で「小さな政府」の本質を知ることができるはすである。金持ちの利益のためならあらゆる手段を駆使する。それが「小さな政府」なのである。所得税の最高税率の引き下げ、法人税引き下げ、国有資産売却、規制緩和、労働法制改悪・・・。それらはすべて、金持ちがより金持ちになるための政策である。貧乏人がこれらの政策に賛意を示すことは、自殺行為なのである。
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