横浜市立大学、「教員の勤務条件に関する説明会」

 

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2005年01月27日

横浜市立大学、「教員の勤務条件に関する説明会」

大学改革日誌(永岑三千輝教授)
 ●最新日誌(1月26日)

昨日夕方6時から9時近くまで、「公立大学法人横浜市立大学教員の勤務条件に関する説明会」があった。予想通り、これまでに配られた資料(就業規則等)の説明がほとんどであった。一番肝心の点、大学教員の任期法の「精神」に則り、労働基準法にしたがって「全教員を有期契約にする」という就業規則案の法理と論理の不整合については、何も真正面から答えるものではなかった。「結論を堅持する」という行政主義的態度だけが明確であった。公務員としての身分保障と任期の定めなき雇用(65歳定年までの任期制)を、公立大学法人において上記のように3年・5年の有期契約に変更することが、重大な不利益変更(ほとんどすべての教員に対する重大な名誉毀損・精神的ダメージをあたえるもの、怒り心頭に発している教員がたくさんいる、諦観状態の教員もいるが)である、ということについては、まともに答えることなく、全参加者に沈うつな空気が支配したと感じられた。

「活性化」という言葉は上滑りであるように思われた。何回か「活性化のため」という言葉が使われたので、市長等によって任命された人々だけは少なくとも「活性化」しているのかもしれない。

いや、私の判断違いで、参加者の多くは元気が出たのであろうか?

質問の冒頭に立ったある教授は、この間、非常に多くの教員が去っていってしまったことを指摘し、全員への「任期制」導入は、活性化とは結びつかない、どうして「活性化と結びつくのか」と質問したが、何も明確な説明はなかった。

それとも、私だけが理解しなかったということか? 

「活性化」と全員任期制が結びついていることが理解できた人はいるのか?

給与条件等でも支離滅裂な答弁(扶養家族手当、住宅手当等が業績給に位置付けられたりしている、また基本給部分は一切変動なし、上がりも下がりもしない云々)があった(これまた重大な不利益変更といえるだろう・・・12ヶ月だったかで1号俸上がることがこれまでの体系だったから実質切り下げ)。

「活性化」を掲げながら、「大枠な予算削減」、したがって「小さくなるパイ」の分捕りあいを強制するシステムとなっていることについては、「わらってしまいました」という鋭い質問が参加者から出たが、まともな返答はなかった。第2回説明会があるというので、明確な返答があることを、一応は期待しておこう。

テニュア制度に関しては、「ノーベル賞級の教員」、とか「誰も認める人」ということで、非常に狭く設定するような発言であった。これは現在の全員定年までの期間の定めのない雇用からすれば、著しい条件厳格化であり、明らかな不利益提案である。テニュアについては明確な基準を示さず、むしろ厳しい条件を暗示しながら、全員任期制だけは認めろ、というのは通用することであろうか?

再任不可の可能性を残すという鞭で大学教員の尻をたたこうという魂胆が、見えてくる。鞭がなければ働かないのは奴隷である。「ルサンチマンの改革」と称されることにも一理あると思えてくる。

ある若手教員は、「これまではプライドと責任感で研究教育に励んできた、10年近く、交通事故やその他の事故に遭っても講義を休むことなどはなかった」とした。しかし、4月以降は、「教員評価を行う管理職を見たら大きな声で挨拶しよう」、「どうすれば教員評価をする人の感じを良くするかだけに神経を使うことになろう」と発言した。教育研究者としての誇りや責任感、学界(学会)での評価と名誉感等をインセンティヴとするのではなくなろう、と。こういうことに追い込むことは、やはり、「教員は商品だ。商品が経営に口を出すな」と言った人間を物扱いする発想と関連することなのだろうか?

学の独立、学問の自由、真実・真理(普遍的価値のあるもの)の探究を使命として教育研究を担う大学教員の精神的自由の制度的保障に関して、最も重要なのがテニュア制度(現在の場合は、全教員が定年までのテニュアとなっているが)であり、准(準)教授以上の大学教員にとってテニュアと学問の自由・行政等の支配からの自由とが密接不可分であることが参加者から強調された。これに付いても明確な返答はなかった。

最初の説明のなかでは、給与条件等を任期制のもとでとこれまでの制度とでは違うようにする、同じではありえない、格差をつけるといった意味の発言をしていた。それは不利益措置を匂わせるものであったが、経済的利害から精神的自由を束縛していくということになろう。

大学教員の評価に関しては、学生・院生の評価、学界の評価、社会の評価と多面的多次元的評価がある(現実にそれが行われている)。

ところが、今回の「教員評価制度」は、その第一次評価者からはじまってほとんどが行政任命(いずれは法人任命)の管理職によってなされるシステムであり、根本的な問題をはらんでいる。大学の研究教育(その本質的要因)にどこまで深い理解を持っているのかわからない人々が作った民間営利企業の評価制度がそのまま導入されようとしている。参加者からはこの点にも鋭い批判が繰り返しだされた。しかし、行政的任命に慣れ親しんだ人々(それによって現在の地位を得ている人、そして次の地位を得ようとしている人)にとっては、理解されないようであった。

最後に「ご意見・ご質問票」が配られ、評価制度、就業規則等、その他の三つの欄に意見や質問を書いて提出すれば、それらのすべてに対し回答する、ということだった。言葉の上での「回答」はできるだろう。私の理解力の限りでは、歴史的に不名誉な就業規則案として語り継がれるであろうような文章であっても、はじめに「全員任期制」という結論があって、それに即した文章を作成してしまう態度である以上、どこまで法理を尽くした回答が得られるのか、はなはだ疑問である。

大学教員任期法と労働基準法の適用のあり方、一般法と特殊法の関係、「大学の自治」・「学問の自由」と大学教員の身分保障の関係等に関して、教員組合がすでに集約的に問題提起し批判しているのであって、これら諸論点に、どれだけ論理的に法理を尽くして説得的に答えるのか、これまでの改革のあり方の全経過を見ると、ほとんど期待できないように感じられる。さて、どうなるか。

最後に学長予定者の挨拶があった。よく聞き取れない江戸っ子風の言葉をちりばめた発言であった。雑談ならともかく、新しい勤務条件等を説明会参加者に語りかける言葉としては違和感を持った。

それとも多くの人は、親しみを持ったのか?

そして前回同様、「後半」(というか6−7割と感じられたが)、英語で語った。これまた私にはほとんどわからなかった。「評価はまずやってみなければ」という結論的主張だけが、理解できた。

壇上に居並ぶ人々は一語一語しっかりかみ締め理解していたのだろう。

また、会場のほとんどの人々は英語のスピーチを理解できたのだろう。

しかし、私は理解できないので怒りを感じた。

なぜ、学長予定者はきちんとした日本語で語らないのか?

学長予定者のメッセージを明確な日本語で全教員に伝える努力をなぜしないのか?

学長予定者を任命した人は誰か?誰がお膳立てしたのか?

大学改革推進本部の人々はなぜフォローしないのか?

彼らは学長予定者の英語がすべて明瞭に理解できたというのか?自分たちは理解できたので教員はもちろん理解できたと考えたのか? 学長のそばにいた人々に、尋ねてみたらいいだろう。

教員が講義において学生に理解できないようなことをしゃべることは何も問題ないのか?

講義の準備不足として、厳しい評価が与えられるのではないか?

 

投稿者 管理者 : 20050127 01:19