板橋高校・刑事弾圧事件公判にて 「澤藤統一郎の事務局長日記」 (2005.6.21)

 

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板橋高校・刑事弾圧事件公判にて      

「日の丸・君が代」・靖国・教科書・戦後補償・教育基本法・イラク派兵・有事法制・日中・日韓・慰安婦報道規制‥。すべてが、通底する問題である。そして、そのすべての集約点として改憲問題がある。

日本は、60年前に痛恨の反省から再生した。再出発の基礎にあった理念は、不再戦の誓いである。侵略戦争による近隣諸国の民衆に対するに加害の反省と、沖縄地上戦・東京大空襲・広島長崎に象徴される被害の悲惨さ。この惨禍を繰り返さないという決意から、日本国憲法が作られた。

なぜ、旧体制は侵略戦争を起こしたか。なぜ、国民はこれを防止できなかったのか。近隣諸国民を差別し、自国民の人権を軽視したから。戦争を抑止する民主主義が未成熟だったから。そもそも国民に主権がなかったから。国民精神を戦争に総動員する装置として、天皇を神とし、神である天皇のために戦えという教育が徹底されたから。メディアが権力の下僕となり、検閲が横行したから‥。

しかし、それだけではなかろう。多くの国民が、このような体制の理不尽に対する抵抗を放棄したから、ではないのだろうか‥。旧体制を支えたものは、実は、国民の権力への協力や迎合、そして抵抗への諦めではなかったか。反戦平和や人間の平等を主張し、他国への侵略に反対した勢力を非国民として非難する大合唱に加わった民衆にも、責任の一半は免れない。天皇や財閥・軍部の戦争責任を曖昧にしてはならないことは当然としても‥、である。

日本国憲法は、このような反省の上に制定された。国民には、自覚的な主権者であることが要請される。「国民の不断の努力」の必要が説かれる所以である。

本日、板橋高校・威力業務妨害被告事件の法廷で考える。この起訴は、お上にまつろわぬ者に対する見せしめである。「従順に、日の丸・君が代強制に従え。従わない者は懲罰を覚悟せよ」という露骨な権力の意思表示なのだ。

都教委と警視庁公安2課と東京地検公安部の醜悪な合作によって練り上げられた「事件」。お上に逆らう「不逞の輩」への刑罰権発動の濫用は、実は、権力の暴走に抵抗を諦めない最も自覚的な主権者に対する言論の封殺である。これこそ、憲法が擁護すべしとする言動に対する弾圧そのものではないか。

権力の意思が、理非曲直にかかわりなく一筋に貫徹する社会。それは、旧体制の愚と恐怖とを再現する社会ではないか。歩一歩、旧体制への退行を許してはならない。この刑事訴訟は、憲法の理念を守る具体的な運動でもあるのだ。