「自治」以前の問題としてへの返信(2004.12.28)

 

伊豆利彦のホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/index.htm

新掲示板2 http://www1.ezbbs.net/cgi/bbs?id=tiznif&dd=27&p=3 より

 

 

1619.うのきさんへ 1607.「自治」以前の問題としてへの返信

返信  引用 

名前:伊豆利彦    日付:12月28日(火) 9時36分

ご投稿ありがとうございました。
いろいろ教えられました。

<大学の社会的責任>とはなにか。いかにして、それを果たすか。
無法の権力が日本と世界を支配するとき、この<無法の権力>に抗してたたかうために、<大学の自治><学問の自由>は守られなければならない。
権力に従属し、自己の保身をのみはかるならば大学は死に、学問は死ぬのだ。
そこにはは<大学の自治>も<学問の自由>もうしなわれている。
腐敗し、欺瞞の言語となった<大学の自治>と<学問の自由>を軽蔑するのは尤もだ。
しかし、<大学の自治>と<学問の自由>は権力とのたたかいの中にのみある。
いま、うしなわれた<大学の自治>と<学問の自由>をいかにして回復するか。
私はもう大学に属するものではないが、いま、大学に属する人々に、それを強く期待するのだ。

私は滝川事件の事を思い起こす。
権力による大学支配に抗してたたかった当時の教授会、学生たちを思う。
しかし、その後、美濃部事件のときは、もはや日本の知識人は抵抗の力をうしなっていた。

滝川事件は多喜二が殺され、日本の反権力の勢力が破壊されたときだった。
満洲事変後2年だった。
大学問題を言論思想の自由に対する破壊の問題としてとらえる必要がある。
そして、それはファシズムの支配、戦争国家への道なのだ。
美濃部事件のあと2・26事件が起こり、対中国の全面戦争に突入した。

いまの日本は民主主義の国だという。
笑うべき幻想だ。
すでに日本は戦争に踏み込んでいる。
いま、私たちはどのようにして、それとたたかうことができるか。


 

1620.Re: うのきさんへ 1607.「自治」以前の問題としてへの返信

名前:伊豆利彦    日付:12月28日(火) 10時9分

いま、権力は<大学>と、<学問>を支配している。
また、マスメディアも支配している。
いまなお、どれだけの自由が残されているか。
欺瞞の<自由>、欺瞞の<民主主義>、しかし、私たちは<自由>と<民主主義>の旗をかかげてたたかう必要があるのではないか。
それは、世界の人民と連帯する反ファッショ、反戦争のたたかいだ。
いま、私たちは歴史の転換点に立っている。
やがて、おそろしい苦難を私たちは経験するだろう。
<大学問題>はこの大きな歴史の展望のなかで、検討する必要があるのではないか。

こんな<大学>なんかどうなってもいいというのは尤もだ。
しかし、それはこんな<日本>なんてどうなってもいいということになるのではないか。
私たちは、いま、自分のいる場所で、可能な条件を可能な限り生かして、可能な限りのたたかいをはじめる必要があると思う。

できないことはできないのだ。
できることをできる限りする必要がある。

いまなお残る大学の可能性はなにか。
うのきさんたちの奮闘に期待する。

数え年でいえば来年80才になる私はともすれば昔のことを思い出し、昔の言葉でいまを批評したくなる。
それが、戦争の時代を生き、戦後の時代に日本の近代文学を学んできた老年の私の、最後の日々にできる仕事であるかも知れない。

 

 

1607.「自治」以前の問題として

返信  引用 

名前:うのき    日付:12月26日(日) 23時16分

「まず博士論文についてですが、博士号を取得するためには、主査一人と副査二人がいる体制で博士論文の審査が行われなくてはなりません。主査には指導教員がなることが決まっています。そのため、指導教員が学外へと転出すると、主査を失い、学位を取得できないこととなってしまいます。そこで、指導教員が学外に転出した場合でも、主査として審査に加わることができるように要望しました。…(略)…以上の要望に対し、人文の学部長および評議員は誠意ある対応をしています。中でも、博士論文の審査体制に関してはすでに教授会で議論されており、私たちの要望どおり制度化される見通しが立っています。」

これは都立大博士課程院生の報告の一部であります。↓

http://www.kubidai.com/modules/xfsection/article.php?articleid=23


市大も周知の通り、都立大と同じく、指導教員が学外へと大転出が続いております。
専攻によっては転出しなくても明確な理由を明示しないまま、なかば主査・副査の任を放棄する一傾向もなくはありません。
市大に「誠意ある」教員が一人でもいるならば学部生・院生に現在の事態をできるかぎりのところで説明をしてもらえないのでしょうか?
言葉だけの「大学の自治」とか「学問の自由」はもう十分であります。
高い学費を払っている上に、この状況下で学費値上げをするようなことがあっては、納得できないのであります。
転出できる方はいい。しかし学生はどこにも逃げることができないのです。
http://www.kubidai.com/modules/xfsection/article.php?articleid=23


 

1611.「何ごとにも優先すべき」大学の社会的責任

名前:うのき    日付:12月27日(月) 11時12分

USRとして「何ごとにも優先すべき事項」では、「本業としての教育・研究の内容」(八九・六%)、「公正な入試・入学手続き」(六三・二%)、「在校生にとって良好な教育環境」(五〇・二%)の順となった。

http://university.main.jp/blog2/archives/2004/12/post_285.html

市大の大学人のほんの一握りの誠意ある非常勤の先生方とごく一部の真面目な学部生をのぞきましては、「何ごとにも優先すべき事項」とは「自分」であると思われます。
このような市大が市民からの信用回復を得るには・・・ 市大にいる大学人自身が、いま「何ごとにも優先すべき事項」を考え直す必要があうのではないでしょうか。
http://university.main.jp/blog2/archives/2004/12/post_285.html


 

1616.再録:豊島耕一 「脳内リベラル」からの脱却

名前:うのき    日付:12月28日(火) 1時52分

……しかし実際には,まず学長の集まり「国立大学協会」が抱き込まれ,教授会や一般の教授たちの多くが沈黙するという状況が作られて,ほぼすんなりと行ってしまった.なぜ教授たちはイヤなものをイヤと言わなかったのか,ここが問題である.

 様々な要因があろうが,この短いエッセイでは文化的・イデオロギー的な面に注目してみたい.大学教員ほど自由に発言できる立場はないにもかかわらず声を上げなかったのは,ほぼ純粋に文化的な要因によると思われるからでもある.この点,日の丸・君が代問題で大変な抑圧と闘っている小中高の先生たちとは全く事情が違う.

 第一に,自らが所属する組織・集団に対する過度の従順さがある.教授会で,学部長の「意向」なるものに対し,それに不満があっても真っ向からこれに挑戦する人はほとんどいない.あたかも学部長は「宗教的指導者」であるかのようだ. 学部長らは,度重なる文科省詣でのためか行政のイデオロギーに相当感化されていて,独法化反対を公言する人はきわめて少ない.だから,たとえば教授会で反対決議を提案しても,他の教授会メンバーの沈黙のガードによって学部長の「意向」が護られるのである……
http://www.geocities.jp/chikushijiro2002/UniversityIssues/essai.html