「実際はぜーんぶ部下がやったことなんすよ。俺はシラネ」 冷たい言い方だが、市ターンズとはああいうものだ… スポイチ編集長日誌 (2005.5.18)

 

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・・・そこでだ、仮に”改革”失敗の責任を明確な形で誰かに負わせるとすると、これでは内外に”改革”の失敗を認めてしまうことになる。よって、市大の独法化と”改革”したこと自体はひとまず己の”功績”としてとっておいて、「”改革”の中身」についての評価とその責任については、「部下(しかも課長クラス)が勝手にやった事」、知らぬ存ぜぬで選挙まで乗り切りたいところだろう。

 

 

2005/05/18 () 冷たい言い方だが、市ターンズとはああいうものだ…

 

 「前提とされるのは、大学は社会に対する効用を証明しなければならないということである。すなわち、開かれた市場に身を置き、授業料の支払いを通じて中核的資金を提供する学生たちを獲得するため競争しなければならない。もし大学の研究が価値あるならば、限られた資金を獲得するため厳しい競争の洗礼を受けることができる。…」

 ただし、上記は事務幹部官僚及び大学の”設置者”をもって自認する人には適用されないようだ。また、その「中核的資金を提供する」受験生から敬遠されるような改変をわざわざやらせておいてもその責任は負わないか、下っ端に押し付ければいいらしい。

 今まで己の名と権限により強いてきた行為により、それを絶好の大義名分として暴走した怨恨官僚らの跳梁があったとはいえ、もとは己が与えたお墨付きによる明白な結果として何か大失態を招いたとしても、「実際はぜーんぶ部下がやったことなんすよ。俺はシラネ」という逃げ口上パターンに出会うのは何度目だろう。これは市大のと言うか、シティの伝統的なやり方であり、横浜市だけでなく戦後日本というものがまずこの言い訳から出発しているとさえ言えるんである。だから”彼ら”は今もなお、いや、いつのまにか”神様”として祀られてしまったからこそいつまでも”お参り”を続けざるを得ない。すべてを押し付けたタタリがおっかねえからな。まさに”亡霊”なのだ。

 で、よりにもよって”改革派”の金色に輝くリーダーだったはずの人までもが、その見苦しき伝統芸を炸裂させてしまったことは、”改革派”の実態もわからぬまま持ち上げる風潮に対してはいいことなのかもしれない。この4月以降、いや受験者激減が明らかになった以後は、自らの実績として市大に触れる場合は、せいぜい”独法化したこと”の表現にとどまっており、”改革の中身”を功績として挙げることはなくなった。これは、おそらく”改革”は大失敗だったと自覚しているということだろう。

 そこでだ、仮に”改革”失敗の責任を明確な形で誰かに負わせるとすると、これでは内外に”改革”の失敗を認めてしまうことになる。よって、市大の独法化と”改革”したこと自体はひとまず己の”功績”としてとっておいて、「”改革”の中身」についての評価とその責任については、「部下(しかも課長クラス)が勝手にやった事」、知らぬ存ぜぬで選挙まで乗り切りたいところだろう。