日米関係についての昭和天皇の発言 五十嵐仁の転成仁語 (2005.6.1)

 

五十嵐仁の転成仁語

http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm

 

 

日米関係についての昭和天皇の発言

 

やっぱりこういうことを言っていたんですね。昭和天皇は……。

 新たな資料がアメリカで研究者の手によって発見され、ベールに包まれていた昭和天皇の発言の一部が明らかになりました。

 

 これは『朝日新聞』のスクープでしょうか。一面に大きく「昭和天皇 日米重視の発言」「5372年 公文書6点」「軍駐留 必要と確信」「平和へ 米国の力を」などの見出しの下、次のように書かれています。

 

 昭和天皇が占領終結後から70年代にかけて、日米の外交官や米軍幹部に米軍の日本駐留継続を希望し、米国の日本への援助に謝意を表明するなどの発言をしていたことを示す米公文書が、米国で相次いで見つかった。53年から72年の計6点で、象徴天皇制下での天皇と政治とのかかわりを探る手がかりになりそうだ。

 占領期の天皇が日米関係や安全保障にかかわる発言をしていたことは知られているが、その後も長く同様の発言を続けていたことになる。

 

 これらの文書は、立教大の中北浩爾教授がスタンフォード大フーバー研究所で、沖縄国際大の吉次公介助教授が米国立公文書館で入手したものです。その中には、ロバート・マーフィー駐日米国大使が記した公文書、キューバ危機直後の621031日付のジェイコブ・スマート在日米軍司令官からフェルト太平洋軍司令官あての電報、72年3月2日付と推定される駐日米国大使館発米国務長官あて電報などが含まれています。

 これらの文書や電報には、「朝鮮戦争の休戦や国際的な緊張緩和が、日本の世論に与える影響を懸念している。米軍撤退を求める日本国内の圧力が高まるだろうが、私は米軍の駐留が引き続き必要だと確信しているので、それを遺憾に思う」「最近の出来事を注意深く見ていたが、平和的な結果に安心した。米国の力と、その力を平和のために使ったことに個人的に称賛と尊敬の念を持つ。世界平和のために米国がその力を使い続けることを希望する」などの発言が記録されているそうです。

 

 つい先日の社会政策学会で、中北浩爾さんの奥さんにお会いしたばかりです。中北さんご本人とは以前同時代史学会の研究会でお会いし、留学の話はうかがっていました。

 良い仕事をされていますねー、中北さんは……。新聞の報道では元気なようで、着々と成果を上げておられるようです。

 その成果は日米関係についての昭和天皇の発言を明らかにするもので、日本政治の現状を考える上でも重要な意味を持っています。さし当たり、いくつかの点について指摘しておくことにしましょう。

 

 第1に、天皇と政治との距離の問題があります。日本国憲法では天皇は象徴とされ、政治的な行為や発言が厳しく制限されていることは良く知られています。今回の発言は、このような距離が想像以上に近かったということを示しています。

 それが憲法違反だというほどのものだったかどうか、評価が分かれるかもしれません。しかし、ここにはかなり微妙な問題が含まれていることは明らかでしょう。

 昭和天皇の政治的な発言については、これまでも部分的に漏れ伝えられ、私も上奏の問題について拙著『戦後政治の実像』(小学館、2003年)で書いたことがあります。もし、昭和天皇が単なる「象徴」ではなく、内政や外交において実質的な役割を演じていたということになれば、大きな問題になります。

 

 第2に、昭和天皇は戦前の「絶対天皇制」と戦後の「象徴天皇制」の違いをどれだけ認識していたのかという問題があります。もし、「象徴」としての地位を自覚し、憲法の規定を忠実に守ろうとしていたのであれば、今回明らかとされたような発言は出てこなかったでしょう。

 アメリカに対して「遺憾に思う」「希望する」というような発言には、一国を代表する「支配者」としての雰囲気が漂っています。制度の変化にもかかわらず、昭和天皇の内実はそれほど変化しなかったということでしょうか。

 このような問題は、二つの異なる制度が同一の人物によって担われたために生じたように思われます。立場が変わったことは昭和天皇によってもそれなりに認識されていたでしょうが、以前の行動スタイルを完全に改めることは難しかったということかもしれません。

 

 第3は、昭和天皇が一貫して「日米同盟」を志向していたということです。アメリカを頼りとし、ソ連を警戒する気持ちも、私たちが想像する以上に強かったようです。

 戦後の昭和天皇はアメリカよりもソ連を怖れていたことは明らかであり、その背後には反共意識があります。当時の保守政府の選択は天皇の望むところでした。その方向を強めるために天皇は密かに援護射撃を行っていたわけです。

 そのような行為が許されるかどうかということ自体大きな問題です。同時に、そのような判断と選択が正しかったかどうかということも、検討に値する問題でしょう。

 今日の「日米同盟」一辺倒による国連中心主義・国際協調主義からの乖離は日本の外交と安全を大きく歪めているからです。このような誤りのルーツは、昭和天皇にあったということになりましょうか。

 

 第4は、このようなアメリカ志向に、昭和天皇は矛盾を感じなかったのかということです。天皇がマーフィー駐日大使夫妻に向かって「私は米軍の駐留が引き続き必要だと確信している」と述べたのは、1953420日のことでした。

 アメリカを敵とした太平洋戦争が終わってからまだ10年も経っていません。あれほど激しく戦い「鬼畜」とまで言っていた旧敵国のアメリカ大使に対するこの発言を、「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいった泉下の若者たちはどう聞くでしょうか。

 この前年である1952428日、サンフランシスコ条約の発効によって日本は主権を回復しますが、安保条約の発効によって米軍は居残ります。本来であれば、「独立したのだから早く出ていって欲しい」と言うべきでしょう。それなのに「駐留が引き続き必要だ」と従米状態の継続を要望するとは何ということでしょう。日本の敗北と占領を阻もうとして、命をかけて戦った若者たちに顔向けできるのでしょうか。

 

 今回明らかにされた昭和天皇の発言を見ると、一方では、その変わり身の早さに驚きますが、他方では、「支配者」としての潜在意識が払拭されていないこともうかがえます。日本の敗戦に対して、昭和天皇は自らの責任をどう考えていたのかという疑問も湧いてきます。

 もし敗北すれば日本が滅亡するかのような妄言を弄し、多くの若者を戦わせて命を奪った相手がアメリカです。10年も経たないうちにそのアメリカにすり寄り、米軍を頼りとし、駐留の継続を要望することに、昭和天皇は何の矛盾も痛痒も感じなかったのでしょうか。自らの言葉を信じ、天皇制を守るために死んでいった人々にすまないと、自らの罪に苦しみ身もだえることはなかったのでしょうか。