たまらん (2005.4.24)

 

東京都立大学人文学部 初見基研究室ホームページ 

http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/~hatsumi/

http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/~hatsumi/tamaran.html より

 

たまらん  らん

 

フレーム表示
(すでに左右フレームが表示されている場合ダブってしまいます)

424日】
  一部確認しきれない部分がありますので、以下の記述に書き改めました。(23:20
 首大HPでは教員一覧が更新されています。(「http://www.tmu.ac.jp/faculty/」から見られます。)
 「教授」についてはそれはありませんが、肩書きに「助教授/准教授」及び「助手/准教授B・研究員」が混在しています。
 これが、雇用契約におけるいわゆる「旧制度/新制度」の違いを表わしているのかどうかは目下不明です。すなわち前者(「助教授」「助手」)はまだ選択判断を示していないため従来の都立大での地位がそのまま記されているのか、いわゆる「旧制度」――現在の給与水準のまま任期なし――を選択したのか、表からは判断できません。
 それに対して後者(「准教授」「准教授B・研究員」)がすでに雇用契約を済ませている、ないしは態度をはっきりさせている、ということだけは言えると思います。ただそれが「新制度」――つまり任期制・年俸制――を選択した者であるかどうかまでは判然としません。
 「旧制度」「新制度」のいずれにせよ、いま出されているものをそのまま受け容れてしまうことは影響があまりにおおきいため、教職員組合などからの呼びかけでも自分個人の目先の損得勘定で動かず全体のことを考慮した判断――すなわち当面保留――をしてほしい、といったことがかつて言われていたと記憶しますが、かなりの数の人々がすでになんらかの選択をしていることが判ります。
 首大「教授」の方々の動向も知りたいものです。

 なお私を含む首大非就任の都立大教員には選択の余地がなく「旧制度」ということになっています。都・理事会側は当初「旧制度」では今後昇給・昇格なし、と明言していましたが、教職員組合との交渉の結果その明文化は避けました。それでも基本方針に変更はないようです。21日の教授会の際に契約のための書類が教員に配布されましたが、私自身の雇用契約はまだ済んでいません。

 ちなみに416日付本欄で触れた《東京都立大助教授》を名乗られたお方は、《首都大学東京准教授》でもあることが上記HPで判ります。


【4月23日】
 4月17日付で、一部の非就任者に対して首大新大学院に誘いがかかっておりそれに応じた者がいるらしい、と記しましたが、首大都市教養学部のなかの「表象」を名乗る人々が最近立ち上げたHPを覗くと、どうやらこれが事実であったことが確認できます。
 〈人生それぞれ〉ですからその事実に対して何か述べる気はありませんが、もしも今後〈思想〉なるものを語ろうとするならば、いかなる理路をたどったのかを当該者は明らかにするべきでしょう。もちろん、当初からこれだけ異論が出されてきた以上は、最初から何も異を唱えず首大に就任した人々も同じです。(ひと言、かくなる経緯を辿ったにしても「首大」は自分が勤めるに値する大学である、と公言すれば良いだけです。)
 何やら得体の知れない〈戦略〉やら〈戦術〉の名のもとに訳の判らない動きが大手をふるうようになった点については南雲前学部長の功績ですが、これからもこれが踏襲されてゆくことになるのでしょうね。 
た ま ら ん

【4月21日】
 新体制下での初の教授会――と言っても、制度的には何の権限も持たない集まりに過ぎないのですが――が開催されました。都立大人文学部と首大とごっちゃまぜの、なんだかよくわからない構成。新執行部は、南雲前人文学部長の残していった負の遺産を会議の席上でしきりにぼやいてみせていましたが、こうしたずるずるべったりのやり方はまさにこれまでの延長上でしょう。それにも増して、首大教員たちはみな〈8月1日〉も何もなかったかのように、嬉しそうに新体制を迎えているようです。はじめから闘わなかった人々に〈敗北〉などもあるわけはありませんが。
 一方で、首大の教育体制はまだがたがたのようですし、いくつかの学部では都立大学B類の授業を極端に減らしてしまっていると聞きます。これに怒らない学生も、首大にいそいそと就任した教員たちの心性を受け継いでしまったのでしょうか。

【4月17日】
 都立大人文学部-首大執行部(?)の手で、人文学部内首大非就任者に対する切り崩しが行なわれているようです。6月に申請する新大学院を餌に非就任者の何人かに首大新大学院への参加を持ちかけ、すでにそれに食いついた者も出ている模様。
 そのような話の持ち込まれる気配すらない我が身の立場を、私は誇りにしたいと思います。
 
【4月16日】
 4月15日付朝日新聞夕刊に、某首大教員の対談が大きな顔写真とともに載っていましたが、肩書きは《東京都立大助教授》。まあ、そちらも兼ねているのですから嘘ではないわけですが、《首大》教員を名乗るのに何か差し障りでもあるのでしょうかね。そうだとしたらお気の毒。

【4月13日】
 「世界」誌5月号に執筆した拙稿「ある大学の死―都立大学教員はいかに敗れていったか」に対しては、すでに何人かの方からご意見をいただいています。大方論旨を支持していただけているもので、真っ向からの反対意見はまだ耳に入りません。
 そのなかでひとつ、拙稿では組織の責任者である総長らに対する評価が甘すぎるというご批判がありました。たしかに、〈全体〉のなかに動員されてゆく教員たちのことを主として問題とした分、総長や人文学部長らへの〈責任追及〉は緩くなっています。
 もちろん〈総懺悔〉によって、責任者を免罪できるわけではありません。たまたま、〈玉音放送〉ならぬ、総長と人文学部長が最後に残した言葉を眼にしましたので、若干の感想を述べておきます。

●茂木俊彦元総長による2005年3月25日卒業式式辞より(http://www.metro-u.ac.jp/hiroba/essay/050331/index.htm)


 意見を述べること、討議すること、一致点を見いだすこと、これらが無視されたり軽視されたりする経験が重なっていくと、人々は「もう何を言っても無駄だ、決めるのは自分ではなく、他の誰かが決めるのだ。結果が悲惨でも自分には責任がない」。このような心境になる危険性があるということです。さらに「今は何かを言う時期ではない。いずれ言うべき時、言える時がくる」。こんなことを口にするようにもなります。
 私に言わせると、これは思考停止、主体的判断、意見表明権の放棄です。それは、歴史上の幾多の事件、もっと言えば戦争の前夜にも人々の耳にささやかれた、いわば「悪魔の声」です。
 誤解しないようにお願いしたい。本学の教職員の圧倒的多数は、そのように考え、そのように行動したというのではありません。しかし、私を含む相当数のメンバーが、耳元のその「ささやき」を聞いたのではないか。聞いたけれども、それをはねのけて、それぞれの仕方で見解を表明し、行動し、さらには学生の学習権は最大限に守らなければならないという使命を自覚して、大学をつくる実務に携わってきたのであると、そう私は確信します。
 このような内心の状態、矛盾・葛藤、――それは何も今回のような事態においてだけ生きるのではありません。今後の社会・経済・政治・文化の、時に緩やかな、時に激しい変化の中で、一再ならず起こります。
[・・・]
 配給されている頭を使って考えてほしい。そして自分で判断すること、人々に語りかけ、面をあげて歩むこと、それがどれほどにできているかと自らに問うことを、卒業後にそれぞれが生きていく場で大切にしていただきたい。


 ほとんど注釈は不必要です。拙稿では教員の〈思考停止〉を指摘しましたが、はからずもその点で一致しているようです。そう言えばまだ8.1事件からそう間もない頃、学生を前に〈今は何かを言う時期ではない〉ともっともらしく教えを垂れている教師もいたということでした。(いまでは首大で陽の当たる場所を見いだしているようです。)
 《誤解しないようにお願いしたい》以下の一節は、総長という立場からしてこうでも言い抜けなくてはならなかった、というだけのことでしょう。

 お次は沈没船を誤導した末に我先に脱出しおおせた南雲元人文学部長のお出まし。
●南雲智「都立大の終焉と再生―最後の人文学部長として」(東京新聞2005年3月30日夕刊)より末尾部分


 [・・・]誰もがこれを敗北というに違いない。しかし、そうだろうか。激しい攻防の末に根を土中深く残し、生き続ける力を喪失させなかったからである。凄まじい嵐に耐え抜いてきた優れた教員たちがまだ残っているではないか。伝統としての進取の気性と革新的な学問風土、そして権力主義を嫌う精神を失わぬ限り、やがて新たな枝を、緑溢れる葉を色鮮やかな花を咲かせる時は必ず到来するはずである。そのときこそ都立大学が、人文学部がふたたび蘇るときにほかならない。


 いよっ、いろおとこ! と声がかかるくらいの名調子。空疎なことをのべるときには修辞を駆使する、という原則に忠実な文章ですね。
 たしかに首大教員の多くはどんな体制下でも《生き続ける力を喪失させな》い、それどころかどんな体制下にあっても巧妙に生き続ける力を持った方々なのではありましょう。とはいえ、《権力主義を嫌う精神を失わぬ限り》なる前提文は、接続法二式の非現実話法で書かれていなければなりません。ですから結論部も、南雲氏の願望に過ぎません。もちろん夢を語ることは勝手ですが、首大発足後のこの〈現実〉に生きている者としては、いい気なもんだといった感慨だけでは済まされない怒りを抱かざるをえません。