永岑三千輝氏『大学改革日誌』2005年1月6日付: 「管理職が民主的な規制(教授会・評議会等による規制)なしに予算・人事を握ってしまえば、自由な発言・自由な研究などはありえない」

 

http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/SaishinNisshi.htm#_edn1 

 

 

200516日 総合理学研究科・佐藤真彦教授が、就業規則及びその付属文書の公開(教員組合への提示)を契機に、鋭い総括的な批判文書「無抵抗な家畜の群れ」化へのマニュアル: 横浜市当局、勤務条件・任期制等について提示05-1-5を公開された(「全国国公私立大学の事件情報」もこの文書が全国的な重要性を持つものと判断したのであろうが、すでに掲載している)。本学及び都立大学、そして全国の国公私立大学の「改革」のあり方・今後の展開を考える上で、熟慮すべき問題点を指摘していると感じる。とくに、大学における教育と研究の使命を果たす上での精神的自由の最大限の確保、大学における民主主義の重要性という点から、現在の「改革」のもたらす深刻な意味が問われることになろう。管理職が民主的な規制(教授会・評議会等による規制)なしに予算・人事を握ってしまえば、自由な発言・自由な研究などはありえない。その点で、次の一節にもっとも注意を引かれた。

----------

ごくごく近い将来に,行政に対する批判はおろか,同僚教員,とくに,従来のような民主的選挙を経ずに上意下達で任命された幹部教員の学説やその指導学生の研究内容に対しても,学位審査会等において,まともにコメントすることすら憚られるという,甚だ好ましくない雰囲気が到来するだろう.これを,“学問の死”と呼ばずに何と呼ぶのか[i][i][]

---------- 

 

           これと関連して、上記文書で神戸大学の阿部教授の見解も久しぶりに読み直すことができた。すなわち、

 

---------- 

           阿部泰隆(神戸大学):「大学教員任期制法の濫用から学問の自由を守るための法解釈、法政策論―京都大学井上事件をふまえて」+『追記』04-3-28http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/040328abe.htm 

 

・・・任期制は多数派による少数派弾圧手段 任期制は、身分保障に安住した怠慢な教員を追い出し、大学を活性化する手段だ等と思っている人が多いが、実は逆で、任期制法が適用されると、失職か再任かを決めるのは、当該大学(教授会、あるいは理事会)である以上は、怠慢な教員が追い出されるのではなく、学内派閥の少数派は、どんなに業績を上げても、追い出されやすい。多数派の身分が保障され、少数派の身分が害されるだけである。そこで、多数派に隷従するか、むしろ、自ら多数派になるしか、学内では生きることができない。同じ大学で、競争講座をおいて、あえて学説の対立を現出することによって、学問の進展を図ることなど、およそ夢の又夢になる。これでは、教員の学問の自由が侵害され、大学が沈滞することは必然である。したがって、教授の任期制を導入するまともな国はない。任期制が一般的な韓国でも、それは副教授以下に限っているから、日本のしくみは国際的にも異常である。私は、これまで幾多の闘争をしてきた。それは学問を発展させたと信じているが、それが可能となっているのは、わが同僚からは追放されない保障があるからである。もし同僚と意見が合わないと、追放されるリスクがあれば、私は「毒にも薬にもならないお勉強」をするに止めたであろう。・・・

------------- 

 

 

 と同時に、これほどまでに評議会・教授会がそれぞれの問題について自主的に審議しない現状は、一体何を意味するのか。「それは教授会マターではない、それは評議会マターではない」と、審議事項にあることすら議論しようとしない(してこなかった)現実、その歴史的背景は何か。問題の深刻さについて考え込まされる。

大学教員は、それぞれの研究教育の狭い専門にあまりにも蛸壺化し、大学の使命(本学の場合も何十年かにわたって学則に掲げられてきたもの)とその前提諸条件ということについて思考してこなかったのではないか?

圧倒的多数の教員が狭い専門に閉じこもり、大学の使命、その大学の存立の基礎、大学の経営に無関心ではなかったのか?

憲法、学校教育法、それらに基づく評議会(大学の最高意思決定機関)の責任とされ権限とされて列記され明記された審議事項のうち、「予算見積もりに関すること」、すなわち経営に関わることを一切審議してこなかった(審議させなかった)評議会(その議長としての学長)と大学事務局・市当局の態度に、根本問題があるのではないか?

芦部『憲法』が大学の自治の要件としている重要事項の「予算管理の自治」の意味が、単なる事務的な数字あわせだけの意味に矮小化されて理解されてきたのではないか?大学の研究教育の重要条件としての経営の意味が無視されてきたのではないか?

その意味で、上記批判文書で改めて言及されている「認識」(教員・人間を「商品」呼ばわりすることをはじめ佐藤教授の言う「暴言」という表現はあたっていると思うが)たとえば、本庁から派遣されてきた事務局責任者()の言う次のような認識、「教員は現実は違うのに自身をスーパーマンだと思っている.なんでも出来ると思っている.そこに事務が配転してくればやる気がなくなる」、「教員は横浜市に雇われているという意識がない.設置者がつくった制度を知らないで議論している.権限の構造がどうなっているかを教員は知らなければいけない」、「教員は自分の役割をはっきり認識していない.制度の上にたった自覚がない.何でも出来ると思っている.事務局の責任も8割はあると思う.うるさい集団に対して面倒くさい,やめようと思って,力を発揮していない」などというのは文書証拠が示す評議会の行動(ひとつの事例としての「予算見積もり」の審議の欠如、学則に従い学長・それを補佐する事務局が審議事項として議題にきちんとかかげ審議すべきだがそれをしていないということ)を見ても、事実誤認ではないか?

「設置者が作った制度」は、大学評議会の学則上の審議事項を無視してもいいものなのか?それが「権限の構造」なのか?そうした歴史的事実をどのように総括しているのか?「事務局の責任も8割はある」(その部分はある意味で謙虚冷徹であるといえよう)ということとの論理的整合性が問題となる。

そのような諸事情も加わってのさまざまの問題点である。これは決して過去のことではない。現在進行中の入試等の問題に関しても、きちんとした教授会・評議会審議(正式公式の審議機関での審議・議決)が行われているかが、議事録で確認されるべきだということになる。