公立大学という病:横浜市大時代最後の経験

 

http://yosisemi-ku.ec.kagawa-u.ac.jp/~labornet/MyDoc/ycu2004.html より取得(2005.2.16

 

 

 

公立大学という病:横浜市大時代最後の経験


04/5/16:「日々の雑感」用に記す
04/9/29/:追記
04/11/6:追記および別ファイル化
04/11/17:「II.学長という病」追記
04/12/31:「II.学長という病」追記

はじめに

少しずつだが、前任校の最後の時期に経験したことを書きとめておこうと思う。暴露話的なことにも触れることになろう。タイトルの「公立大学という病」は市大時代の思い出に由来する。昨年(03年)の年の瀬に、教員仲間と呑んでいて「誰かこの大学を早く脱出して、このタイトルで本を出し、市大の惨状を告発してくれないか」と愚痴をこぼしたことがあったからだ。その時は、まさか自分がこんなに早く大学を去ることになろうとは思っていなかった。また脱出したからといって、そんな本を書くつもりもない。ただ、その時の思い出として、こんなタイトルにしているのである。ここに書いていることは何の分析や診断もなされてなく、自分が経験して覚えていることだけを書きなぐったものなので、その意味ではタイトルは誇大な表現となっている。

現大学に来て、国立大学の独法化と公立大学の独法化の余りの違いにあぜんとするばかりである。このことをきちんと分析していかなければならないが、自分にはそうする能力も時間もない。ただ今言えるのは、地方自治を是とする素朴な考え方については随分と不信を持つようになったことである。「地方自治の時代」という言葉を聞くと身を構えてしまうし、また構えるべきだと思う。東京の教育界で起こっているように、強大な権限をもつトップの下で民主主義の常識が通用しなくなる局面があり、それに歯止めをかけることが難しいからだ。それは市大で体験したことでもあった。
 最近、高松市の近隣の町で起こった事件がある。町が土建業者のたちの作った「NPO」の協力を得て、町民から親しまれてきた里山を桜の公園とするために、重機で従前からある自然林を根こそぎ伐裁したのである。町は住民参加型の事業として自画自賛したが、事前調査も行われないままに実施され、地肌がむきだしになり、無惨な光景を呈している。また、防災や自然植生の保全という観点から問題が指摘され、当初は静観していた県もさすがに指導に乗りだすなど、異例の事態となったのだ。これが末端の地方自治の現状なのである。国レベルでは環境問題が大きなイッシューであると位置付けられるようになり、こんな無茶苦茶は許されなくなってきているにもかかわらず、地方の末端に行くとそこに待ち受けているのはあいかわらずの土建屋の発想であり、一旦、自治体トップがその方向へ舵をきったならば、それを誰もストップさせることができないのである。どこかで見たような光景が故郷に帰ってきても待っていたのだ。そして、先日、その山の近くをドライブしたら山頂に巨大な日の丸が掲げられていた。
 横浜市大の話に戻ろう。「大学の自治」に疑問を抱いていた当時の総務部長(現泉区長:04年4月現在)が、権力(市長)の交代劇を機に大学自治破壊を試み、みごとにその解体への道筋をつけてしまった。彼の過去の放言録には「教員は商品だ。商品が運営に口を出すな。」といわんばかりことが書かれており、それは今年のプロ野球球団合併問題でのナベツネの暴言にも似ている。世論に後押しされてプロ野球では選手会の側が勝利したが、公立大学ではそうはならなかった。かつてのように大学に社会的な存在感がなくなってきているためだろうが、しかし国立大学では、最低限の線ではあるが、どうにか自治的枠組みが守られたのも事実である。公立大学だけが、いとも簡単に破壊されてしまうのである(国は大学自治破壊の実験場として公立大学を見ているフシがあり、その惨事を黙認している。その意味では公立大学という病のありようが、今後の国立大学のありようにも大きな影響をもたらすことにもなりかねない。今の私の危惧はここにある)。
 一旦走り出すと、地方行政の枠組みでは、中庸な意見やバランス感覚のある見解が排除され、弊害が起きていることは皆感じているはずなのに、当初通りの極端へと向い、ストップさせることができなくなる。市大で起こっていることは中国の文化大革命のミニ版みたいなものであった。「あり方懇」の座長を始めとして、少からぬ大学人が、その流れに加担しているのを見てきた。彼らはすすんで、「地方自治の時代」をキャッチフレーズが賑う中で、下(地方行政)からのファシズムの尖兵たらんとしているのであろう。
 アンケートの都合のよい部分だけを抜き出し、都合の悪いことは情報開示しない役人。上司にしか目の向いていない役人。内規さえ遵守しない役人。予算が足りず、図書館の外国語雑誌がどんどん減らされていくなかで、事務局ばかりは華美になり、大学破壊の尖兵となっていた企画課長のデスクやチェアは新調され、改装されたトイレにはウォシュレットがついた。
 市大時代には随分と多くの職員の方々にお世話になり、恩を感じている人も多いが、しかし最後の三年は違った。小役人ばかりが跋扈し、プチ権力者としてこの世の春を謳歌していた。おそらく地域で対抗的活動している人々が感じてきた役人の嫌らしさというもの。これを私は味わったのであろう。
 もう一つ自分のことも書いておかなければならない。組合書記長という大任を受けたにもかかわらず、たった2ヶ月でその職を放り出し、他大学に移ったことだ。これは天下分け目の決戦を目前に控えている中で、指揮官補佐が逃亡するようなものであり、絶対にあってはならないことだ。現執行部の方々には随分と迷惑をかけることになってしまった。市大の先生方は皆やさしく、この責任を問い詰める方はいなかったが、自分としては随分とひけめを感じている。


 前任校の最後の時期に教員組合の書記長を経験した。たった2ヶ月(実質1ヶ月半)の経験であったが、様々なことがあった。そのなかで絶対に許せないと感じたのは、学長、市の役付き役人、市労連の連中である。だから彼らのことを書いていこうと思う。ただ、最後の市労連を許せないというのはどういうことか。お前も市労連傘下の組合の書記長をしていたのではないかと訝る人もいるだろう。だからこそ正確に書いておく必要があると思う。
 大企業の労働組合が信用できないというのはよく言われることだし、自分のこれまでの調査研究のなかで感じてきたことである。人事部顔負けの労務屋ぶりの発想には辟易してきた。また労組へインタビューを申し込んでも、人事部の人間を連れてくるなど、その労使一体ぶりにあきれてしまったこともある。正直言うと、大企業の調査をするのであるならば、労組の連中より、人事部の人の方がずっとまっとうな話しが聞けるし、真実に近づけるとさえ感じてきた。
 しかし、公務員の組合に関しては、自分自身の調査研究の経験もないということもあって、それなりの期待感というのは残っていた。研究会で知りあった自治労の方が「リビングウェッジ運動」を紹介していたということもあって、組合らしさというものを幾分か残している組合ぐらいの印象は抱いていた。教員組合の活動のなかでも、市労連を通せばなんとか当局と交渉に持ち込めるということも聞いてきたので、彼らには頼もしさまで感じていた。しかし、実際に教員組合書記長となって市労連の本部に出かけて感じたのは、奴らも同程度に腐っているということである。大企業労組と同じ穴の豸である。
 

11/21結構書いたので以下の部分は削ってもよいのだが、最初に書いた部分なのでフォントを小さくして残しておく。)しかし、まだこの話を具体的に展開してよいものかどうか、気持の整理はついていない。転任によってURLが変わって以来、このサイトへの来訪者が極端に減っている。とはいえ、そこはネット情報の怖さで、どこにどう伝わるかわからないということがある。また、私が書くことにより現在も市大で闘っている教員組合の人たちに迷惑がかかるかもしれない。それは望んでないし、そうなっては困る。
 しかし、かつての同僚に対して、援軍だと思っている連中が、実は相手方の刺客かもしれないということを黙っておくわけにもいかない。退職で書記長を辞するときに市労連にはあえて挨拶に行かなかった。こうさせるに十分なことが市労連との関係であったということを記しておきたいということもある。アンビバレンツな気持が続いているのだ。だから、今回はあまりさしさわりのないことから書いていくことにしよう。


 

I. 市労連という病

教員組合による新聞広告への反応

教員組合が朝日新聞神奈川版に市大改革反対の宣伝広告を打ったのは今年の2月15日(日)のことだ。組合員には好評を博し、数十万円の寄付金を集めることができたこの広告も、当然のことながら当局の逆鱗にふれるものであった。週開け早々には当局から呼び出しを受け、この件について組合に申し入れをしたいということになった。当局側から市大総務課長と人事係長、こちらは委員長と私が出席した17日昼の申し入れで聞かされたことは、「誰とは言えないが上が激怒している」とのことであった。事実とそれに関する組合の見解をPRしたその新聞広告に、事実誤認等の文句は付けようがない。訂正しなければならない問題があるわけでもなく、お互いの見解が異なることを確認するということでしかない。「独法化にあたっては、これまでの大学の自治を反映した形での移行が本筋なのではないか」と主張する我々に対して、「これまでは先生方が決定権を握っていたけれど、これからは」等々の意見の応酬が続いた。かみ合うような議論はまったくないと言ってよかった。
 ただついでだから、話し会いの最後のほうで、翌16日に出た東京新聞の記事に関しても当局や「上」の反応を聞いてみた。この記事は、「『改革』に揺れる横浜市立大学」と題して、独自取材をもとに横浜市大の改革をストレートに批判した特集記事であった。転出を考えている教員も多く、「隠れFA状態」だとも伝えていた。
 ここ数年、 横浜市大改革に関する新聞記事と言えば当局情報丸呑みの御用記事ばっかりであったが、この記事は教員筋にも随分と取材を重ねているようで、その改革のうさんくささを伝えた本物の取材記事であった。教員側の不安と懸念がきちんと書き込まれており、我が意を得たような援軍記事と感じた。おそらく教員は皆そう感じたのであろう。翌日にはキャンパスのそこかしこにその記事のコピーが掲示されていた。一人が貼ったコピーを、だれかが更にコピーして別の場所に貼るなどということが起っていた。だからこれに対する当局の反応には興味があった。
 もう一つ興味があった。実はその時、私自身が「隠れFA」で、移籍することがほぼ確定的な状況にあったためだ。前年12月に出した香川大学の公募に引っ掛り、記事掲載日の3日前に行われた面接で採用がほぼ決まっていた。無論、教授会という最後の関門があったものの、しかしこの大学を脱出する可能性が見えてきたということからする心の余裕が少し出てきていた。そういう立場にあると、東京新聞の記事は、まさに自分の事が書かれているようでもあり、それに対する当局の反応が知りたかった。第三者に教員脱出続出という問題が指摘されて、自分たちが実施している改革のおかしさに気づくのではないかという淡い期待ももっていたからである。
 しかしそうではなかった。確かに、困っている風ではあった。なにせ、彼らのコントロールが及ばないところから批判が上ったからである。しかし、基調としてはその記事も組合の意見広告同様の大問題で、事実と異なる点も多いので、抗議も含めて考えているとのことであった。その「事実」ではないと考えられていることの一つの例として出されたのが「隠れFA」問題である。いつもはメッセンジャー以上の役を務められない人事係長(市大商学部出身)が、「教員がみんな隠れFAなんて、とんでもないデタラメですよね。こんなことを考えている人はいないでしょ」と感情的な反発をしてきたのであった。
 自分たちの主導する改革で、母校がそんな悲惨な現実になっているということを認めたくないという気持ちであろう。彼の気持はわからないでもない。だが、現実なのだ。お前らがやっていることで、俺は外に出ることにした。悪いが俺は、つい数十時間前に面接に赴き、採用されることがほぼ決まった。あんたの母校愛がどのようなものであろうとも、それが現実なのだ。だから、能天気とさえもいえるその言葉に苦笑いするしかなかった。お前が今語りかけている人間が、その記事の正しさを証明しているのだと。また当局の病巣の深さも哀しかった。そんな人心離反にさえ気が付いていないのかと虚脱感を覚えるのに十分だった。
 最後に、17日時点では当局の言う「上」とはどのクラスかが分らなかった。ただ大学事務局クラスよりもずっと上だということだけは仄めかされていた。話しの文脈から一部政党の市議会議員クラスかなとも思った。だが、「上」とはまさに市長だった。これに気づかされたのは翌週だった。朝日新聞が市長が記者会見で東京新聞記事に激怒していることを伝えたことからだった。ポピュリストたる市長にとってはメディア戦略が絶対だ。だから、その反応に無理はない。ただそこまで当時は読めていなかった。だからちょっと意外さを感じるとともに、相手の出かたも随分と読めるようになった。
 教員と都庁の対立が激しい、都立大学の問題とは同一視してもらいたくないとうことがはっきりした。反対をしているのは一部教員でしかないという宣伝をうってくることは薄々とは勘づいていたので、意見広告では「統合を予定されている三学部の教員の87%」を組織している教員組合が反対しているのだということを明記しておいた。それでも、おそらく改革案は大学が作ったという形式論で押してくるだろうということが明らかになった。事実、その後、マスメディアや市議会対策ではそう対応している。だからその線をついていけばよいのだということになろう。しかし、それもなかなかうまくはいかない。学長が篭絡されているからだ。
 このことはさておき、市側は東京新聞に抗議したようだ。しかし、東京新聞は市大問題に関して4月20日に続報を出した。圧力に屈せず、筋を通した立派な記事だ。なぜ他社が同じように市大問題を取りあつかてくれないのだろうか。市役所とのなれあっているK新聞は別にしても、もっといろいろな側面から市大の問題を市民に伝えてもらいたいと思うが、それもままならなかった。
 

市労連の態度:Y書記長の任期制是認論

さて、市労連にとっても組合の意見広告は寝耳に水で、その逆鱗に触れたようだった。市労連から連絡があったのは、当局との折衝を行った17日の夕方であった。あわてて委員長にも同行してもらおうと連絡を取ろうとしたのだが、どうしてもつながらなかった。しかたがないので、一人で対応する覚悟を決め、市労連のある関内に説明に向かうことにした。
 関内に着いて市労連のY書記長の携帯に連絡を入れると、ある呑み屋で待っているから来いとのことであった。指示された場所に行ってみると和風のダイニングバーのようなところであった。開口一番、Y書記長から言われたことは総務課長から言われたことと同じ。「上が怒っている」とのことであった。当局との信頼関係が崩れかねないなどと散々批判された。その後しばらくして、市労連副書記長も現れた。そして何故市労連に前もって教えなかったのかと詰問された。
 こちらとしては、教員組合の市労連担当者より市労連の副書記長には伝わっていたはずだということ、宣伝広告は前の執行委員会からの引きつぎであったなどと言い訳がましく言うしかなかった。前者の話については副書記長は即座に否定していた。何も聞いていないというのである。以前、意見広告には産別(全大協)の名前を借りるべきではというアドバイスを副書記長からもらい、それを執行部で検討したことも覚えているので、当然知っていたはずだと反論したが、自己保身の姿勢がみえみえで否定するばかりであった。だが、自己保身は自分も同じ。格好悪い話だが、前執行部からの引き継ぎだったという話を敢てしたのは多分に自己保身的であったことは否めない。しかし、事実でもある。
 

実は1月19日に行われた組合総会の後の懇親会の席で、当時のF執行委員長に次期執行委員会で新聞広告を出すことを検討してくれないかと言われた。私はこれに対して、それならカンパを募って新聞に意見広告をうつことを考えたらどうかと提案した。事務局主導の改革案が提出されてまだ間もない時期ということもあって、その時の総会は鎮痛な雰囲気であった。総会後の懇親会では、廃止が確定的となった木原研究所のK氏が、連判状を出して当局と対抗すべきだとか、一人研究所に立てこもっても闘うなどと感情を表わにした主張を繰り返していた。他部局への疑心暗鬼と悲愴感が一緒になって爆発していたのである。しかし、彼こそ小川氏を学長に推した「キングメーカー」であった。経緯を知っている私はしらけた気分にならざるをえず、同意を求めてきたK氏に、彼を学長にしたのはあなたでしょうと多少訝りながら質したら、彼は何も言えなかったことを覚えている。
 なにはともあれ、鎮痛な雰囲気が漂うなかで、教員が一丸となって当局の「改革」案に反対の意思を示すことを出席者が求めていることを知った。出席者の多くがバラバラとなった教員が連帯するきっかけが欲しいと思っているのだ。署名を行って欲しいという声もあったが、私は否定的に考えていた。なぜなら、効果は薄いし、当局がカリキュラム案作成で教員を一本釣りし、分断しようとしているときに署名などすればあからさまな分裂を招きかねないからである。
 そこで組合が改革反対の意見広告を新聞にうち、そのカンパを募ることで組合員の意思統一をはかるのはどうかと考えたのである。新聞に意見広告を出すべきだというのは一部の人達がずっと主張きていたことであるが、それとカンパとを組み合せることで実質署名のような形にしたいということがこの話のミソだ。これなら当分の間は当局に面従腹背の姿勢でいたいと思う人も、カンパを寄せるという具体的行動でその思いを表現できる。また組合としても、そのカンパ者の数やカンパの額によって当局案への反対者が多いことを誇示できる。そう踏んだのである。懇親会が終る頃、F委員長にこの話をしたところ、たいそう気に入ってもらい、新聞への意見広告が新執行部への引き継ぎ事項となったのである。
 

こうした事情があったので、市労連書記長に話したことは決して嘘ではないが、何となく詰問に対する言い訳のような気がして後味の悪いものであった。しかし、この話に彼は少し機嫌をよくした。当局とインフォーマルな関係(交渉)を大事にし、その中で落しどころを探り、公式の折衝ではそれを形式的に確認するというのが市労連(もしくはY書記長)流のスタンスであったからだ。
 ファイティング・ポーズをとる教員組合となると、市労連スタイルの交渉もうまくまとまらないことになる。だが、前執行部が決めたことを現執行部が実行しただけだということならば、何とか当局に言い訳もできる。そう踏んだのだろう。「これは使える」などと彼は呟いていた。
 彼の御機嫌もどうにかとることができたので、今度はこちらから彼に市労連流の交渉に入ることにした。呑んでいる席だからこそ相手の本音が引きだせるということで、Y書記長に今回の改革、とりわけ全教員に対する任期制の導入の実現をどう考えているのかと問うてみた。彼は、あくまでも自分の見解だと断わりながらも、「任期制導入は受けいれるしかない」と語った。その言い方は任期制は既定事項で、もはやひっくり返えすことはできないというものであった。
 これを聞いたとき、「えっ、市労連までがそんなことを言うの!?」という気持ちと「やっぱりか」という気持ちが相半ばした。前者の気持ちについては上で書いている通り。当局に対して実質的に交渉能力を有してきた市労連には随分と依存しているところがあった。直接大学当局に要求しても埒があかないが、市労連を通したらなんとか協議・交渉の門戸が開かれたということをこの1年の間に何度も聞いていたからだ。だから、市労連にまで裏切られたという気持になった。
 

他方、「やっぱりか」という気持ちも偽らざるものであった。それまでの経緯に、こう感じさせる理由があったのだ。それは書記長として初めて市労連の催しに参加した2月2日にまでさかのぼる。この日の17時半より、市労連が窓口となり、大学当局と大学関連四単組が労使協議を持つこととなっていた。各単組の代表者は17時に集合し、予め提出していた市大独法化の定款提出に関する要求事項に関する当局との交渉状況の確認と、議事進行のうちあわせを行った。
 しかし実は、その要求事項についての四単組の話し合いのなかで「改革」の目玉となっている大学教員の任期制については一言も触れられていなかったのである。この要求事項の作成は前執行部の任期中であったのだが、前任者が言うには「どうしても取りあげてもらえなかった」ということであった。だから、この点をまず市労連に質しておく必要がある。だから私は、議事進行のうちあわせの時にこの話をもち出した。
 なぜ雇用条件が最も大きく変る教員の「全員任期制導入反対」を取りあげてもらえなかったのかと質した。それに対しては「独法化に反対する。公務員の枠組みを外すな」という四単組の一致した要求課題の中に含まれているというものだった。しかし、我々からすればそれは違う。教員の「任期制」、すなわち有期雇用化は、改革の目玉として大々的に喧伝されているのであり、まったく別の雇用形態へ変わることになるからである。他の職員の雇用形態が公務員から期間の定めのない雇用契約に自動的に移るのに比して、有期雇用化は雇用条件の著しい不利益変更になるのは言うまでもない。これを表立って議論しないというのは、何か裏があるのではないかと激しく追及した。他の職組の出席者からは、何を今さらそんなことを教員組合は出してくるのだという反応であった。完全に教員組合ははめられていると感じた。他の職員の公務員身分の維持のために、教員組合は切られたのだなと。
 市大の職員は、国立大学とは異なり、大学プロパーの職員ではない。あくまで市の職員が、数年ごとのローテションで大学に回ってくるだけである。確かに10年以上市大に在籍している職員もいるが、多くは普通の市の職員で数年後には別のまったく関係のない部署に移っていく。
 おそまつなことに、地独法はこうした職員を念頭に置かずに作られた法律である。たまたま独法化前日に大学に在籍していた職員は一夜で地方公務員の身分を失ない、独立行政法人化された大学の従業員となってしまうのである。大学事務にアイデンティティのある職員ならまだしも、普通の市の職員として生きてきた人にはたまったものでない。「特に辞令のない限り」は公務員としてのキャリアは断絶され、大学の事務員として残りの人生を生きていかなければならなくなる。だから、市大に在籍している市の職員は不安におののいている。不安をもった職員が、随分と自暴自棄となって、組合批判の書き込みを組合の掲示板にしていて手を焼いたという話を聞いたことがある。
 私が思うに、この不安こそが、教員バッシングとも言える異常な市大の教員と職員の関係をもたらしていた。職員は「大学改革」に一生懸命励むことで、かの「辞令」にあずかり、公務員身分を守ろうとしていたのである。そして組合、とりわけ市労連も、この線で職員を守ろうとしており、その人身御供として教員の「全員任期制」が差し出されるのでないか、そう考えざるをえなかった。
 その認識をある程度、はっきり確認したのは、その日の労使協議が終ってからだ。市労連書記長に、初対面にもかかわらず、激しい言い方をした非礼を謝しにいったときに、Y氏はそのことはどうでもよいという態度を示しながらも、「人事権を持っている大学教員が、他方で組合をもっているのはちょっとおかしいのではないか」などと口にした。突然、予想もしていなかったようなことを切り出され、躊躇して何か気の効いた反論をすることができなかった。「大学の業務は高度な専門性を有するがゆえに、教育公務員特例法では人事権は教員が有することになっている。もし専門性に依拠しないような人事が行なわれたらどうなるのか」と答えるべきであったと反省している。しかし、驚いたことは組合の側から教員の人事権への疑念が出たことである。大学の特殊性や事情を踏まえないで、もっぱら大学の人事権のありようを否認するかのような言い方。これは、当局から相当入れ知恵されているなと思わざるをえなかった。

 話をもとに戻そう。何はともあれ、こうした事情が予めあったからこそ、Y書記長の「任期制は受け入れざるを得ない」という発言は「やっぱり」と思ったしだいである。しかし、「はい、そうですか」という訳にはいかない。任期制の問題を随分と語ったのだが、どうも理解できないらしい。雇用保障されている公務員あがりの組合専従は、有期雇用の本当の恐しさを理解する能力もないようだ。「有期雇用になれば、当局にたてつく組合関係者は再任なしでサヨウナラですよ。」とこちらが言えば、「そうしたことを跳ね返すのが組合の本当の力だ。」と建前論でかえしてくれる。そんな力が組合にあるのなら、 なぜその力を任期制阻止に使えないのか。当局と密約でもあるのかと言いたかった。いずれにしても、理由がなくとも契約更新を拒否される可能性があり、これについて闘うことは契約の自由という観点からして難しいという任期制の本当の問題を理解してないことは確かであった。
 そうこう押し問答しているうちに、彼が切り出した。「当局のある人と近くで待ちあわせしているのだけれども、会う気はあるか」と。誰なのかと尋ねると、市大のN総務部長とK人事課長だという。近くに待たしているので、会って話をしてみる気はないかと言われた。私は同意した。ともかく当局が何を考えているのか、どこに落しどころがあるのかを知りたかったからだ。

N総務部長との懇談

 連れていかれたのは、そば屋であった。N総務部長とK人事課長はそこそこ呑んでいたようだ。初対面の部長とは、Y書記長の紹介で挨拶し、名刺を交換した。N部長とY書記長は以前同じ職場で働いていたことがあり、その時以来の関係で、信頼関係がなりたっているとのことであった。部長は大学時代の学生運動歴についても語ったように覚えている。
 そうした他愛のない話をひとしきりした後で、話は本題の「改革」についてに及んだ。彼は教員組合の新聞広告が相当しゃくに触っていたようで、「教員組合は市労連の枠組みを離れて、我々に歯向うのだな。だったら全面戦争だ。やってやろうじゃないか。その覚悟はあるのか。」と詰問してきた。突然の激昂に私は正直気後れした。先にY書記長との任期制とのやりとりがあった後なので、「離れてもやっていきたい覚悟だ」と言葉が喉まで出かかっていたが、しかし口が割けても言えなかった。たかが情報収集のために来た席で、全面決裂の結果を出すわけにはいかなかった。「市労連の協力を仰ぎながら、やっていく。」と答えながら、しかし、任期制は教員組合としては絶対に受けいれられないこと、大学自治を蔑ろにした当局の「改革」のおかしさについて語った。Y書記長からは静止された。上役に対して失礼なことを言うんじゃないと嗜める態度であった。
 その時、N部長が言い放った。「お前らは、自分たちで選んだ学長の決定に従えないんだな。」
私は反論はしたものの、この言葉に打ちひしがれた。致命的であった。おかしいことにはおかしいと言うというのが我々の立場であるとは言いながらも、民主的な手続きから出てきたリーダーであることは否定できなかった。私自身、学長選挙において現学長に投票していただけに本当にこれはこたえた。うわすべりの反論しかできなかった。
 そんなこんなのやりとりがしばらく続いているうちに、そば屋の閉店時間となった。Y書記長は当初、別の店へ行くことを予定していたらしいが、あまりにも雰囲気が悪いために中止したほうがよいと判断したのだろう。Y書記長はN部長とK課長を連れてそば屋を出ていった。私は副書記長に連れられて店を出て、そして関内のスナックへ連れていかれた。
 私は悔しかった。市労連は当局べったり。その腹立たしさを副書記長にぶつけた。交通出身の副書記長は、教員と同じく現市長の下で合理化にさらされていることを語った。それは私も知っていた。現在手元に資料がないので正確なことは書けないが、民営化をちらつかされながら、路線廃止、賃下げ、非正規の運転手の増加を飲まされていた。彼は交通の正規職員の雇用を守ることが絶対だと強調し、当局が打ちだしてくる案には乗るしかないと言った。正直言って、市バスをめぐるその答は、特権化された一部の正規市職員と多数の非常勤運転手との賃金格差を無視したもので共感できなかった。同じ業務をしているにもかかわらず、身分の差によって大きな格差がつくという問題を孕んでいるにもかかわらず、副書記長はその構造には手をつけないままに、少数の正規市職員運転手の特権をどう守るのかということに腐心しているように感じた。
 そのことはさておき、「当局の言うことを聞いていれば、悪いようにはならない。」と彼は私を悟すように言った。これにはカチンときて、「じゃあ、あなたは当局にパンツを脱げと言われれば、脱ぐのですね」と質すと、「そうだ。そうすれば彼らも悪いようにはしない。」と平然と答えた。これには呆れて、モノも言えなくなった。その後、頼んでいたカラオケが回ってきたようで、彼は一人楽しげに歌っている。何か歌えと言われたが、歌う気にはなれなかった。そのうち、彼もママさんたちとの話に夢中になり、私のことは忘れているようであった。時間がきたので、それで帰った。飲み代はあちらが出した。組織費か交際費かしらないがそういう名目で出ている金だろう。腐っているという言葉しかなかった。市労連の連中とはその日以来、会っていないし、会いたくもない。

後日談

 私の研究室の隣りの先生は現副学長であった。私の採用責任者(審査委員長)だったが、どうも私とはそりがあわないらしく、何か用があっても、隣りの部屋にもかかわらず内線でしか私とコミュニケートしない人だった。その副学長が香川大学から私の割愛願いが出た後に、珍しく私の部屋をノックした。おそらく新任で赴任してきた時以来であろう。「吉田君、(転出を)考えなおす気はないかね」と彼は切り出した。「香川大学には私の院時代の友人もいるから、もっと早くわかれば手をまわせたんだが。」などと、翻意できないものか聞いてきた。無論、そんなことは考えられないと答えると、彼は安心したかのように「そうだよね。実は、N部長から君の転出を思い留まらせるよう説得してこいと言われてきたんだ。」と言ってそそくさと帰っていった。
その後、教授会で割愛が正式に決まった後にも「また部長から説得しろと言われたよ。君は随分とあの部長に気にいられているようだね。」と本気とも皮肉ともつかないような口調で言われた。N部長と会ったのはあの日だけ。どうしてそんなことを言われなければならないのか、いまだに不思議だ。

II. 学長という病

04年9月、市大独法化後の学長は米国人になるということが発表された。このニュースの意味することは現学長の解任である。独法化時点で現学長の任期はまだ1年残っており、それを全うせずに職を降ろされることになるからである。現学長の残りの任期を勘案して、市大独法化の定款ではわざわざ最初の学長の任期を1年としていたにもかかわらず、その飴玉をもらうことはできなかったのである。当局も誠にシビアで、ただロボットのように当局の言い分を繰り返すだけの無能な学長は、もう用無しだということなのかとも思う。ある市大の先生は、「次がどのような学長であるかはさておき、現学長が独法化後の学長にならないのはざまあみろという気持だ」と語ってくれた。
 確かにその通りであるが、しかし民主的なプロセスを経て選出された学長が解任されるということは、法人化前後で制度的連続性を一片たりとも残させないということになる。独法化された国立大学でも学長選考会議が組織され、この会が学長を最終決定することとなっている。しかし、旧来からの学長選出手続きをふまえ多くの大学では意向調査として学長選挙を実施するようだ。それは独法化前に選挙で選ばれ学長が、独法化後の学長となっており、旧制度との連続性が実質的に存在しているためだと考えられる。形式的には学長選考会議が学長を選ぶが、実質はできるだけ大学構成員の意思を反映させるような工夫といえる。しかし横浜市当局は、小川学長を解任することによって、形式的にだけでなく、実質的にも連続性を断ち切ることを選択したのである。

ただし大学において随分温度差はある。私の赴任した香川大学は意向調査の結果を発表せずに、学長選考会議が密室で学長を決定することになったようで、学内民主主義を形骸化させようとしてる。はたしてこれは正しいことなのだろうか。教員の支持を得られないままで学長が選ばれて、本当にリーダーシップを発揮できるのだろうか。噂では企業出身の理事らが強固に主張したという。これが事実だとしたら、なんとも悍しい話ではないか。

 さて、小川学長というのはリーダーシップがあるとか、トップダウン・スタイルのきわめて強圧的な人なのかと聞かれれば、とてもそういうタイプの人間ではないと答えるしかない。少し話しをすればわかるが、すぐれて温厚で、紳士的な人なのである。しかし、これに騙された。騙されたというのは、このことが民主的で話しあいを重視して物事を進めていくことを意味しているわけではないということである。実は、この品の良さとは、声の大きな人間や強い人間にさからうことのできない小市民性の裏返しでしかなかったのである。市長の意向に沿って市大の自治解体を狙う事務員にとって、とても使い易い存在であったのだろう。恐面の役人にかかれば可愛い子羊のようなものだ。実際、02年度の評議会で職務放棄をした総務部長に対して毅然とした態度を取れず、喧嘩両成敗にもならないような決着をした。そして、市大廃校という脅しの下に、市の言うがままに行動したのである。恐くて恐くてしかたがなかったのだろう。時折、電車の中で見かけた学長はおどおどと何かを恐れているような感じさえした。だから、こんな危機の時代に、絶対にトップに立ってはいけない人間だったのである。都立大学の総長のように毅然と大学の立場を示し、市当局と対峙したならば随分市大の状況も変っていただろう。メディア受けを第一とする市長は、都立のように首長対大学という構図になることは絶対に避けたかったからである。学長がリーダーシップを発揮し、毅然とした態度を貫けていれば、こんな無惨な形にはならなかったであろうだけに残念だ。

 小川学長の小物ぶり示す別の逸話がある。プロジェクトRなる事務局主体の改革案が出た後で、理学部および理学研究科に対してだけ学長自ら出席して説明会を開催したことがある(03年12月頃)。この説明会に出席するよう口説いたのが、上でも出ている木原研究所のK氏であった。その口説き文句は「せめて身内くらいにはあなたが直接出てきて説明すべきだ」ということだった。これに対して学長は他学部の先例にしないという条件で受けいれたというのだ。このことを04年1月の組合総会後の懇親会の席でK氏の口から聞いた。私はそれは問題ではないかと噛みついた。説明会では理学部長が「他学部の先例にしない」と宣言しているのだが、それは越権行為でないのかと。他学部と学長との関係で決めることであって、理学部が決めることではないのである。しかしもっと問題なのは、何よりも全学的な問題を「身内」意識で処理しようとする姿勢である。文系の研究者のなかでは、赤字の言いがかりを付けらたのは彼ら理系、とりわけその拡張主義のせいであるという批判がいたるところでささやかれていた。私自身はこうした批判に組みしたことはないが、しかしこの時ばかりは、いわば市大解体を招きいれたその張本人たちが、内輪だけで議論すればそれでよいとする発想にたっていたことが許せなかった。また、学長も学長だ。大学が「生まれ変わる」位の大きな改革(=全学部の解体)をしようというのであれば、学長自らが全ての学部に足を運びその説得にあたるというのが筋ではないのか。むしろもっとも手強い敵陣に自ら乗り込み、その正しさを主張し、納得させるべきではなかったのか。改革の案の中身に自信がないのか、それとも自分に自信がないのかはわからないが、身内にしか説明会を開催しなかった小川氏は、トップに立つには相応しくない人材であったことを如実に示している。

 私は小川学長と話をしたことは3〜4回ほどしかない。そして組合書記長という立場で交渉をしたこともない。だから学長は私のことを覚えてもいないであろう。最後に話をした3月25日こと以外は。
 この日は卒業式で、私自身も市大での最後の行事となった。この日の前後をして未消化年休を取得し、大学にはいかなくてもよいようにしていたからである。卒業式には参加しなかったものの、シーガルホール1階の生協食堂で起こなわれた卒業祝賀パーティーに顏を出し、卒業していくゼミ生たちと歓談した。ほどよく酔って、市大最後の時を過した。パーティーが終わり、帰路につこうとした時、学長が本館の中に入っていくのが見えた。今しかない。私はそう考え、走って彼を追いかけた。
 「小川学長」と呼びかけた。ちょうど学務課の前あたりだ。自分はこの大学を去る商学部の教員だと自己紹介し、最後に御挨拶をしたいと申し出た。学長は「名前はうかがっています。随分とゼミ生から慕われている先生だと聞いており、転出は残念です。」と答えた。私は挨拶にかこつけて何故、市大を辞めることを決心したのかその理由を学長に話した。そして私は学長選で小川氏に投票したこと、そしてその理由は小川氏が民主的なスタンスをもっとも堅持してくれそうだと思ったからだったこと、しかし全て裏切られたことを語った。そして、この改革の問題、とりわけ任期制の問題を学長に訴えた。その時の彼の回答は失望さすに値するものであった。「私は任期制については素人だが、運用次第でどうにでもなるでしょう。」
 私は怒りがこみあげてきた。全教員を不幸のどん底につき落す決定を下しておきながら、この時点になってもまだ「素人」と言い逃れする学長の無責任さにあきれはてた。本当に最高責任者なのであろうか。自らの下した決断が無知に基づいたことであったことを、さも我関せず風に答えられる学長のいいかげんさが許せなかった。
 もう一つ許せないことがあった。3月の市会での学長の答弁である。改革が嫌で大学を去る教員が多いと新聞に書かれているがどうかという議員の質問に、学長は「流出する教員と改革とは関係がない。」と断言し、改革が問題のないものであると強弁していた。私はこれが許せなかった。当然、学長は多くの教員が改革に嫌気を出して辞めていることを感じているはずだ。もしそうでないなら、本当に「裸の王様」であろう。だから市会の答弁は嘘であり、こんな嘘を堂々とつける人間がいやしくも学者をやっていたというのが、許せなかった。「私はこの大学が好きだったが、この改革のせいでやめていくのです。学長も良心が残っているのなら、市議会で嘘の答弁をするのは辞めてください。もし多くの教員が辞めていく理由がわからないというならはっきりと申しておきます。少くとも私はこの改革が嫌で辞めていくのです。」彼は神妙な顏をして聞いていたが、何も答えてはくれなかった。

教員組合の作成した2004年3月11日の市議会傍聴記録によると学長は田中議員の質問に対し、「「逃げ出す教員」についても、教員の移籍は、大学相互の人事交流・活発化、さまざまな理由によるもので、大学改革によるものとは考えていない」と答えている。ただ四月以降、少し変化した学長の発言をどこかで読んだ記憶がある。議会での答弁かインタビュー記事であったかも定かでないが、「改革のために、行く先のないにもかかわらず辞めた教員がいる」と述べていたと記憶している(ただ残念ながらソースを見つけることができない)。この程度の前言撤回で何がどうかわるというわけではないが、私に問いつめられて若干の良心を蘇えらせた見るべきか、それとも単なる裸の王様だったというべきか。それはわからない。


 私は他の教員が通りかからないか、私たちの会話に気付き、加わってこないか、何人かが集まってくることで突発的に起きた団交のような事態にならないか、そう夢想していた。だが、駄目であった。知り合いの教員も通りかけたが、特に関心もなさそうに通りすぎていった。一人、話に加わってきたのは国際文化のS先生だった。ただこの人は激昂型の議論しかできない人で、実質的な議論へと深めることは無理であった。私はそう悟り、しばらくS先生の怒りにつきあった後に、これで失礼させてもらうとの挨拶をした。去り際に、学長は「吉田さんに言われたことは胸にしまって、考えておきます。」と言ったが全ては遅すぎた。私が話した程度のことさえ、学長は知らなかったとでも言うのだろうか。
 

III. 役人という病

気違い組織

無知な職員が大学を支配する

公務員の好きな外部委員制度