公立大学という病:横浜市大時代最後の経験 「追記」

 

http://yosisemi-ku.ec.kagawa-u.ac.jp/~labornet/MyDoc/ycu2004.html より

http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/050216yoshida-yamai.htm 参照

 

 

・・・もう一度書く。横浜市大の「改革」は、市長の号令よろしく、小役人たちがアカデミシャン苛めにいそしむ究極の形でのアカデミック・ハラスメントである。地方役人が、大学人から研究の自由を奪い、彼らの雇用をもて遊んでいる。都立大も横浜市大も構造は同じであり、それが地方の公立大学にも広まっている。まさにこれこそ公立大学の悲劇であり、病である。

現在、横浜市大では、教員から任期付きの同意をとろうと、小役人たちが手練手管をつかっているらしい。「任期付きに同意しないものは、新法人の方針に異を唱えるものだから、それ相応の覚悟をしておけ」というようなことが言われているとも聞いた。市大で呻吟に喘いでいる先生方、絶対に脅しに屈伏しないで欲しい。現在の日本において「期限の定めのない」雇用ほど、解雇のしにくい雇用形態はないからだ。敵前逃亡をした私にそれを言う資格はないが。。。(05/02/25)・・・

 

 

この文書が大っぴらになって、いろいろな人が読みにくるようになった。ログを取っているのでよくわかる。敵方の関係者も随分と覗いているようで、ここに書かれていることは「嘘」であることにしたい人がいるらしい。
 また私に裏切られたと思っている関係者もいるであろう。人事や市労連の連中とも愛想よく笑顔で接し、「楽しく」酒を酌みかわしたこともあるからだ。しかし、その笑顔は奴隷の笑顔であり、彼らと人間的な関係にあったからでは決してない。その時、付きあっていただいた方はくれぐれも誤解しないで欲しい。あなた方から情報を取るのが私の仕事であって、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。これ以外に、凌辱されている者が凌辱している連中に対して、どんな意味で笑顔を見せることができようか。
 先日ここに書かれていることは「自己満足的な性格を多分に帯びたもの」だと書いたが、それは凌辱された者の感情が随分と移入されているという意味である。ここに書かれていることは私の経験した事実である。嘘は交じえていない。実際に起ったことと、それに基づく自分の判断を記しているのであり、当時の親しい人には既に話してきたことでもある。ここに書いてあることが嘘だと言うのであれば、姑息なことなどはせずに、きちんと私に抗議すべきであろう。私は連絡先も公開している。間違いがあれば訂正するのは吝かではないし、実際に訂正している。
 もう一度書く。横浜市大の「改革」は、市長の号令よろしく、小役人たちがアカデミシャン苛めにいそしむ究極の形でのアカデミック・ハラスメントである。地方役人が、大学人から研究の自由を奪い、彼らの雇用をもて遊んでいる。都立大も横浜市大も構造は同じであり、それが地方の公立大学にも広まっている。まさにこれこそ公立大学の悲劇であり、病である。
 現在、横浜市大では、教員から任期付きの同意をとろうと、小役人たちが手練手管をつかっているらしい。「任期付きに同意しないものは、新法人の方針に異を唱えるものだから、それ相応の覚悟をしておけ」というようなことが言われているとも聞いた。市大で呻吟に喘いでいる先生方、絶対に脅しに屈伏しないで欲しい。現在の日本において「期限の定めのない」雇用ほど、解雇のしにくい雇用形態はないからだ。敵前逃亡をした私にそれを言う資格はないが。。。(05/02/25)

 

 これまでこの文書は余り大っぴらにせずにきたのだが、「全国国公私立大学の事件情報」という有名ブログに取りあげられためアクセスが急増している。伊豆利彦横浜市大名誉教授の掲示板と佐藤真彦横浜市大教授のホームページを経由して伝播したようだ。影響力のあるサイトの威力を今さらながらに思い知らされた気がする。
 さて、多くの人の目にとまるようになり、困ったことがある。この文章はグロテスクなまでに感情を吐露した文章であり、随分と下品な表現で書いている部分も多い。大勢の人に読んでもらうために書いたというよりは、多分に自分の精神的なリハビリをかねて書いたものだからだ。市大の「改革」とは私にとっては悪夢以外の何ものでもなく、市政によるアカデミック・ハラスメントであった。随分と精神的に痛めつけられ、今の大学に転任してからも、すぐには立ち直ることができなかった。あまりにも置かれている状況の違いにとまどい、気持ちの上でなかなか新任地に適応できない日々が続いた。そのため書くことによって気持ちを紛らわしていたのである。
 そんなグロい文書を読んでも共感してくれる人は少ないだろうし、また関係者に迷惑が及ぶかもしれない。こんな理由もあって大っぴらにはせずにきたのだ。とはいえ、既に多くの人の目に触れてしまった。表現上直すところは直し、手を入れなければならないのだが、そんな時間的余裕も気力も今はない。だから、これから読まれる方は、この文章が自己満足的な性格を多分に帯びたものだということを念頭に置いて読んでもらえればと思う。(05/02/18)