04/11/30平和憲法は超近代の理想です 哲学者 梅原猛さん 昭和零年 1925年生まれの戦後60年 「東京新聞」 (2005.5.7)

 

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哲学者 梅原猛さん

 

平和憲法は超近代の理想です

 

うめはら・たけし 哲学者。京都大学哲学科卒。京都市立芸大学長を経て、1987年に国際日本文化研究センターの初代所長となり、現在は同顧問。1999年に文化勲章。

 「神も仏も捨てたのが、明治政府です」と、梅原猛さんは意外なことを言った。仏教を排斥した廃仏毀釈(きしゃく)の史実は教科書にも載っているが、神を捨てたというのはどういうことなのだろう。

 

 「縄文の昔から日本人は、自然が神様、山川草木すべてが神様だという多神論でした。仏教にもそういう思想があって、神と仏を合体させた宗教を民衆はずっと信仰してきました。神仏習合、それが日本の思想の中心ですよ。ところが、明治になって国家神道という一神教になったわけです」

 

 つまり明治から敗戦までの国家主義が、日本古来の思想を無視し、国家神道という新しい宗教を国民に強制したということだろう。教育勅語はその道具であったはずだ。

 

 その“一神教時代”に梅原さんは学生だった。名古屋の八高時代は、二年生の一学期までしか授業はなくて、軍需工場に勤労動員された。手先が不器用だったから、東邦商業の生徒たちと一緒にピストンをペーパーで磨く単純作業をした。

 

 一九四四年暮れ、名古屋が空襲を受けた。B29が狙い澄ましたように、梅原さんのいた工場に爆弾を落としていった。

 

 「百発百中だったな。たまたま僕は、入るべき防空壕(ぼうくうごう)にはおらず、友人とだべってた。もう敵機は来ないだろうと、その防空壕に戻ってみたら…。直撃弾で死んでいた東邦商業の生徒の青白い顔は忘れられへんな」

 

 八高では校舎が全焼して卒業式もなかった。赤紙が来たのは、何と京都大学の入学式直後だった。名古屋に戻り、野砲兵部隊に入隊した。内地防衛隊となり、兵庫県姫路などを経て、熊本県松橋町で終戦を迎えた。

 

 「職業軍人は悲しんだかっこうしたけど、一般の兵隊はみんな喜びましたよ。その後も僕は、死のイメージが強すぎて、人間の有限性、死への不安を説いた哲学者・ハイデガーの『存在と時間』を読みふけったな」

 

 梅原さんは国家主義が嫌いである。軍人の面子(めんつ)が、自国民や他国民を死への道連れにしたと考えている。確かに東京が丸焼けになる前に、特攻作戦をする前に、原爆が落ちる前に、日本が降伏していたら、数え切れない人々の命が助かったはずだ。

 

 “一神教時代”を支えたもの。そのもう一つが、靖国神社である。

 

 「日本の伝統では、恨みを持って死んだ人を怨霊(おんりょう)神として祀(まつ)りました。祟(たた)りを怖(おそ)れたからです。だから、本来は中国などアジアの犠牲者を祀らなければいけない。国家のために死んだ軍人や人々だけを祀る靖国神社は、古来の伝統に反しています」

 

 日本の平和憲法は、哲学者・カントの説く永久平和論に近いという。カントは防衛する軍隊は認めたが、侵略する軍隊には反対した。

 

 「世界政治の現実は国家の枠で動いてるんだろうが、平和憲法は生かさなければいけない。人類が求めている『超近代』という理想ですよ」

 

 梅原さんは道徳の必要性を訴えているけれど、かつての国家主義風の道徳論を吐く人々とは、まるで違っている。

 

 「仏教が説いているのは、平和や平等です。仏教に基づいた新しい哲学をあと十年で考えてみるつもりです」(文・桐山桂一)

 

20041130日)