『溝口流「君が代」挽歌論の論理構造』 矢吹 晋(横浜市立大学名誉教授、21世紀中国総研ディレクター)

 

21世紀中国総研 http://www.21ccs.jp/

21世紀中国総研の課題

http://www.21ccs.jp/CRIJP/souken_kadai.pdf より

 

 

・・・いかなる民族も慶弔は峻別してきた。そのような醇風美俗をもつ日本において、為政者の無知蒙昧により、祝賀の日に葬送の歌を歌うことを強制するのは、はなはだ奇怪な光景ではないか。もし溝口教授の新説のように「君が代」が挽歌ならば、慶事と弔事を取り違えた悲喜劇に、これからますます振り回されることになる。

 

 

溝口貞彦教授の「君が代」新論を紹介したい。同教授は1938年生まれ、私と同年だが、「一年の長」がある。秀才溝口は現役合格なので、一浪の私よりも一学年上であった。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得。1989年二松学舎大学教授、現在にいたる。著書『中国の教育』ほか。囲碁がめっぽう強いことを除けば万事に控え目な男であり、ほとんど目立たない。大学でも教職課程の担当であるから、やはり目立つ存在ではない。しかし『和漢詩歌源流考…詩歌の起源をたずねて』(八千代出版、20043月、以下源流考』と略す)を読むと独創的な学説はこういう人物が考え出すことかよく分かる。

1990年代初頭、冷戦体制が崩壊した。これは東アジア世界にとって冷戦構造に束縛されない新たな平和を構築するうえで大きな条件を整えたものであった。しかし歴史の大きな転換期には往々幕間の道化役者が飛び出してくるのもご愛敬だ。国際環境の激変に対応できない東アジア世界の小さな指導者たちは、狭い愛国主義でみずからの動揺を武装しようとした。この政治家の小児病があたかもドミノ現象のように連鎖反応を起こした。北朝鮮による核の威嚇、台湾指導者による独立パフォーマンス、これを恫喝する中国大陸の指導者によるミサイル演習、わが指導者たちは38度線および台湾海峡の擬似緊張」を奇貨として日米安保ガイドライン作りに狂奔した。

東アジア世界の一連のナショナリズム悪循環はいまも拡大中だ。内外の一連のナショナリズムの作用・反作用に刺激されて、日本ではついに1999年「国旗及び国歌に関する法律」が定められた。これが教育現場で紛争を引き起こし続けてきたことは、われわれの記憶に新しい(たとえば中野[亀井]利子『君が代通信』筑摩書房、1978)

国際情勢の強い圧力のもとにあった明治時代においても、「君が代」が国歌として規定されるまでには至らなかった。平成の今日、これを法律により国民に強制したことは、内外にさまざまな紛争をもたらしている。このとき、「君が代」の歌詞そのものに体当たりして、これは「祝い歌、言祝ぎの歌」ではなく、「死者を悼む挽歌」であり、枢を挽く者が歌う「哀傷の歌」である.ことを論証した論文が登場したのは、まことに時宜を得たものと評すべきであろう。

いかなる民族も慶弔は峻別してきた。そのような醇風美俗をもつ日本において、為政者の無知蒙昧により、祝賀の日に葬送の歌を歌うことを強制するのは、はなはだ奇怪な光景ではないか。もし溝口教授の新説のように「君が代」が挽歌ならば、慶事と弔事を取り違えた悲喜劇に、これからますます振り回されることになる。

では、溝口流「君が代」挽歌説とはなにか。溝口教授はまず中学生の疑問から出発する。「君が代」には、「さざれ石の巌となりて」という一句があるが、これはどんな意味であろうか。「岩が崩れて小石になる」というのなら教科書で教えているし、自然の観察からも理解できることだ。しかし「君が代」によれば、「さざれ石」が「巌」になるという。これは話があべこべではないのか。「さざれ石が巌になる」ことは、果たしてありうるのか(『源流考』1ぺ一ジ)

君が代」の「元歌」は、「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(『古今集』巻7「読み人しらず」)である。その後、「我君」の箇所が「君が代」と変えて『和漢朗詠集』(藤原公任撰)に採録された。こうして「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」の和歌が生まれ、「君が代」の名で広く知られるようになった。

ここで溝口は、山田孝雄、金子元臣、窪田空穂、小島憲之、竹岡正夫など国文学の大家諸氏の解釈がすべて「小石がだんだん大きくなって、大きな石になる」と解くものにすぎない、この小石成長論はコジツケではないかと大家諸公の高説を一蹴する。

そして『古今集』の「仮名序」から「浜のまさごの数おほくつもりぬれば」を、「真名序」から「砂長ジテ巌トナル」の一句に注目し、「砂が堆積し集積して巌となる」のではないかと意味を考える。紀貫之が個々の秀歌を「さざれ石」にたとえ、それらを数多く集めた『古今和歌集』こそが「巌」だと説いている事実に着目する。

溝口は次に『梁塵秘抄』(後白河天皇撰)の冒頭の歌、「そよ、君が代は千代に一度のゐる塵の白雲かかる山となるまで」を引いて、「千年に一度の塵が積もって、白雲のかかる高山となるまで」の意であるとし、「塵も積もれば山となる」の原型だとする。同じ『梁塵秘抄』の「砂の真砂の半天の巌とならむ世まで君はおはしませ」も類歌であり、「微小なものを多数集め、積み重ねて、巨大なものをつくる」思想にほかならないと説く。

要するに国文学者たちの説いている「小石成長論」は、「小石が巌に成長する」というもので、自然科学の常識から見てありえないコジツケだ。これに対して溝口「堆積論」は、「塵も積もれば山となる」、すなわち「小から大が形成される」という思想であり、自然現象を説いたものではない。平安時代の日本人が学びとった哲学なのだ、とその思想的背景を考察する。

これで最初の疑問に対する解答は、いちおう用意されたわけだが、挙証は周到でなければならない。溝口は傍証固めに努める。まず折口信夫の説いた「石成長の信仰」に触れて、千鳥ヶ淵の戦没者霊園のさざれ石が岩になった「実例」なるものは、凝塊岩であり、「集積論の例証」にはなりうるとしても、一つの小石が成長して一つの巌となる「成長論の例証」にはならないことを確認する。柳田国男も「石成長の民話」を紹介しているが、これは後世の作のようだ。つまり民話や信仰から「君が代」の歌詞が生まれたのではなく、「君が代」の歌詞が広まり、その結果として、歌詞に合わせて民話ができたのではないか。「君が代」以前の古代において、石成長の信仰が存在した事例はいまだ見当たらない。これが溝口の成長論批判のもう一つの核心である。

溝口の傍証はさらに続く。それは「さざれ石の巌となりて」と考える思想が『古今集』において初めて現れたのはなぜか、である。それは外来思想なのだ。それまでは日本に存在しなかったとすれば、記録に残るはずはない。

溝口は再度『古今集』序の一節に着目する。「遠き処も出で立つ足もとよりはじまりて年月をわたり、高き山も麓の塵泥よりなりて、雨雲たなびくまで生ひのぼれる如くに、この歌もかくの如くなるべし」の箇所である。これは白楽天が座右の銘とした次の詩に基づく。

「千里始足下、高山起微塵、吾道亦如此、行之貴日新」(「白居易集箋校巻第39』上海古籍出版社)。現代日本で広く行われている二つの格言、すなわち「千里の道も一歩から」および「塵も積もれば山となる」は、ともに白楽天に由来する。このあたりまでは割合よく知られているかもしれない。だが、溝口の傍証は、ここからさらに突き進む。

「千里ハ足下ヨリ始マル」は、『老子』(守微第64)や『荘子』(雑篇則陽第25)、劉向『説苑』(建本第3)と継承され、ついに「土積成山」の四字成語になった。これが江戸時代の『実語教』や福沢諭吉『学間のススメ』に引き継がれたという。

他方、「微塵を積みて山となす」思想は、元来仏教思想であり、鳩摩羅什『大智度論』(405)以後よく引用されるようになり、「いろはカルタ」にも用いられた。この思想は『法華経』方便品にも現れ、これが『古今集』真名序に受け継がれたと溝口は読む。

こうして「さざれ石の巌となりて」という一句が、老子→説苑→大智度論→白楽天→仮名序とつらなる古代中国の「土を積む」思想と、法華経→真名序→仮名序とつらなる仏教の「微塵を積む」思想とが融合して成立した思想だと溝口は結論する。そしてこのような集積が時間とともにあり、年齢、年月を意味する「代」と重なって、「千代に八千代に」という時間が小石や巌という具体的な形で示された。これが溝口の考察した思想的背景である。

次いで溝口は、個々の語彙の含意を追求しつつ、「君が代」は挽歌だという驚くべき所説を導く。『万葉集』には、長寿・永生を祈る歌が少なくないが、天智天皇の皇后であった倭姫の次の歌が比較的初期のものに数えられる。「天の原ふりさけみれば、大君の御寿は長く天足らしたり」。これは大空を遠く振り仰ぐと、天皇の御寿命は悠久に、大空一杯に満ちているの意である。「君が代」に似た内容であり、高校の国語教師の証言によれば、大部分の生徒は長寿を祝う賀歌と理解した由だ。しかしこの歌は『万葉集』巻2の「挽歌」に収められている。天智天皇が危篤のとき、皇后か作られたとする題詞がついている(「天皇聖不予之時、太后奉御歌」。臨終という表現をはばかり、不予=危篤と表現している)

『万葉集』では前期、中期には挽歌が大きな比重を占めており、賀歌が登場するのは、万葉末期(=奈良時代中期以後)だ。溝口は現世における長寿を願う「賀歌の系列」と死後の来世における永生を祈る「挽歌の系列」と、二つの流れのあることに着目し、「君が代」はどちらの系列かを問う。

両者を識別するポイントの一つは、語彙群である。まず「さざれ石」(あるいは「ささら石」)とはなにか。ここで「ささ」は「さざ波」や「さざれ波」に同じだという。「ささ」とは、微風が野原を通りすぎるときの、サーサーという音の擬音語と解する。ここから葉をゆるがす音を「笹」というようになった。古代人は微風の通過とともに、神の通りすぎるのを感じた。神の連想から、「さざれ石」も「巌」も、ともに霊石とみなされ、神性を帯びる。これは死んだ親あるいは祖先の「化身」とみなされる。人が一人死ねば霊石が一つふえることになる。「さざれ石の巌となりて」とは、個々の霊石としての「さざれ石」が集積され、巌という「霊石の集合体」を形成することを意味している。「巌」は『万葉集』では「墓地」あるいは「墓所」を指す。巌の語は、死者を墳に葬ったのち、その入口を大きな岩でふさいだことにもとづく。岩戸ともいう。その「巌に苔生す」とはなにか。苔は「再生、転生の象徴」である。古いものを貴んだ古代においては、「苔」は好感をもって見られ、「苔むす」ことは尊いこととされた(『源流考』1415,1819,24ぺ一ジ)

死後の再生、転生を経て、しかるのち初めて「千代に八千代に」という「永生」がえられる。「君が代」=挽歌説は、まず語彙の側面から論証される。

ここで溝口は、「君が代」挽歌説を裏付ける、もう一つの証拠をあげる。それは「君が代」を本歌取りの観点から調べることだ。由来古歌は、それに先行する歌を本歌とし、その一部の語句をとり入れて作られるのがふつうだ。その本歌が賀歌ならば、本歌取りによって作られる歌も賀歌である。その本歌が挽歌ならば、それに基づいて作られる歌も挽歌である。では「君が代」の本歌は、どんな歌か。「君が代」が本歌として想定していたのは、『万葉集』巻2の挽歌の一つだ。「河辺宮人が、姫嶋の松原で、乙女の屍を見て悲嘆し作れる歌」であるとする。「妹が名は、千代に流れむ姫嶋の、子松が末に苔むすまでに」のうち、下線部分の語句がとり入れられたと説く。本歌の作者は「小松が成長して大木となり、さらに老樹となって、そこに苔むすサイクル」のうちに、現実には果たせなかった乙女の長寿・永生の姿を見ようとしている(『源流考』27ぺ一ジ)

以上の考察を経て、溝口はこう結論づける。「君が代」の歌詞の意味は、「千代に八千代に」という永世の願いを、死後の「常世」に託したものである。それは死者の霊に対する鎮魂の歌にほかならない」。ここまで来ると、貫之は「この歌を自分の都合のよいようにつまみ食いした」という批判を免れえない。貫之が「我君は」の歌を「賀歌」の部に含めたことは、「この歌の基本的性格を見誤ったもの」である。貫之はこの歌を「賀歌」ではなく、「挽歌ないしは哀傷歌」のうちに含めるべきであった(『源流考』30ぺ一ジ)。溝口の所説は、「君が代」に盛られた思想内容の分析、用いられた語彙の分析、そしてその本歌の性質を分析することを通じて、「君が代」が挽歌であることを完膚なきまでに論証している。あわせて、これを賀歌とする誤解は、貫之の「つまみ食い」に始まることを証明した形だ。

最後に溝口はこう補足する。「かつて明治3年薩摩藩は「天皇に対し奉る礼曲」を定めることになり、砲兵隊長(のち陸軍大臣)大山巌等に選曲を依頼した。大山は白分の名前「巌」がよみこまれている「君が代」を強く推したといわれる」。「「君か代」は学校教育を通じて広まったといえる。しかしそれが国歌として定められたわけではなかった」「明治15年制定のうごきが起こり(中略)、国民の間に広めるのは困難という批判が起って、作業は中止となった」。「もし「君が代」が挽歌のうちに含まれていたならば、薩摩の人たちは明治政府にすすめることはしなかったであろう」、「近年「君が代」を国歌として法制化する運動をした人たちは、それが挽歌の系列に属することを知っていただろうか」、「祝賀の儀式で一斉に挽歌を歌う国民は、祝宴の会場で弔辞を読む客と同じく、悲喜劇といわれなければならない(『源流考』3132,33ぺ一ジ)

溝口のコメントは秀逸だ。紀貫之が『万葉集』の挽歌から一句を断章取義して以来、すでに千年余が過ぎたとはいえ、「君が代」が依然として挽歌のニュアンスを色濃く宿し、賀歌のもつ華やかさを欠いたものである事実は覆いがたい。日本の国歌として認められるもの、日本国民のアイデンティティを確認して国民から親しまれる歌にはなりえない。百歩譲って、溝口の挽歌説には与しない人々の間でも、「君が代」を国歌とすることに違和感を抱かれる方は少なくないはずだ。

溝口の結論は、「君が代」に対して私の抱いてきた感性的な違和感を見事に裏付けてくれたように思う。『万葉集』以来の豊かな古典を誇る日本民族にとって、挽歌「君が代」を慶祝の式典で歌うのは、ふさわしくない。権力者が法律によって定めて、権力によって強制する限り、当分はこれは国歌として存在しつづけることになろうが、ひとたび『万葉集』の本歌に触れて、それが挽歌である事実を知った者には、もはや慶祝の場で違和感なしには歌えないはずだ。そのような違和感こそが日本民族本来のやまと心なのだ。日本民族のアイデンティティの源流をそこに求め、その後外来思想として仏教や中国思想を導入しつつ、豊かな文化を築いてきた民族の智慧の本流のなかで陶冶されたものこそをわれわれは尊重しなければならない。異端の断章取義を避けるのがよい。

森嶋通夫(入江昭)は、「これからの各国史は国内から見たものと外から見たものとが整合的であるようなものでなければならない(前掲)と指摘した。新たな日本史の構築においては、日本史を広く世界史の文脈に位置づけるとともに、日本民族が「和魂漢才」(ここで「漢」には印度経由の仏教を含む)から「和魂洋才」に至るまで、どれだけ多くの外来思想を心の糧として成長してきたかを冷静に分析し、総括しなければならない。そのような土壌を踏まえたナショナリズムのみが真の愛国主義であり、隣人たちも納得のゆくものであろう。隣国の人々の視線をあえて無視し、神経を逆撫でするようなナショナリズムは、ショービニズムであり、グローバル時代の今日、最も心して避けるべきものであろう。溝口の問題提起はそれを教えてくれたことで大きな意義がある。拍手を送りたい。

世には国文学者も漢文教師もゴマンといる。にもかかわらず、これまで溝口のような問題提起が行われなかった事実は何を意味するのか。それぞれが「国文学の世界」と「漢文教育の世界」に棲み分けており、「内政干渉」を避けてきたからではないのか。この結果、国文学が仏教思想や中国古典文学の影響を受けて発展してきた事実は自明であるにもかかわらず、両者の相互関係を分析する努力がタブー視されてきたのではないか。溝口教授は国文学の世界にも漢文学の世界にも通じているが、そこでメシを食ってはいない。むしろ教職課程の専門家として、「君が代」問題には悩まされてきた。ここに教授の問題意識がある。国文学と漢文の素養がありながら、それぞれの世界にとらわれていないこと。これが大胆な仮説を提起できた背景である、と私は考える。これは独創的な研究にとっての必要条件をよく教えていると思われる。

溝口教授の「君が代」考に立ち入り過ぎたかもしれない。実はこの論考は、教授にとっては副産物にすぎない。『和漢詩歌源流考』は、その標題が示すように、「和歌の発生」と「漢詩、五言詩の発生」を追求したものだ。五七五七七の和歌形式がどのようにして形成されたかを追求し、古代歌謡からの発展を「内因論」として説いたものである。同じ方法論を中国の漢詩・五言詩の発生に適用してえられたものが「五言詩発生の過程」論である。同じ方法論を駆使しながら、和歌の発生と中国五言詩の発生を同時に説いてみせた学識はなみなみならぬものだ。とはいえ、学識だけならば、それぞれの分野に専門家がゴマンといることは前に指摘した通りである。溝口教授の仮説が光るのは、日本文化の源流に迫り、中国文化の源流に肉薄しようとする、その問題意識の鋭さである。このような姿勢によってこそ、「ナショナルなもの」の根源に肉薄する可能性をもつと信じて、あえて紹介するゆえんである。真のナショナリズムは排外主義とは無縁であり、むしろ国際協調の精神と親和性をもつことも念のために指摘しておきたい。