05/1/4 躍動アジア、靖国カードの賞味期限は切れた 小泉首相の対中政策を占う 『世界週報』2005年新年合併号 by  矢吹 晋(横浜市立大学名誉教授・21世紀中国総研ディレクター) (2005.4.25) 

 

 

矢吹晋チャイナ・ウォッチ・ルーム http://www2.big.or.jp/~yabuki/ 

http://www11.big.or.jp/~syabuki/2005/ss050104.pdf より

 

 

・・・中国側における江沢民引退という事情、他方で小泉政権があと一年半続く展望のなかで、小泉が靖国問題での軌道修正を図ったのはなぜか。靖国カードの賞味期限が切れたからではないかと私は読む。竹下は「皆で靖国に参拝する会」の会長であった。橋本は遺族会会長であった。つまり竹下・橋本の系列こそが、いわば靖国派であり、党内少数派としての小泉はここで票が欲しかった。総裁選立侯補に際して参拝を公約したのは、党内派閥事情から出発していた。小泉はもともと熱心な参拝派ではなかった。しかし八六年に中曽根が断念し、九六年に橋本が断念した参拝を公約し、中曽根、橋本の腰砕けを超克するスタンドプレイを試みたとき、江沢民はひたすら対小泉高圧政策で応じた。その結果、小泉は靖国参拝を止められなくなったというのが真相ではないのか。しかし、いま、橋本派の凋落は誰の目にも明らかであり、また江沢民も消えた。とすれば、小泉にとって靖国カードにもはや意味はないはずだ。このように分析してみると、小泉の約束した「適切な処理」とは、参拝の中止という内容にならざるをえない。これが私の仮説である。

 

 

『世界週報』2005年新年合併号

躍動アジア、靖国カードの賞味期限は切れた

小泉首相の対中政策を占う

 

東京ではなく、北京でもなく、地球儀でみると、その裏側にあるチリ・サンティアゴでようやく小泉首相と胡錦濤国家主席との会談(日本時間一一月二二日)が行われたのは、日中関係の冷たさを象徴している。現状は「これ以上の悪化を防ぐ」ための努力が始まった段階であり、改善への道筋が見えてきたわけではない。小泉は胡錦濤に対して「今後、適切に対処していきたい」旨をじかに伝えた。では「適切な対処」の中身はなにか。参拝を止めることか。これが最も簡単なはず。時期を年末にずらすことか。そうすると丸二年近く間隔をとることになる。参拝はするが、「小泉私人」を強く打ち出し、いわゆる「公式参拝ではない」ことを強調するのか。これは大阪地裁一次(二月)、福岡地裁(四月)、千葉地裁(一一月)など、司法の場において相次いで公的参拝と認定されている状況を追い風に利用できる。

 

小泉首相の真意を勝手に憶測するのはつまらないが、あえて一つの仮説を考えてみたい。小泉はなぜ靖国にかくもこだわり、いまその態度を変えようとしているのか。手がかりは「時事世論調査」である。小泉内閣の支持率のピークは、成立してまもない○一年六月の78.4%であり、このとき不支持率はわずか6%であった。ちょうど一年後の○二年六月、支持率は34.4%44ポイント落ちた。不支持率は45.2%であり、不支持率が支持率を上回った。高い支持率が一年で半減するパターンは、かつての田中角栄内閣に酷似しており、「小泉内閣短命」説が政界で広く行われたことはいうまでもない。

 

実はこの「小泉内閣の危機」を救ったのは、意外にも隣国の江沢民主席であると読むのがここでの仮説である。支持率の急降下に直面して、小泉サイドが必死に解決策を模索したなかに、○二年秋の日中国交正常化三○周年記念行事への出席問題があった。小泉は江沢民宛てに親書を書いて、神崎訪中団に託した。意外や意外、江沢民は慣例を無視して(無礼にも)返書を書かなかった。なぜか。江沢民は小泉が盧溝橋抗日戦争記念館で献花をした(○一年一○月)あと、○二年四月二一日に重ねて靖国を参拝したことを、みずからへの挑戦であると受け止めたように見える。小泉内閣を懲らしめて短命に追い込む。ポスト小泉に期待する予断に基づいて、小泉親書をあえて無視したもの、と解するほかはない。

 

参拝中止を決断か

 

江沢民のこの高圧姿勢に接して、当惑した小泉が考えた窮余の一策が北朝鮮訪問であったように見える。結果はどうか。北京では橋本派を中心に百名を超える国会議員を含めた記念イベントが行われたが、小泉の電撃訪朝は、これをはるかに上回るパフォーマンス効果を演出できた。○二年十一月に支持率は55.9%に回復し、21.5ポイントを取り戻した。小泉の賭けは見事に成功した。「北京に招かれないこと」を奇貨として、「訪中によって示威する橋本派」の精彩を奪うことに成功したわけだ。同年一○月二八日メキシコAPEC会議で小泉・江沢民会談が短時間行われたが、江沢民は繰り返し小泉の靖国参拝を批判した。対する小泉は三度目の参拝(○三年一月一四日)で逆襲した。もはや靖国問題は江沢民と小泉にとってメンツのつぶし合いにも似た争点となった。○四年九月、中国共産党は一六期四

中全会を開いて江沢民軍事委員会主席の引退を決定し、名実ともに胡錦濤政権がスタートした。この機会を利用して胡錦濤は、小泉との会談に応じることによって江沢民との違いを示唆しつつ、靖国問題に対しては明確にクギを刺す。中国側は「(靖国の)妥善処理」を求めたと報道された。日本語に訳せば、「善処を求めた」といったニュアンスだが、小泉側は「適切な処理」を約束したことを確認した。

 

中国側における江沢民引退という事情、他方で小泉政権があと一年半続く展望のなかで、小泉が靖国問題での軌道修正を図ったのはなぜか。靖国カードの賞味期限が切れたからではないかと私は読む。竹下は「皆で靖国に参拝する会」の会長であった。橋本は遺族会会長であった。つまり竹下・橋本の系列こそが、いわば靖国派であり、党内少数派としての小泉はここで票が欲しかった。総裁選立侯補に際して参拝を公約したのは、党内派閥事情から出発していた。小泉はもともと熱心な参拝派ではなかった。しかし八六年に中曽根が断念し、九六年に橋本が断念した参拝を公約し、中曽根、橋本の腰砕けを超克するスタンドプレイを試みたとき、江沢民はひたすら対小泉高圧政策で応じた。その結果、小泉は靖国参拝を止められなくなったというのが真相ではないのか。しかし、いま、橋本派の凋落は誰の目にも明らかであり、また江沢民も消えた。とすれば、小泉にとって靖国カードにもはや意味はないはずだ。このように分析してみると、小泉の約束した「適切な処理」とは、参拝の中止という内容にならざるをえない。これが私の仮説である。