渡辺治教授、石原都政を斬る 澤藤統一郎の事務局長日記 (2005.4.25)

 

http://www.jdla.jp/jim-diary/jimu-d.html 

 

 

渡辺治教授、石原都政を斬る    

 

午後7時、一橋大学の研究室に渡辺治さんを訪ねる。「法と民主主義」の次号企画が「石原都政暴走の構図」(仮称)。その要をなす総論の部分を語ってもらうため。この人を措いて、適任者はない。学部長という立場で常にもまして多忙の折に、無理な日程を割いていただいた。昔々、彼も「法と民主主義」の編集に携わっていた時代がある。ご無理は、その縁のゆえでもある。

 

「法と民主主義」では、大きなテーマの節目に渡辺さんに登場していただいている。司法改革の位置づけ、憲法改正策動の構造、いずれもその後の論議のモデルとなった本質的な問題提起となっている。石原都政の位置づけについても、決定版となるもの。

 

論理明晰・言語明瞭の2時間に近いインタビュー。愚問に対しても賢答があり、短い質問に論点を押さえた流れるような論述。心地よいメロディを聴くがごとし。

正確に要約できるかは不安だが、大要以下のとおり。詳細は、「法と民主主義」掲載誌を熟読されたい。

 

石原慎太郎は、自民党政治が小国主義的路線をとり利益誘導型政治を行っていた時代には、一介のアナクロニズム政治家にすぎず、失意の内に政界を去った。ところが、自民党政治も日本の経済も行き詰まった1999年、彼の「昔の歌」が支配層の政策に適合する状況となり、ふたたび脚光を浴びることになった。

 

その状況とは、今日本の支配層が推し進めている軍事大国化と構造改革の路線。「強い日本」を標榜する石原のイデオロギーはこれに適合するものとなった。石原は強さに美を求めて弱者を差別し、対外的には排外思想を持っている。このイデオロギーは、かつては決定的なマイナスであったが、軍事大国化にも構造改革にも必要なファクターとなっている。

 

そして、保守イデオローグの中で、石原ほど、政治と経済の両面に発言しているものは少ない。また、中曽根でさえアジア太平洋戦争の加害責任を認めているのに、アジアを開放したと言ってはばからない徹底ぶりである。これが、石原を押し上げることになった。

 

これまでの自民党政治家は、地元の支持層との密接な関係を持っていた。そこには、「国内の南北格差」があり、大企業本位の政治を貫徹した場合にはたちまち疲弊する中小零細企業・自営業者・その労働者・農民の声を聞かざるを得ない。ところが、いま新自由主義的構造改革は、仮借のないその切り捨てを要求する。「悩む地元」を持たない、小泉のような三世政治家や、石原慎太郎ならではの構造改革推進論である。

 

軍事大国化と構造改革、これなくしては日本経済の再生はない、これが支配層のイデオロギーであり、大企業と都市富裕層には浸透している。構造改革で痛みを余儀なくされる非富裕層にも、「痛みを我慢すればやがて経済が活性化し、よい時代が来る」という幻想を与えている。これが308万票の支持者の正体。

 

石原なくとも、他の保守政治家が軍事大国化と構造改革を推進しただろう。しかし、石原はまことに乱暴にそのスピードを上げた。それは、石原流教育改革に顕著となっている。もともと、中教審が教育の格差化を国の方針としている。それを都政は極端に推し進め、高校の統廃合、エリート校作り、障害児教育の切り捨てなどを進めた。その障碍となるのが現場の教員の抵抗である。「日の丸・君が代」の強制と大量処分は、彼のナショナリズムの感覚によるものだけでなく、教員に対する統制強化策として仕組まれたものと見るべきだろう。統制によって実現が目指されているものは、一握りのエリート養成と、その他のノンエリートに選別した階層型選別教育の実現。

 

都市再生プロジェクトに典型的に表れている、大企業に奉仕する都政か。それとも福祉を重視する、都民本位の都政か。この選択が、いま問われている。「軍事大国化と構造改革なくして経済の再建はあり得ない」というのが支配層の論理だが、いま新自由主義先進国では、「人間生活を破壊しての経済の復活など無意味」と反省されているではないか。石原都政の危うさを総合的に見て、きちんと批判することが大切。それが都民だけではなく国民的な課題となつている。