「教育基本法改悪の流れに飲み込まれないために」集会挨拶 澤藤統一郎の事務局長日記 (2005.4.16)

 

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2005年04月16日(土)

「教育基本法改悪の流れに飲み込まれないために」集会挨拶  

これまで当然のことと考えてきたことが揺らいでいます。地動説を当然と考えていたのに、ふたたび天動説が正しいと言い張られての戸惑い。戦前の天皇制国家の教育は、君のため国のため、滅私奉公する臣民を育てることを目標としました。そのために、徹底して教育を管理し統制しました。その結果が、軍国主義であり、排外主義であり、人権の抑圧であり、侵略戦争による加害と被害のこのうえない悲劇でした。戦後の教育は、その深刻な反省から出発しました。

新生日本が到達した結論は、教育は国家のために行われるのではない、ということ。国家以前に国民一人ひとりが最も尊重されるべき大切なものとして存在する。国民一人ひとりの自由な意思で、どんな国家を作るかが決められる。国家が好ましい国民を作るのではなく、自由な国民が国家の形を作るのだ。だから、国家は自分に都合のよい国民を作ろうとして教育の内容に介入してはならない。これを大原則とし、教育基本法に明記しました。教育とは、生徒一人ひとりの人格の完成を目指して、個性を花開かせ、主権者として自主的に考え判断をする能力を引き出すこと。それ以外にありません。

これが、天動説の誤りの上に打ち立てられた地動説なのです。権力者・為政者は、得てして教育に介入したがる。しかし、それは断じて許されない。国家がなすべきは教育条件の整備にとどまるのであって、けっしてそれを踏みこえて教育の内容に立ち入ってはならない。これが地動説の核心部分であり、公理ですらあります。

ですから、学校現場で国旗国歌が強制されることなどあってはならないことなのです。ましてや、「日の丸・君が代」は天皇制政府の侵略主義とあまりに深く結びつき過ぎています。ハーケンクロイツが戦後ドイツの国旗として考えられないのとまったく同じことなのです。教育の本質からも、思想良心の自由の観点からも、処分の恫喝をもってする起立・斉唱の強制は違憲違法と考えるほかありません。

ことは、国家と個人の関係をめぐるそれぞれの価値観の根幹に関わるテーマです。このような問題について職務命令による強制など本来あってはなりません。石原教育行政が敢えてこれをする狙いは、権力が教育を管理統制し、ふたたび国家に好都合な人格を作り上げようという策動としか考えられません。国旗国歌強制は、権力に従順な物言わぬ教師をつくるためのもの。物言わぬ教師は、物言わぬ生徒を作ることになります。いわば、学校をロボットがロボットを作る工場にしてしまうこと、これがが為政者の狙いと考えざるをえません。

それは、ふたたび「国家のための教育」という天動説を持ち出すこと。納得できるはずがありません。真理は多数決でも変えられないのです。「それでも地球は動いている」とそっとつぶやくのではなく、愚かな間違いの指摘を大きな声で叫ぼうではありませんか。
「真理は我が方にある。『日の丸・君が代』強制反対。国家のための教育復活は許さない。学校に自由を」と。