アジアと日本の未来 日々通信 いまを生きる 第151号 (2005.5.16)

 

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151号 2005年5月16 アジアと日本の未来

小泉首相が民主党仙谷由人政調会長の質問に答えていた。

 

いまの日本の繁栄はあの戦争で惨禍を被り、二度と戦争をしない決意を固め、平和に徹してきたおかげだ。この観点からこの戦争の犠牲となった方々に敬意と感謝の心を表明するのは当然だ。靖国神社を首相として参拝することについて、外国からとやくいわれう筋合いはない。戦犯の方々についても、罪を憎んで人をにくまずということがある。これは孔子の言葉で、東洋の考え方だ。戦犯の方々が靖国に合祀されているからといって、これを参拝しない理由にはならない。

 

こんな意味のことを小泉首相はもっともらしく述べていた。

戦争の犠牲者の霊を慰める、戦争を憎むといいながら、その戦争をはじめ、多数の国民犠牲にした責任者を、同じく、戦争の犠牲者として拝礼するというのは、どう考えても許されることとは思えない。

 

小泉首相の詭弁を聞くのは実に不愉快だ。

頭が悪いのか、こずるいのか。聞いていると頭がおかしくなる。

こんな屁理屈が国際的に通用するとは思えない。

理屈はどうでもいい。他国がどう思おうと日本は日本の道を行くのだ。外国は日本の首相のすることにつべこべ言うなというのである。

これが、過去の戦争で多大の不幸を強いたことを深くお詫びするという首相の態度だ。

 

アメリカの抗議だったら、彼はこんな態度はとらないだろう。

中国や韓国、そしてアジアの国々に対する思い上がりがこんな傲慢な態度をとらせるのだ。

こんな首相しか日本にはいないのだとマスコミなどは言い囃している。

なんとも憂鬱な話である。

 

小泉首相の言葉を聞いていると、いつも私は赤シャツや狸をののしった<坊っちゃん>の言葉を思い出す。

 

<ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被ねこっかぶりの香具師(やし)の、モモンガーの、わんわん鳴けば犬も同然な奴>

 

小泉首相の靖国参拝はただそれだけが孤立している現象ではない。

教科書問題、日の丸・君が代の強要、憲法、教育基本法の改悪、「昭和の日」制定等、過去の日本を美化し、戦争責任を曖昧にし、戦争を肯定して、愛国心を強調し、戦争準備をすすめるさまざまな動向と関連して、それらの動きを象徴する行為である。

 

靖国神社は小泉首相の信念がどうあろうと、日本の兵士たちを死に向かって動員するためのものになった。

靖国で会おうという言葉が若者たちに交わされた。

特攻隊の兵士たちの死は靖国神社の光栄と名誉が強調されることで美化された。

日本が戦争を肯定する国になり、在日米軍の再編と日米軍隊の一体化がすすめられれば、台湾問題や朝鮮問題に関連して日本は出兵し、多数の戦死者を出すことになる。

その戦死者を名誉で飾るために、靖国神社が美化されなければならない。

靖国参拝と憲法と愛国心を強調する教育基本法の改悪は表裏不可分のものとして受け取られる。

受け取られるというのではない。事実、そうなのだ。

彼らはものごとをばらばらに切り離して、その意味を隠蔽するが、いま、それがにわかに同時的に出現していることが重要なのだ。

 

大岡昇平の「野火」に次々に野火があらわれるのを見て、ただ一つの野火はそれだけだが、連続してそれがあらわれるとき、それは意味を持つという意味のことを書いていた。

 

国連創立60年で、日本は常任理事国になろうとしてみっともない活動をつづけている。

小泉首相の好きな中国の古典にかかわって言えば、「三顧の礼」で迎えられて、はじめて常任理事国になるべきなのではないだろうか。

 

近隣諸国のはげしい反対に会いながらも支持者を集めてなんとかそれを実現しようとしている姿はなにか恥ずかしく、情けない気がする。

 

常任理事国になってなにをするつもりなのだろう。

どんなアジアの未来を描き、世界の構想を持っているのだろうか。

ただ、アメリカのあとについて行くというだけでは、中国や韓国だけでなく、世界の国々の支持を得られないのではないか・

 

そもそも、国連は第二次大戦の終結後、ふたたびあのような戦争がおこらないように、日独のような侵略国がふたたび力を持つことをゆるさず、諸国が力をあわせてこれを阻止ようというのが創立の精神だった。

 

日本の首相が東条らを祀る靖国神社に参拝して、その足で国連の常任理事国になろうとしても無理だと思う。

 

東条らをどう評価するか、この戦争をどう考えるかは、日本の勝手で、他国からあれこれいわれる筋合いではないと首相が本気で思っているとしたらとんでもない話だ。

 

隣の国を散々痛めつけた過去があるのに、その過去を肯定し、美化しながら、それは自分の勝手で、お前たちの口出しは許さないというのは、あまりに自分勝手な思い上がった、傲慢な態度であると思う。

 

問題なのは過去になにをしたかということより、その過去をどう考えるかということだ。

過去が肯定されるなら、同じことをまた、繰り返す危険がある。

「昭和の日」を制定し、戦争の時代をなつかしく思い出せようとする勢力は、日本の現代史を正確に教えることをよろこばぬ勢力だ。

 

日本の若者たちは戦争の歴史を正確に教えられていない。彼らはマンガやその他から、日本の過去を美化する独りよがりの歴史観を注ぎこまれている。

自分の国を美化したいのは人間の自然の感情だから、日本の過去の真実を明らかにする努力を自虐的だとののしる歴史に心を奪われるのは自然だともいえよう。

 

しかし、その結果はどうなるか。

韓国の「中央日報」日本語ウェブ版は掲載された記事に対する日本語のコメントを求めているが、あまりの恥ずかしさに読みつづけることができないような無茶苦茶が書き込まれている。

 

その特徴は自己の無知を恥じることを知らず、中国や韓国に対しては、取るに足らぬおくれた国として、きわめて傲慢に見下していることである。

 

韓国に対して、日本が子供を身売りし、餓死者もだすような困難のなかで、長い間、その近代化のために多額の税金を注ぎこんだでやったのに、その恩義も忘れて生意気なことを言うというような言葉に出会ったことがある。

それには推薦者が4人もいた。

こんなデタラメをどこで覚えたのだろう。

ただ、空恐ろしいような気がするばかりである。

 

戦後、志賀直哉は「灰色の月」を書いたが、ほとんど同時期に、「銅像」という文章を書いている。

 

東条のいまのみじめな姿を銅像にして後世に残せと言うのである。

後になると、東条のような人間が出てくるかもしれないし、世界とたたかった偉大な英雄と讃美するものが出てくるかもしれないというのである。

多分、当時東条は極東裁判に戦犯として起訴され、自殺に失敗して、手錠をはめられたみじめな姿をさらしていたのであったと思う。

 

これについては、「戦後の直哉の心に生き続ける多喜二の像 『灰色の月』前後 ―」白樺文学館 多喜二ライブラリー主催シンポジウム報告草稿

http://homepage2.nifty.com/tizu/proletarier/sengononaoya.htm

を参照していただければ幸いである。

 

今度、ブログ「時事問題」「漱石雑談」を開設した。

まだ馴れないが、にわかに私の世界がひろがったような気がする。

掲示板はそのまま残しておくので従来通り利用してください。

 

すこし、体調もすぐれず、通信の発行がおくれた。

ブログ「時事問題」の開設で、「日々通信」も正確が河原猿を得ないと思う。

皆さまのご協力で多面的に実りおおい発展を実現したいと思う。

風薫る5月、私も元気を回復したので、新しい「通信」のありかたを探りながら、努力していきたいと思う。

皆さんもお元気でお過ごしください。

 

  伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu