澤藤統一郎の事務局長日記 (1)2005年2月21日 (2)2月20日

 

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(1)

20050221日(月)

 

憲法調査会とNHK番組改変問題  

 

参議院の憲法調査会で意見公述。傍聴席に、西川重則さん・高田健さんらのお顔があって元気づけられた。傍聴は大切だと身に沁みて思う。仲間が近くにいてくれるというだけで励まされる。信頼に足りる活動をしている人であればなおさらだ。

 

午前中2時間半余が一コマ。4人の公募公述人のうち、オーソドックスな護憲論は私一人。自民党岡山県会議員氏は右派からの明確な改憲論。弁理士政治連盟会長氏は憲法に「知財立国」の理念を書き込めという主張。法政大学教授となった五十嵐敬喜さんはさすがに聞かせた。国民主権原理を貫徹する方向に徹底せよという改憲論。しかし、9条改憲には賛成ではないと明言した。全体としてみれば、これがバランスがとれているのだろうか。

 

この調査会がエキサイトすることはほとんどないそうだ。ところが、私がNHK番組改変問題に言及したら、複数の自民党議員からかなりいらついたヤジが飛んだ。「事実関係が違うぞ」「事実にしたがって発言しろ」などと言う。この問題には、相当に神経を尖らせているのだということがよく分かる。

 

私の発言は、憲法理念と現実との齟齬を例示したもの。

靖国公式参拝、「日の丸・君が代」強制、ジェンダーフリー攻撃、ビラ入れ弾圧の次ぎに、「憲法では検閲が禁止されているのに、公共放送の幹部が与党の議員に事前に番組の内容を報告し、その議員の意向に添う形で番組の改変が行われたという醜悪な事実も明らかとなりました」というもの。これが、ずいぶんとお気に召さないご様子。私の論旨は、「本来あってはならない遅れた現実を批判する鋭利な道具として、憲法はさらに研ぎ澄まされることが必要だと思います。今必要なのは、憲法を改正することではなく、憲法をより良く使いこなし、憲法の掲げる理念を実現することなのだと思います。今、声高に憲法改正の必要を唱えている人の多くは、憲法によって批判されるべき側の人々ように思えます」と続く。

 

共産・社民の議員が少数ながら護憲の立場で頑張っている姿にも感じ入る。ウーン、数が欲しい。

 

夜は、「市民集会 NHK番組への政治家介入と報道・表現の自由を考える」

感度のよい市民100人を超す参加者。その熱気が凄かった。パネルディスカッションは、服部孝章・斎藤貴男、そして中山武敏・杉浦ひとみの両弁護士。

 

次の会場発言が印象に残った。

「私は労働運動を通じて、知識人が民主主義の最後の砦だと思っている。日本の知識人は、ジャーナリズム・教育界・法曹の各分野にいる。ここが攻撃されダメになったら、日本の民主主義はお終いではないか。最後に、弾圧の対象となるところだ。私が運動の現役だったころには、労働者が集会を組織し、メディアや学者や弁護士に応援に駆けつけてもらった。今や、弁護士が集会を主催して労働者・市民は招かれる側になってしまった。知識人には頑張っていただきたいが、そこにも攻撃がなされている時代なのだ」

 

この発言を、あながち誇張とは言い難い雰囲気の時代となっていることを感じる。 

 

 

(2)

20050220日(日)

 

参議院憲法調査会での公述原稿  

 

※私は、弁護士として30年余の職業生活を送ってまいりました。その実務の経験を通して、現行日本国憲法は擁護すべきであり、改憲には強く反対という見解をもっています。本日は、その立場から、意見を申し上げます。

 私は、現行憲法を、人類の叡智の結実と高く評価しています。

 もっとも、日本国憲法をこのうえない理想の憲法と考えているわけではありません。個人的に希望を述べれば際限はなく、細部にいくつかの不満を持ってはいます。国民一人ひとりが異なる国家観・社会観・人生観を持っている以上、国民の数だけ理想の憲法があり得ます。万人が完全に満足とはなり得ません。もともと、憲法というものは、国の骨格を定めるもので、肉付けは日々不断の努力を積み重ねていくことになります。私が、現行憲法に不満に思う諸点は、肉付けの問題として十分にカバーできる範囲のものと考えています。

 むしろ、憲法の細部にこだわり、枝や葉に対する不満を是正しようとすることが、根や幹の部分の改正論議を後押しすることになりはしまいかと、危惧せざるを得ません。

 現実的に考えれば、一国の実定憲法として、これだけの内容を持った憲法があることはまことにすばらしいことだと思います。この優れた憲法を軽々に変えてはならない、そう考えています。

※現行憲法を優れていると考える根拠は、何よりも遅れた現実を批判する道具として極めて有効だからです。

 憲法は規範ですから、常に現実とは距離があります。現実の先にあって現実を批判し、現実が進むべき方向を指し示すことがその役割です。そのような規範として現行憲法はまことに優れものだと考えます。

 かつて私は、ある地方銀行の女性行員に対する賃金差別裁判を担当したことがあります。この裁判で、銀行側は、「男性が主たる家計の維持者であることは現実であり、社会通念でもある。だから、家族手当や世帯手当は男性には支給するが女性には必ずしも支給の必要はない」と言い切りました。確かに、このような現実や社会通念があるのかも知れません。しかし、その遅れた現実を批判する、あるべき基準として憲法14条があります。一審・二審とも、女性行員が勝訴を得ました。そして、銀行の賃金規定も変わりました。まさしく、憲法が現実批判の道具として働き、現実をリードした分かり易い事例です。このとき、私は憲法の役割を明瞭に認識しました。

※当然のことですが、人権も、平和も、民主主義も、憲法に書き込んであるからと言って、既に実現されているものではありません。理念と現実とは別物。実は、国民一人ひとりが憲法に明記された理念の実現に努力していくこと、言い換えれば現実を理念に近づけることが要請されています。そのような国民の行動や運動がともなって、初めて憲法は意味のある存在となります。

 理念と現実との齟齬は至るところにあります。

 政教分離という確固たる憲法上の原則がありながら、首相や都知事による靖国神社への公式参拝は毎年反省なく続けられています。

 憲法19条には思想・良心の自由が明記されているにもかかわらず、教育現場では「日の丸・君が代」の強制がまかりとおっています。

 憲法には両性の平等が謳われていますが、職場で家庭で教育の場で平等は実現されていません。むしろ、ジェンダーフリーという思想が攻撃されている実態があります。

 政治的表現の自由はもっとも尊重されるべきであるにもかかわらず、イラク派兵反対のビラ入れが住居侵入ということで逮捕され、勾留され、起訴にまで至っています。マンションで政党のビラを撒いたことがまた同様に弾圧されています。

 憲法では検閲が禁止されているのに、公共放送の幹部が与党の議員に事前に番組の内容を報告し、その議員の意向に添う形で番組の改変が行われたという醜悪な事実も明らかとなりました。

 これらの本来あってはならない、遅れた現実を、批判する鋭利な道具として、憲法はさらに研ぎ澄まされることが必要だと思います。今必要なのは、憲法を改正することではなく、憲法をより良く使いこなし、憲法の掲げる理念を実現することなのだと思います。

 今、声高に憲法改正の必要を唱えている人の多くは、憲法によって批判されるべき側の人々ように思えます。

※「憲法の理念が現実を批判する道具として正常に作用しているか」という観点から、特に平和の問題について申し上げたいと思います。

 現在の日本は、アジア・太平洋戦争における敗戦から再生しました。日本国憲法は、大日本帝国憲法が戦争を起こしたことの失敗をリアルに認識し、これを真摯に反省するところから生まれました。

 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることがないやうにすることを決意し」て、恒久平和主義が憲法に明記されたのです。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」というのが憲法9条2項。これが、改憲問題の焦点であることは、共通の認識であろうと思います。

 恒久平和主義は、この地上から戦争をなくそうと努力を傾注してきた、国際社会の良心と叡智との終局の到達点にほかなりません。

 ヨーロッパ社会に国際法ができて以来、聖戦論から無差別戦争観の時代を経て、侵略戦争違法論、戦争手段の違法化という大きな潮流が形成されてきます。

 第一次大戦後の国際連盟憲章、そして不戦条約の締結、さらに第二次大戦という戦争の惨禍を各国が経験した後に国際連合ができます。国連憲章は原則として戦争を違法化しましたが、例外を設けています。一つは締結国が武力攻撃を他国から受けた場合に、安保理が有効な手立てをするまで間に合わない期間はやむを得ないものとして自衛権の行使を認めます。もう一つは国際連合が主導して制裁措置をする戦争。国際連合憲章は戦争を完全に否定せず、武力による平和という観念を、例外としてではあるがまだ残しています。そのあとに日本国憲法ができて、恒久平和主義を取り入れた。

 国連憲章と日本国憲法成立の間に何があったか。ご存知の通り、広島・長崎の悲劇です。核の恐ろしさを人類が知って日本国憲法ができました。

 夢想された憲法ではなく、実際に第76帝国議会の議を経て帝国憲法の改正として日本国憲法が成立し、9条も採択されました。

 私は、人類の叡智が一国の憲法に盛り込まれたものと考えます。人類史上の偉業と言ってもよい。これまで、人類は憎悪と報復の悪循環の中で戦争を起こしてきました。相手が軍備を増強するからには、こちらも軍備を拡大しなければならない。こちらは「備えあれば憂いなし」「自国の軍備は防衛のため」と思っていても、隣国はそのようにはとらない。「あちらの国の軍備は、こちらへの攻撃のためではないか」「こちらも自衛のための軍備を拡充しなければならない」となります。

 お互いに、「自分の国の軍隊は良い軍隊、よその国は悪い軍隊。よその国は攻めてくる可能性がある。だからそれをうちの良い軍隊で防衛する」という、こういう発想から抜けられないのです。お互い相手国にまさる軍備を持たないと安心できない。この悪循環を断ち切るためには、軍備を持たないということが一番。憲法9条は、これを宣言しました。これまで、日本は少なくとも専守防衛の姿勢をアピールして、軍備は抑制する方向に舵を切ってきました。

 この偉大な人類の叡智を投げ捨てて、普通の国にもどってしてしまおうということは、まことに残念な人類史に対する裏切り行為だと思います。

※私は、憲法ができて半世紀を経た今、「理念としての恒久平和主義が妥当しない国際社会になったか、そのように国際社会は無法化してきたか」と自問してみて、けっしてそうではないと考えるものです。

 むしろ、武力による平和の試みのの失敗、あるいはその無力が露わになってきていると考えざるを得ません。パレスチナの悲惨、ベトナム戦争やイラク戦争における大国の介入の失敗を見れば明らかではないでしょうか。

※憲法の理念と現実とは、緊張関係にあります。理念を変えることは、当然に現実をも変えることになります。

「これまでも、9条2項の下で自衛隊が生まれ育ってきた。9条2項を削除したところで、現実は変わらない」という意見もあるようです。私は、これは楽観に過ぎると思います。

 1999年の145国会は、「憲法受難国会」というべきものでした。ここで、国旗国歌法が成立しました。よく知られているとおり、国旗国歌法は定義法でわずか2箇条。国旗国歌に対する国民の尊重義務は規定されていません。元東大学長だった文部大臣を初めとして、政府答弁では繰りかえし、「この法律によって国旗国歌が強制されることはない」「これまでとまったく変わることはない」と言われました。

 しかし、現実はどうなったでしょう。その翌年、2000年の春から、教育現場はガラリと変わりました。各地の教育委員会が卒入学式での国旗国歌の強制に乗り出し、ついには大量処分、そして法廷闘争にまで発展しています。今「日の丸・君が代」強制を憲法違反として提訴している教職員は400人に近いのです。ついには園遊会で、天皇に「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」と話しかけた教育委員まで現れたのです。

 いま、「9条2項あってなお」の自衛隊の存在です。9条2項の歯止めを失えば、装備、人員、予算、作戦、いずれの面でも軍事が大手を振るうことになることは自明ではありませんか。

※憲法9条あればこそ、集団的自衛権はまだ否定されています。海外での武力行使はまだまだできません。できることは、せいぜいが武力行使とは一体とならない後方支援活動の範囲。国連軍にも参加はできません。これまで、自衛隊員が戦闘で人を殺したり殺されたことはありません。日本が紛争の火種となる事態もありません。これは憲法9条の理念が今まだ、現実を批判しリードする機能を持っている証拠だと考えます。

 憲法典という法律があるからというだけではなく、国民の平和意識・国民の平和運動と結びついて今これだけのことができている。

 仮に9条が改正されるようなことになったら、つまりは理念を現実側に押し戻せば、現実はさらにおかしなことになってしまう。この憲法9条、特に2項は守らなければならないと考えています。

※また、アジアの近隣諸国民にはかつての皇軍復活の悪夢と映ることになるでしょう。

 「憲法9条は、アジア・太平洋戦争における被侵略諸国民への国際公約だ」と言われます。まことに、そのとおりだと思います。ドイツと違って、戦後責任の清算をきちんとしてこなかった日本が9条改憲を行うということは、日本が憲法制定時の初心を忘れ、戦前と同じ間違いを繰り返すことになりはしないかと、諸国民に疑念をいだかせることになるでしょう。結局、アジアに軍事的緊張をもたらすことになります。けっして、得策ではありません。

※なお、国際貢献を根拠とする9条改憲論があります。「他国から攻められたらどうする。そのときのための軍隊は必要ではないか」という議論は、今は下火です。日本は大国なのだから、相応の国際貢献をしなければならない。そのために、海外に出て行く軍隊が必要だというのです。平和を乱す「ならず者」がこの世の中にいて、ならず者に制裁を加える為に軍備が必要だというのです。私には、何の説得力も感じられません。

 内政不干渉は、国際法の大原則です。憲法9条を持つ日本が、海外で武力を行使しなければならない謂われはまったくありません。また、武力によらない国際貢献の方法は、いくらでもあるではありませんか。

 とりわけ、国際紛争の根源は貧困、差別、そして情報や教育の不足です。これらの根本問題解決のために、日本が人も金も出すことは、現行憲法が推奨しているところだと思います。改憲までして、他国に派兵する必要はありえません。

※既に今、軍隊の存在は既成事実化し、装備の高度化が進行しています。復興支援活動名目での海外派兵までが現実となり、武器輸出三原則の見直しや、集団的自衛権行使の必要が語られています。

 また、政府を批判する言論は、些細なことでも刑事罰の対象となる現実があります。再び、国策批判の言論を封じ込めて、国の支配による教育を強行することによって、軍備や戦争に慣らされた国民が作られようとしています。

 このような事態での憲法「改正」は、日本を「歴史的な失敗の道」に本格的に踏み込ませるものにほかならず、どうしても反対せざるを得ません。