『昭和の日』法案に思う 伊豆利彦 日々通信 いまを生きる (2005.4.29)

 

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148号 2005年4月29日 『昭和の日』法案に思う

個人的事情で発行がおくれたことをお詫びします。

「昭和の日」法案が衆議院で可決され、今国会での成立が見込まれている。
昭和天皇の誕生日を記念し、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧みる」というのだそうである。

彼らは昭和をどうふりかえるのか。

私が生まれたのは1926年11月10日である。
生まれて一月半で大正天皇がなくなり、新天皇が即位した。
昭和元年というのは1週間もなかったわけだ。
生まれて間もない私はたちまち昭和2年を迎え、なにか一年パスしたような感じだ。
そして、1927年(昭和2年)は長い不況と金融恐慌の年であった。

この年の7月、芥川龍之介は金融恐慌の最中に自殺した。
自分を死に誘うのは<漠然たる不安>だと言ったのは有名だが、「河童」を読めば、芥川が不況、首切り、人身売買、そして戦争の暗い現実を見つめていたことがはっきりとわかる。

『或る阿呆の一生』には<四十 問答>として、「なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?」「資本主義の生んだ悪を見てゐるから。」「悪を? おれはお前は善悪の差を認めてゐないと思つてゐた。ではお前の生活は?」と記している。

芥川は<便宜的共産主義>ということを言い、自分はそれになってもいいのだと言っている。

『侏儒の言葉』の最終章は「民衆」で、そこには次のように記されている。

   民衆

 シェクスピイアも、ゲエテも、李太白(りたいはく)も、近松門左衛門も滅びるであろう。しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残している。わたしは大正十二年に「たとい玉は砕けても、瓦(かわら)は砕けない」と云うことを書いた。この確信は今日(こんにち)でも未だに少しも揺がずにいる。

   又

 打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和改元の第一日)

   又

 わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。 (同上)

   或夜の感想

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。 (昭和改元の第二日)

芥川は新時代の到来に期待を寄せていたいたように思われる。
しかし、それは芥川の文学を否定するような時代であると思われていたのではないか。
当時、もっとも戦闘的にたたかっていた共産党が福本イズムの強い影響のもとにあったことは不幸だった。
敵か味方かを峻別して、中間的なものを認めない当時の運動は芥川の文学を受容することができなかった。小市民的なものとして、 ひたすら、批判され、克服されなければならなかった。

大学は出たけれどといわれる時代である。
これまでの思想や文学の権威ががたがたと壊れていった時代である。
過去は否定され、新しい生き方が求められていた。
このはげしい時代に直面して、まじめに苦悩し、右にも行けず、左にも行けず立ちすくんで、ついに自殺した芥川のことが思われる。

『太陽のない街』に描かれた共同印刷の争議をはじめ、大きな争議が続発し、大規模な小作争議も各地におこっていた。
こうした中から中野重治や小林多喜二らがプロレタリア作家として出発していった。
一方、横光利一らは、追いつめられて出口のない現実と人間崩壊の様相を描き、ひたすら文学の牙城に閉じこもった。

国民政府が北伐を開始すると、田中内閣は1927年6月、在留邦人保護を名として山東省に出兵する。また、東方会議を開いて、中国侵略に日本の危機からの脱出の道を求める基本方針が定められた。

侵略戦争の道は国民に対する弾圧の道である。1928年の三・一五事件をはじめ、治安維持法による共産党の大弾圧がおこなわれた。

やがて、柳条湖事件をきっかけに満州事変に突入し、中国全土の戦争に拡大していった。

「昭和、昭和、昭和の子供よ、ぼくたちは」と歌って育った私たちは大変な時代に、生まれ、育ったのだった。

小学校のに入学したのは、1933年だった。
その年から国語の教科書が色刷りになり、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」にはじまる明るい色彩の教科書をよろこんだが、その年の2月には小林多喜二が殺され、日本の左翼は総崩れに崩れていったのだった。

滝川教授の自由主義的な刑法思想がやり玉に挙げられ、京大を免職になったのもこの年だった。
共産主義に対する弾圧は、民主主義、自由主義におよび、やがては戦争一色になっていく。
戦争に反対するものはすべて非国民であり、国賊であった。
こんな時代に、それが、どんな時代であるかも知らずに、私たちは育っていった。私たちのまわりにあるものは戦争ばかりであり、戦争を美化する声ばかりであった。

私たちは暗闇の中を、暗闇とも知らずに、それが、いかにもすばらしいものであるかのように思って生きてきた。
私の年齢で戦死したものは少ないが、私より何年か上の世代は、その多くが戦死した。

それが、私にとっての「昭和」である。
いま、その「昭和」をどう記念したらいいのだろうか。