【抜粋】 『天皇の玉音放送』 小森陽一 (五月書房 2003年8月15日 第1刷発行) (2005.8.3)

 

マッカーサー、フェラーズ、キーナンといったGHQと東京裁判検察側と、松平康昌等日本の天皇側近側が、一糸乱れぬ連携プレーによって存在しなかった、「全責任発言」を、非公式に流通させ、その実在性を証明するかのようにマッカーサーの『回顧録』が書かれ、さらにそれを傍証するような発言や回顧録を側近たちが積み重ねていく、という形で、天皇ヒロヒトの「全責任発言」が偽造され、かつ虚偽であることを確信犯的に知る人々によって「事実化」され、やがてヒロヒトの死によって「真実化」されてしまったのである。ここに、歴史を捏造することに権力者たちが成功した端的な例をみることができるだろう。

 

 

『天皇の玉音放送』 目次

第一章 二一世紀における歴史認識

新しい歴史教科書の波紋

天皇制と国体の蘇り

第二章 「玉音放送」を読み直す

ポツダム宣言から原爆投下まで

御前会議から「聖断」まで

「終戦の詔書」をめぐる攻防

「終戦の詔書」を解読する

内在させられていた歴史改竄

第三章 マッカーサーとヒロヒト

初めての「宮様内閣」

マッカーサーとの最初のかけ引き

昭和天皇とマッカーサー会見録

第四章 「人間宣言」というトリック

「人間宣言」を必要とした日本の戦後

はたして「人間宣言」はなされたか

第五章 戦後体制とは何か

憲法九条と天皇の免責

二つの独白録の疑問

現実逃避を続ける戦後体制

第六章 サンフランシスコ講和条約と日米安保体制下における象徴天皇制

踏みにじられた目本国憲法と講和条約

固められた戦後体制

この国の主は誰か

終章 我らの戦後

臨界に達する戦後体制

世界の再生に向けて

 

 

【抜粋】

第二章 「玉音放送」を読み直す

ポツダム宣言から原爆投下まで

「国体の護持」と「三種の神器」

このような状況誤認の判断がなされた最大の理由は、昭和天皇ヒロヒト及びその側近たちの関心が、いかにして「国体を護持し、皇土を保衛する」のかというところにしかなく、度重なる空襲による国民の犠牲など二の次三の次だったからである。

事実、ポツダム宣言が発せられる前日の七月二五日、ヒロヒトが木戸幸一に問いかけたのは、「三種の神器」が守れるのかということだけだった。もちろん「三種の神器」とは、伊勢神宮に「御魂代(みたましろ)」としてまつってある「八咫鏡(やたのかがみ)」と、熱田神宮にまつってある「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」すなわち「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」と、現在は行方がわからない「八尺勾玉(やさかにのまがたま)」のことである。・・・

 伊勢神宮が爆撃された翌日の七月二五日午前一〇時二〇分、ヒロヒトから呼ばれた木戸は、「戦争終結につき種々御話ありたる」ことに対して、次のように答えている。

 

「今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦機転換を唱え居るも、之は従来の手並経験により俄に信ずる能わず。万一之に失敗せんか、敵は恐らく空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、斯くすることにより、チャンス次第にては大本営が、捕虜となると云うが如きことも必しも架空の論とは云えず。ここに真剣に考えざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全うし得ざらんか、皇統二千六百余年の象徴を失うこととなり、結局、皇室も国体も護持〔し〕得ざることとなるべし。之を考え、而して之が護持の極めて困難なる事に想到するとき、難を凌んで和をずるは極めて緊急なる要務と信ず。」(『木戸日記」、東京大学出版会、一九六六)

 

これが、はたして二〇世紀半ばの、近代国家における大人の会話なのだろうかと疑いたくなる内容だ。「皇室」と「国体」を「護持」することが「三種の神器の護持」という論理。

「本土決戦」に失敗すれば、敵が乗り込んできて、「大本営」、すなわちヒロヒトを大元帥とする直属最高統帥機関も「捕虜」となる可能性がある。さらに「三種の神器」も守れない。すると「皇室も国体も護持」できない、だから「和をずる」べきだ、ということを木戸は進言しているのだ。

答が、このような内容なのだから、自(おのず)からヒロヒトの問いも明らかになる。私の身は安全なのか、「三種の神器」は大丈夫なのか、ということを木戸に尋ねたのである。

日々空襲にさらされ、命を奪われている国民の危険など、一切関心の対象になっていない。自分の身の安全と、自分の権力を支えるための象徴的器物のことだけが心配なのである。

さらに背筋が寒くなるのは、明治天皇以来、「帝国臣民」を国家に動員するために新たに捏造された建国神話の宗教的な呪縛に、その権力の中枢に身を置いている者自身が、それこそ骨の髄までからめとられてしまっている、という事実である。

このときから六日後の七月三一日、ヒロヒトは木戸に次のように語る。

 

「種々考えて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思う。而しこれを何時御移するかは人心に与うる影響をも考え、余程慎重を要すると思う。自分の考えでは度々御移するのも如何かと思う故、信州の方へ御移することの心組みで考えてはどうかと思う。此辺、宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰いたい。万一の場合自分が御守りして運命を共にする外ないと思う」(同前)

 

ここでいう「信州の方」とは松代大本営のことである。戦争の末期に、米軍の空襲から逃れて大本営を移転するために極秘に造られていた、長野県松代の大地下壕である。この大地下壕建設のために多くの強制連行された朝鮮人労働者が働かされていたのである。ヒロヒトと「三種の神器」と大本営の安全のために、強制連行=拉致という国家犯罪が行われたことを、私たちは忘れてはならない。

 要するに、ヒロヒトは、ずっと「三種の神器」をどうやって自分が持って逃げるか、ということを考えつづけていたことがわかる。伊勢神宮が爆撃されて以後、ヒロヒトは、自分の命と「三種の神器」の守り方しか考えていなかったのである。

 

一九四五・八・六 午前八時一五分

そして八月六日午前八時一五分、B29型爆撃機「エノラ・ゲイ」号は、広島上空高度一万メートルから、ウラニウム二三五爆弾を投下したのである。人類史上最初の原爆投下によって、広島の爆心地附近は七〇〇〇度の熱に覆われた。死者約二〇数万人。

昭和天皇ヒロヒトが捕虜にならないことと、「三種の神器」なる器物を守るための犠牲の、はかりしることのできない大きさ。

しかし、ヒロヒトも政府中枢も、広島の非戦闘員の犠牲者に関しては、まったくといっていいほど考えていない。

 たとえば鈴木貫太郎は、八月七日の短波放送で、トルーマン大統領の声明が発せられ、八月六日の「新型爆弾」が「正しく世界の驚異的課題であった原子爆弾であることが明らかにされた」あとのヒロヒトの対応について、こう回想している。

 

「余はこの上は終戦する以外に道はないとはっきりと決意するに至った。陛下におかせられても、広島の惨状を聞こし召されて、ついに、これ以上勝ち目のない戦争を続け両軍の犠牲を重ねることは人類文化上悲しむべきことだと側近の侍従に洩らされ、そのご心境のほどはお痛々しいほど推察されたのである。」 (鈴木一編『鈴木貫太郎自伝』、時事通信社、一九六六)

 

ヒロヒトは「軍の犠牲」者にしか関心を示していない。つまり日本本土の兵力、約二二五万の陸軍と、一二五万の海軍をいかにして温存するか、ということしか、原爆投下時には考えていなかった、ということだ。・・・

 そして翌八月九日、閣議が開かれることが予定されていた日の午前六時、ソ連参戦の報が迫水のところにとどき、午前一一時二分、長崎市に二発目の原爆、プルトニウム爆弾が投下された。死者約一二万人。

広島と長崎をあわせて三三万人。昭和天皇ヒロヒトが「三種の神器」をどこに移せばいいのか、ということを考えつづけていたために発生した、ポツダム宣言受諾の遅れの結果としての犠牲者である。・・・

 しかし、原爆投下もソ連参戦も、なにより日本の「ポツダム宣言受諾拒否」を理由に掲げて行われたことを、私たちは忘れてはならないのである。ポツダム宣言第一三項には、「日本国政府が直ちに全日本軍隊の無条件降伏を宣言」することを要求していたのである。そしてそれ「以外の日本国の選択は迅速且完全なる壊滅あるのみとす」と明記されていたのである。

 

無残な犠牲は必要だったか

 そうであるにもかかわらず、昭和天皇ヒロヒトもその側近も、伊勢神宮の爆撃で「三種の神器」がどうなるかわからない、しばらく意思表示を避け、その間に伊勢、熱田の神器を松代大本営に移そう、などという相談に明け暮れ、一〇日間以上を費やしているのである。いったい「ポツダム宣言」の中の「直ちに」という言葉を、この人たちはどのように受けとめていたのだろうか。

要するにヒロヒトは、自分の先祖だといわれている者が残した、鏡と刀と勾玉という骨董品(あるいはそのレプリカ)を守るために三三万人を死に追いやったのである。百歩譲って、広島の原爆は予想がつかなかったかもしれない。けれども現地調査を八月七日にしているのだから、広島の現状が文字どおりの「迅速且完全なる壊滅」であることは明らかであったはずだ。即刻ポツダム宣言の受諾をするのが、正常な判断であったはずだ。

 しかし、この人たちには炎熱地獄の中で死んでいった犠牲者に対する想像力は一切はたらいていない。・・・

問題は明白である。たとえばソ連の仲介で開かれるはずであった和平交渉に派遣される予定の近衛文麿は「国体の護持は絶対にして一歩も譲らざること」を第一条件としていたように、ヒロヒトと政府中枢部は、東京大空襲と沖縄戦を経て、明らかに大量抹殺の危機にさらされている国民の生命を捨て、「国体の護持」の方を二者択一したのである。

しかし「国体」とは大日本帝国憲法第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という神話を歴史に転倒した空疎な血統主義的幻想と、第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」と第四条の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」という権力の絶対化にほかならない。換言すれば、敗戦直前の、米軍の空爆によって焼土と化した大日本帝国にとって血統神話とそのなれの果てのヒロヒトの身体にしか、「国体」の実体は存在しない。だからこそ、「その場合には」、「三種の神器」を「自分が御守りして運命を共にする外ないと思う」という信じがたい空論が、最高権力者本人によって、まことしやかに語られてしまうのである。・・・

 ヒロヒトは「敗北を抱きしめて」ならぬ「三種の神器」を抱きしめているしかなかったのである。そのような男に生殺与奪の権を握らせていたのが「軍人勅諭」と大日本帝国憲法と「教育勅語」の体制だったのだ。・・・

 

内在させられていた歴史改竄

「開戦の詔書」との辻褄あわせ

それにしても、自己の保身と権力の象徴である「三種の神器」の保全の手立てに腐心していたために、原爆投下に至ってしまったにもかかわらず、それを「敵」の「残虐ナル爆弾」によって「無辜」の民が「殺傷」され、「惨害」が予測できず、このままでは「民族ノ滅亡」になりかねないがゆえにポツダム宣言を受諾するという(「終戦の詔書」の)詭弁には唖然とするしかない。・・・

 

電波メディアの天皇制

・・・「自らマイクの前に」立つということは、ヒロヒト自身の提案だったことがうかがえる。玉音放送は、ぎりぎりのところまで追いつめられたヒロヒトが、自らの延命と「国体護持」を実現するための必死の国家イヴェントであり、電波仕掛けのスペクタクルであったのだ。

録音は、八月一四日深夜二度にわたって行われた。陸軍の一部には「玉音放送」を阻止する動きもあったが、宮内省に保管されていた録音盤は無事であった。

八月一五日正午、「終戦の詔書」は「玉音放送」として大日本帝国臣民の耳にとどいた。しかし、その後全文が問題化されることはなく、「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」の部分だけが毎年反復されることになったのである。・・・

 

第三章 マッカーサーとヒロヒト

昭和天皇とマッカーサー会見禄

会談の内容についての藤田発言

・・・藤田(注:藤田尚徳侍従長)はつづけて昭和天皇ヒロヒトのマッカーサーへの発言を紹介している。

 

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。このうえは、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。」 (前出、『侍従長の回想』)

 

ヒロヒトはこう語ったことになっている。・・・

しかし今回公開(注:二〇〇一年四月に施行された情報公開法に基づいて、「朝日新聞」記者が会見録の公開を請求し、六月に外務省が非公開を決定し、これに対し記者側が不服申し立てをし、情報公開審査会が記録の公開を求める答申を外務省に対して行った結果、ようやく公開)された、外務省の公式記録に、天皇ヒロヒトの「責任はすべて私にある」「私の一身は、どうなろうと構わない」といった発言は見あたらない。互いに挨拶を交わした後、マッカーサーからかなり長い発言があり、それを受けたヒロヒトの発言が藤田の発言に該当する最も近い唯一の言葉だと言えなくもないが、その内容は、「責任」とはまったく異質なものである。

外務省公式記録の中において、このヒロヒトの発言は次のように記されている。

 

此ノ戦争二付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス。」(前出、『朝日新聞』[二〇〇二・一〇・一七夕刊])

 

この記録に即していえば、「戦争」に対する「責任」を認めた、というよりは、むしろ「責任」を回避する発言だと言わざるをえない。

自分としては、「戦争」になることを極力避けたいと思っていたにもかかわらず、結果としては「戦争」になってしまったので「遺憾」である、ということしかヒロヒトは言っていない。・・・

 

戦争責任をめぐる諸説

・・・この問題を、「戦争責任」発言があったかなかったか、という二者択一から一旦切り離しGHQの占領政策を円滑に進めていこうとしているマッカーサーと、「国体護持」をなんとかしても実現しようとする日米の支配層の利害関係とのからみで考えてみる必要がある。

その点では、マッカーサーとヒロヒトの第一回会談の後、日をおかずしてマッカーサーあてに一〇月二日に出されたボナー・フェラーズ准将の覚書きが参考になる。フェラーズは、「戦争責任」の最も重要なポイントになる、「開戦」をめぐる責任の回避の仕方を提案しながら、ヒロヒトの免責が、占領を効果的に行う切り札であると主張しているのである。・・・

 無血侵攻を果たすにさいして、われわれは天皇の尽力を要求した。天皇の命令により、七〇〇万の兵士が武器を放棄し、すみやかに動員解除されつつある。天皇の措置によって何万何十万もの米国人の死傷が避けられ、戦争は予定よりもはるかに早く終結した。したがって、天皇を大いに利用したにもかかわらず、戦争犯罪のかどにより彼を裁くならば、それは、日本国民の目には背信に等しいものであろう。それのみならず、日本国民は、ポツダム宣言にあらまし示されたとおりの無条件降伏とは、天皇を含む国家機構の存続を意味するものと考えている。

もしも天皇が戦争犯罪のかどにより裁判に付されるならば、統治機構は崩壊し、全国的反乱が避けられないであろう。国民は、それ以外の屈辱ならばいかなる屈辱にも非を鳴らすことなく耐えるであろう。彼らは武装解除されているにせよ、混乱と流血が起こるであろう。何万人もの民事行政官とともに大規模な派遣軍を必要とするであろう。占領期間は延長され、そうなれば、日本国民と疎隔してしまうことになろう」 (山極晃・中村政則編・岡田良之助訳『資料日本占領「天皇制」』、大月書店、一九九〇)・・・

 

日米合作の責任回避論

このとき、「国体護持」の要は、「真珠湾攻撃」と「開戦の詔書」との関係に一気に焦点化されたのである。つまり、描き出すべき物語としては、昭和天皇ヒロヒトはあくまで交渉という平和的手段によって日米関係を切り拓こうとしていたにもかかわらず統帥部が開戦の方向を打ち出し、政府がすでに決定していたために「大日本帝国憲法」の慣例に従ってこれに対して「ベトー」=拒否権を発動することができなかった。しかも「真珠湾攻撃」に関しては詳細な作戦計画は知らされていなかったという筋書が必要だったのである。

同時にヒロヒトを利用したことによって、アメリカは「無血侵攻」が可能になり、「七〇〇万」軍隊が武装解除されたのだから、今後の占領政策実施においても、天皇の利用価値は十分ある。それに対して、もし天皇を「戦争犯罪」人として訴追すれば、国民の強い反発が発生し、暴動が起き、アメリカとしては、さらに多数の派遣軍を送らざるをえなくなり、占領も長期化するという脅しにも似た占領コスト論によって、ヒロヒトを免責することの利点が説かれているのである。

側近たちは、ただちにヒロヒトが、「真珠湾攻撃」について、事前に詳細な情報を知らされていなかった、という証拠捜しに奔走しはじめるのである。

この時点で、まさにアメリカ=GHQと、日本の支配層との、いわば合作のシナリオによる、ヒロヒトの「戦争責任」に対する、徹底した矮小化が謀られたのだ。

別な角度から見れば、日本の文配層が,「国体護持」のために編み出した「終戦の詔書」の論理、「戦争」を米英に対する「四年」間に限定し、中国に対する戦争はまったく存在しなかったかのように消去し、なおかつ、ヒロヒトは「戦争」に対しては反対だったのだ、という筋書が、アメリカ=GHQによって追認されたことになる。そして、マッカーサー=フェラーズの共同演出によって、他の連合国へのヒロヒト免責の論理として世界化される、という形になったのである。・・・

こうした日米合作の「戦争責任」回避劇の中で構築されたのが、次のようなヒロヒトの科白であろう。

 

「天皇陛下が開戦を御裁可になられたことについて戦後になって、侍従長の藤田尚徳さんが天皇陛下に「陛下はどうして鈴木内閣には終戦の御聖断をお下しになったのに東条内閣に開戦をお許しになったのですか」ということをお伺いしたことがあります。

 その時天皇陛下は、「日本の憲法は責任内閣という制度であって、"天皇は統治すれども政治せず"が建前である。具体的な政治問題については、全部責任内閣が責任をもってやるのであって、天皇はこれに干渉しないというのが建前であると考えていた。だから東条内閣の時は、閣議で開戦を決定して自分の裁可を決めてきたから、憲法の手続きによって裁可したわけだ。鈴木内閣の場合は、内閣が意見を求めてきたから、自分がここで意見を言っても、付人の公務権限を侵すことにはならないと思って、自分は自分の意見を率直に言った」とお答えになっていらっしゃいます。」 (前出、迫水久常『聖帝昭和天皇をあおぐ』)

この科白において、ほぼ完全な辻褄合わせが完成しているといえよう。同時に、このようなヒロヒトに対する「責任」だけを「総懺悔」した「臣民」=「国民」は、中国における侵略戦争をはじめとする、アジア地域への加害責任に対する思考を停止するシナリオへ、加担することになっていくのである。・・・

 

第四章 「人間宣言」というトリック

「人間宣言」を必要とした日本の戦後

表面化した日米対立から生まれた「人権指令」

一九四五年一〇月四日、GHQは「政治的、民主的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」を出す。いわゆる.「人権指令」のことである。

この指令により、特高警察が解体され、思想的政治的弾圧の中軸であった治安維持法をはじめとして、不敬罪、宗教団体法などの諸法規が廃止された。

同時に、思想・政治犯の釈放の指令も出されることになる。

この一連の指令は、「国体護持」を至上命令としていた日本の支配層に大きな動揺を与えざるをえなかった。治安維持法は、「国体」の論理を法的にはじめて規定した法律であり、それが廃止されることは、「国体」の法的根拠を奪うことにほかならなかった。

この「人権指令」は、軍の解体を目前にひかえた陸軍省と海軍省に、「靖国神社」問題に対する大きな危機感を与えた。

すなわち両者は、「軍の解散前に支那事変、大東亜戦争等の為に死歿したる英霊に対し、軍として最後の奉仕」(『靖国神社百年史資料編上』、靖国神社編・刊、一九八三)をする機会をつくり出さなければならなかったのである。

東久邇の「終戦」をめぐる「報告」の末尾にあったように、生き残った者たちが、「総懺悔」しながら、その「宸襟」を「安」んじなければならない昭和天皇ヒロヒトの敗戦後における権威は、戦死した兵士たちの記憶によって支えられていた「国体」に自らの命を捧げた忠魂の象徴としてどうしても死んだ兵士たちを「英霊」にしたてる必要があった。・・・

 

揺らぎだした天皇制

 天皇制をめぐる言論と思想と宗教上の弾圧法であった治安維持法が廃止されたことは、とりもなおさず、近代天皇制をめぐるイデオロギー的な柱の一方をめぐる規制が取り払われたことにほかならない。

 大江志乃夫は、近代天皇制のイデオロギーの構造を次のように定義している。

 

「近代天皇制における天皇の持つ二元的性格、宗教的権威としての「天子」のそれと政治的主権者としての「天皇」のそれとをイデオロギー的に――物理的には大元帥としての側面であるが、みごとに統一し、さらに、このそれぞれが持つ二元構成、宗教的には絶対の「神」であることと温情溢れる「家父」であること、政治的には権力国家の超越的支配者であることと共同態国家の、日常生活的支配者であること、この背反しあう秩序原理をもみごとに統一したイデオロギーと制度が近代天皇制イデオロギーとその制度であり、その骨幹を成すものが国家神道であった。」 (『靖国神社」、岩波新書、一九八四)

 

ここで、にわかに靖国神社が問題化されざるをえないのである。なぜなら大江が言うように、靖国神社において、陸海二軍の大元帥としての政治大権を持つ「天皇」と、現人神(あらひとがみ)あるいは現御神(あきつみかみ)であると同時に、大祭司でもある「祭祀大権」を持つ「天子」が統合されていたからである。

明治維新以後の近代の徴兵制において、それまで単なる民であった士族以外の一般民衆(男性)は、陸海軍いずれかの兵士になることによって、臣の位置を獲得し、大元帥天皇と君臣関係を結ぶことができるようになった。

その意味で「軍人勅諭」(一八八二)における「朕」という天皇の一人称に対する、二人称としての「臣民」は、その二字の中に、民から臣への上昇志向を内在させていた。

兵士となることによって、天皇の臣となった者は、天皇への忠誠として、自らの命を戦場で天皇に捧げる。・・・

 したがって臣としての、兵士の、君である天皇への忠誠に基づく戦死は、国家のための死となり、その戦死者の魂は、祭祀大権を持つ現人神の親拝を受けることによって「国家の神霊」となるのである。このような「靖国」の論理は、日清戦争の際に全国化し、日露戦争の際の膨大な戦死者によって大衆化し、戦死者の魂に、「英霊」という二字熟語が与えられるようになった。そして「英霊」は「天子」に「慰霊」されてはじめて、「護国の神」になるのである。・・・

 

戦後の宗教的権威構築の仕組み

伊勢(伊勢神宮)から京都(明治天皇桃山御陵)への「親拝」を行った昭和天皇ヒロヒトは、一一月一八日に東京に戻り、「大正天皇多摩御陵」に「親拝」している。結果として、近代日本の帝国主義的侵略戦争の大元帥であった、祖父と父に、「終戦」の「奉告」を済ませたのである。

そしてその翌日、一九四五年一一月一九日に、靖国神社で臨時大招魂祭が行われ、二〇日に、ヒロヒトが、この日のために新しく「調製」した大元帥服ではない「天皇服」を着て、最後の公式参拝をしたのである。

一二月一日に解散される陸軍と海軍が残存している間のぎりぎりのところで、太平洋戦争の戦没者を、「靖国」の「英霊」として大元帥であると同時に祭祀者でもあるヒロヒトの下で合祀することができたのである。同時にそれは、一二月一五日に出される予定になっていた「国家神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止」に関する指令が出る直前の、すべり込み的な最後の天皇の「靖国」公式参拝ともなったのである。

しかし、この最後の、まだ現人神である段階におけるヒロヒトによる公式参拝によって、靖国神社において慰霊された、明治以後の日本のすべての侵略戦争の担い手として死んだ者の「霊」が国家にからめとられてしまったのだ。・・・

 ヒロヒトが、太平洋戦争で死んだ戦没者を慰霊したことによって、彼の戦後における権威は、莫大な数の死者の「霊」によって支えられることになる。明治年間の合祀者数が一二万弱、大正末までで一三万強、昭和一六(一九四一)年までが二二万強に対して、一気に十倍強の、二四六万余名の死者をヒロヒトは背負ったのである。

当然のことながら、家族や身内から死者を出した生存者たちは、その死者の死がどのような質の死であれ、原理的に自分が生き残っていること自体に対し負い目を抱いてしまう。こうした生.き残った者たちとしての「赤子」の負い目を、ヒロヒトは巧妙に、自らの生き延び方の支えとして動員したのである。一一月二〇日の、大元帥服ではない、たった一回だけの「天皇服」による靖国神社に対する公式参拝は、東久邇が仕掛けた「一億総懺悔」の意味を変えていったのである。つまり、ヒロヒトその人(あるいは現人神としてのその神)への懺悔だけではなく、彼の背後に追いやられた二百数十万の戦死した者たちの「霊」に対して懺悔する構図がつくられたのである。・・・

 死者に対する哀悼の宗教的祭祀の役割を自ら担うことによって、死者に対する生き残った者たちの負い目を、同じ生き残った者としての自己の一身に集中させるという構図の中で、靖国神社に支えられた、敗戦後の天皇ヒロヒトをめぐる、独自な「宗教的権威」がここにおいて構成された。

こうした儀式を、ぎりぎりのすべり込みで実現し得たからこそ、一二月一五日の「神道指令」を乗り切りながら、いわゆる「人間宣言」と対応することができたのである。

 

「靖国」とGHQの都合

GHQは、いわゆる「神道指令」を準備する段階で、天皇の神格化を前提とした、日本民族の世界への優越といった信念を解体させる方法について苦慮していた。GHQの社会教育局のダイク局長は、学習院の教師だったRH・ブライスを仲介者にして、昭和天皇ヒロヒト自身が、自らの神格を否定するメッセージを発表するように働きかけをはじめた。・・・

 いわゆる「人間宣言」は、まずGHQが発案し、極秘のうちに宮中の側近との連絡が、ブライスから山梨学習院長経由で行われたのである。

これらのGHQからの働きかけはなによりも、ヒロヒトを東京裁判に訴追させないための策動であった。吉田裕は、「人間宣言」の意味をめぐる「政治的文脈」について、次のように分析している。

 

 「アメリカ国内の世論もその他連合国の世論も、依然としてこの段階では天皇の戦争責任を厳しく追及しており、安易な天皇への宥和政策はGHQにとっても命とりになりかねなかったからである。そうした国際世論の厳しい監視のなかで天皇制と天皇の温存をはかるためには、GHQの側としても天皇制が完全に民主化され、再び軍国主義勢力の温床になる可能性がないことを、強く国際世論にアピールしなければならなかった。」 (『昭和天皇の終戦史』、岩波新書、一九九二)・・・

 

 一二月一五日にいわゆる「神道指令」が出され、国家神道としての「靖国」の論理に決定的なくさびが打ち込まれることになるのだが、靖国神社の側はともかく、少なくともヒロヒトの安全な位置は確保されていたのである。

 

はたして「人間宣言」はなされたか

かくして詔書は発布された

 かくして、一九四六年一月一日、「年頭の詔書」が、新聞各紙に掲載されたのである。

 

 年頭、國運振興への詔書(昭和二十一年一月一日)

茲二新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇條ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。

日ク、・・・

 

様々な紆余曲折を経た結果完成された詔書における、昭和天皇ヒロヒトの要請によって付加された「五箇条の誓文」と、詔書本文の接合点にきわめて巧妙なトリックが仕掛けられることによって、一つのイデオロギーが密かに(あるいはあからさまに)構築されているのである。

 「五箇条の誓文」の五番目の項目には、「一、智識ヲ世界二求メ大二皇基ヲ振起スヘシ」とある。「皇基」、すなわち天皇が国家を治める事業の基礎を、「振起」すること、すなわちふるいおこし盛んにすると述べているのである。つまり、天皇が国家を統治することが宣言されているのであり、そのことに対し、引用に続く本文は「叡旨公明正大、又何ヲカ加へン」と全面肯定しながら、「五箇条の誓文」を、ヒロヒト自らの宣言にしてしまっている。「叡旨」とは、とりもなおさず天子の考え、あるいは天子の述べたことを指す。この言葉の中において、かつて「五箇条の誓文」を発した明治天皇という主体が、ヒロヒトに同じ天子としてスライドしていくのだ。

そのあとにつづく「朕ハ茲二誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス」という一節がある以上、この詔書は、昭和天皇による国家統治の継続を、「新ニ」宣言した文書になる。これから「建設」されるところの「新日本」とは、とりもなおさずヒロヒトが統治する国家なのである。

 そして「夫レ家ヲ愛スル心ト國ヲ愛スル心トハ我國二於テ特二熱烈ナルヲ見ル。今ヤ實二此ノ心ヲ擴充シ、人類愛ノ完成二向ヒ」という形で、近代天皇制を気分・感情の上で支えてきた家族国家主義を改めて持ち出しながら、それがそのまま「人類愛」につながるはずだという、破綻以外のなにものでもない「論理」が提示されてくることになる。・・・

 そして、「戦争ノ敗北」の結果がもたらした「思想混乱」に対する天子の「深憂」が表明されたうえで、いわゆる「人間宣言」へと接続されていくことになる。

では、はたして、「人間宣言」はなされているのだろうか。

 まず最初に強調されているのはこうした「思想混乱」の中で「朕ハ爾等国民ト共二在リ」という思想的支えとしての自己像を提示したうえでの、「朕」と「国民トノ間ノ紐帯」の強さについてである。その中でGHQの要請に答える形で「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族二優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念二基クモノニ非ズ」という文面が入ってくる。

ここで機能しているトリックでしかないレトリックは重要な意味を持っている。たしかに、自分が「現御神」であったり、日本「民族」が世界を支配するような「優越セル民族」だという考え方が.「架空ナル観念」であるとは言っている。けれども、それは、「朕」と「国民」との関係は、「架空ナル観念」や「単ナル神話ト伝説」に支えられているようなものではない、という、より実体的で強力なものだ、と主張するためのレトリックなのである。

以上のことからも、木下道雄等が危機感を抱いた、天皇は「神の裔」ではない、という記述は、「年頭の詔書」から消すことができ、「大日本帝国憲法」第一条の「国体」概念を守り切ることができたのである。

 

第五章 戦後体制とは何か

憲法九条と天皇の免責

マッカーサーのシナリオ

・・・「マッカーサーが憲法九条を発想した背景は、理想ではなく現実の解決のためであった。マッカーサーは、天皇制を何らかの形で残したいと考えた。そこで、明治憲法とちがって、新しい憲法では天皇に政治的権力をまったく持たせない象徴としての地位を考えたがそれでも不十分であった。米国政府はいうまでもなく、日本の戦争被害を受けたアジア・太平洋諸国は、昭和天皇の戦争責任を忘れてはいなかったし、この程度で納得するはずがなかった。・・・

「そこで、マッカーサーは、FEC(注:極東委員会)が活動を開始する前に、天皇の地位を残し、かつ.FEC(連合国により構成され、米英のほか社会主義国のソ連、日本の戦争被害が大きかった中国、フィリピン、日本軍国主義に強い警戒感をもっていたオーストラリア、ニュージーランドなどの代表が参加)も結果的に賛成せざるを得ないような思い切った平和的・民主的憲法を、FECより先に作ってしまう必要があった。

そこでマッカーサーは、われわれ日本人が知る事実とは異なって、昭和天皇が主導権を握って平和主義と民主主義に徹した憲法を作ったということにして、これを連合国に伝えた。」(同前、注:古関彰一『日本国憲法・検証資料と論点 第五巻 九条と安全保障』、小学館文庫、二〇〇一)

これが古関の筋書である。天皇の戦争犯罪が徹底して追及される可能性のある、FECの活動開始前の、「国体護持」としての天皇制存続と、昭和天皇ヒロヒトの免責の切り札として、天皇主導の平和・民主憲法発布という、切り札が切られた、という解釈である。・・・

 

取引材料としての「戦争放棄」

 要するに、最も緊急だったのは昭和天皇ヒロヒトの「地位」を守ることだったのだ。「戦争放棄」は極東委員会が活動を始めた時点で、天皇を戦犯として追訴せず、「天皇制と天皇個人を救う」ために、極東委員会を構成する「国々からの支持を獲得するため」の「条件」だったのである。・・・

古関彰一、ジョン・ダワー、ハーバード・ビックスの分析と解釈を総合するなら、やはり極東委員会FECが正式な活動を開姶する前に、ヒロヒト個人の免責と延命、そして天皇制を存続させるために、マッカーサーはいち早くヒロヒト自身が、画期的憲法改正案を出した、ということにしなければならなかったのであり、極東委員会を納得させる最大の条件が、「戦争放棄」と「戦力不保持」といった、後に憲法第九条に結実する内容だったのである。そしてホイットニーを中心とする民政局の「憲法制定会議」の二四人(四人の女性を含む)メンバーは、わずか一週間の期限で憲法草案の起草を開始したのである。・・・

 

二つの独白録の疑問

秘められた東京裁判の意図

昭和天皇ヒロヒトの戦争責任を免責する中心人物の一人であったフェラーズ准将は、一九四五年九月二二日から、五ヵ月間、東条英機元首相、嶋田繁太郎元海軍大臣らをはじめとする日本の戦争指導者約四〇人に対して、個人的な尋問を継続的に行っていた。その主要な戦犯容疑者に対する個人的な尋問が終わり、フェラーズが期待したとおりヒロヒトの終戦をめぐる「聖断」を評価する証言を得て、ヒロヒトが訴追を免れることのできる最終的な筋書が完成したのが、一九四六年の三月六日だったのである。

フェラーズは、三月六日に敗戦当時海軍大臣であった米内光政と通訳溝田主一を招き、ソ連を中心として、ヒロヒトを戦犯として処罰すべきだと主張していることを強調し、次のような依頼をしたと、溝田文書は明らかにしている。

 

「右に対する対策としては天皇が何等の罪のないことを日本側から立証してくれることが最も好都合である。其の為には近々開始される裁判が最善の機会と思ふ。殊に其の裁判に於て東条に全責任を負担せしめる様にすることだ。

即ち東条に次のことを言はせて貰い度い。

「開戦前の御前会議に於て仮令陛下が対米戦争に反対せられても自分は強引に戦争迄持って行く腹を既に決めて居た」と。 (豊田隅雄「戦争裁判余禄」、泰生社、一九八六)

 

 これに対し、米内大将は、こう答えた。

 

 「全く同感です。東条〔元首相〕と嶋田〔元海相〕に全責任をとらすことが陛下を無罪にする為の最善の方法と思ひます。而して嶋田に関する限り全貢任をとる覚悟で居ることは自分は確信して居る。」

 

この瞬間、戦争をめぐる一切の責任を、東条英機や嶋田繁太郎をはじめとする軍部の指導層に帰し、ヒロヒトを完全に免責する筋書をめぐる日米合意が成立したのである。・・・

つまり「共産主義化」を防ぐことと連動するものとして、天皇ヒロヒトの免責が位置づけられており、ソ連を敵とすることによって天皇とマッカーサーが同じ利害関係を共有する者同士として描き出されているのである。

 天皇ヒロヒトを免責するための、東京裁判に対する筋書をめぐる日米合意は、反「共産主義」という、ヒロヒトとマッカーサーの共通の立場によって支えられていたのであり、この立場は、その後一貫して日米関係の重要な政治的柱になっていくのだ。・・・

 

日米合作の表と裏の独白録

三月一八日から、本格的な東京裁判対策がはじまっていく。「陛下、御風邪未だ御全快に至らざるも、かねての吾々の研究事項進捗すべき御熱意あり。よって御政務室に御寝台を入れ、御仮床のまま、大臣、予、松平総裁、稲田内記部長、寺崎御用掛の五人侍して」(同前、注:木下道雄『側近日誌』、文芸春秋、一九九〇)、と木下が記しているように、この日から宮内大臣松平慶民、宗秩寮総裁松平康昌、侍従次長木下道雄、内記部長稲田周一、御用掛寺崎英成の「五人の会」が、「天皇独白録」の聞き取りの会として成立するのである。四月八日まで、全部で五回八時間に及ぶ聞き取りが行われ、先にふれたような開戦責任を回避する論理が構築されたのである。

 こうした一連の時間的経緯が示しているのは、昭和天皇ヒロヒトの名による「戦争放棄」と「戦力不保持」の新憲法制定と、そのヒロヒトを戦犯として訴追させないための東京裁判対策は、当初から不可分の対関係を結んでいた、という歴史的事実である。それは、マッカーサーとヒロヒトの、さらにはアメリカと日本との談合的合作とも言える"連携的"共犯関係だった。・・・

一九四六年五月三日、東京裁判が開廷する。それから二日後の五月五日、GHQの民間情報局が制作していたNHKのラジオ番組で、天皇ヒロヒトの開戦責任を免責する報道が行われた。

そこでは「なぜあなたは戦争を許可したのか」とのマッカーサーの問いに対し、もし私が許さなかったら新しい天皇がたてられていたであろう。戦争は日本国民の意思であった。誰が天皇であれ事ここに至っては、国民の望みにさからうことはできなかった」と答えた、との「天皇発言」が「真相」としてあきらかにされた」(豊下彦『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交』、岩波新書、一九九六)のである。

太平洋戦争の開戦を許可せざるをえなかった状況は、東条英機をはじめとする「軍閥にあやつられた世論が支持したものから」「国民の意思」「国民の望み」そのものにエスカレート」(同前)したのである。

意図的にGHQによって大々的に流された「天皇発言」は、「対日占領の最高政策決定機関である極東委員会の発足(二月二六日)にあわせたかのように米誌『ライフ』(三月四日付)に掲載された、日米特派員の報告記事であきらかにされた「天皇発言」とまったく同じものであった」(同前)のである。

この「"表舞台"」における、昭和天皇ヒロヒトに開戦責任無し、という宣伝と同時に、「"裏舞台"」においては、ヒロヒトがすべての責任を一身に担おうとしているという、「"表舞台""裏舞台"とで、その内容を異にする「天皇発言」が流出」していくことになったのであり、それらは「内容が相反するものであっても、そのねらいはただ一つ、「裁判対策」においてみごとに収斂していた」(同前)のである。

"裏舞台"」の「天皇発言」とは、主席検察官キーナンから、「東京裁判」の方向付けに決定的な役割をはたす証言をした、田中隆吉元陸軍少将に伝えられたものである。

 

「裁判が開始されたころ、主席検察官のキーナンは田中に対し、前年一二月に来日したさいにマッカーサーから、最初の会見で天皇が「この戦争は私の命令で行ったものであるから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰してもらいたい」と発言したこと、だから「もし、天皇を裁判に付せば、裁判の法廷で天皇はそのように主張するであろう。そうなれば、この裁判は成立しなくなるから、日本の天皇は裁判に出廷させてはならぬ」と命じられたことを明らかにした。そのうえでキーナンは、「私としては天皇を無罪としたい。貴君もそのように努力してほしい」と田中に"支援"を要請したのである。」(同前)

 

さらに、ヒロヒトの「独白録」作成に参加していた松平康昌も、ヒロヒトがマッカーサーとの最初の会見で、日本人戦犯は「悉く自分の命令で戦争に従事した者であるから、この人達を釈放して自分を処刑してもらいたい」と発言したと、田中隆吉に言いふくめている。

 これを聞いた田中は「私は死を賭して、天皇を無罪にするため、軍部の行動について知る限りの真実を証言しようと決した」のであり、田中の東京裁判における、責任をすべて軍部に転嫁する「真実の証言」は、「裁判の行方を左右するほどの重大な役割を果たすことになった」(同前)のである。

表舞台では、戦争責任を一切認めず、軍部に全面的に責任を負わせ、東京裁判から逃がれようとし、裏舞台では、マッカーサーに対し、全ての責任は自分にあるとヒロヒトが語った、という情報を流し、それに感動した人たちを利用して、やはり東京裁判での訴追を免れようとする、ここに日米合作の談合的な「国体護持」劇の情報操作のねらいがあったのだ。・・・

 

歴史の彼方の「全責任発言」と今日の歴史認識

・・・マッカーサー、フェラーズ、キーナンといったGHQと東京裁判検察側と、松平康昌等日本の天皇側近側が、一糸乱れぬ連携プレーによって存在しなかった、「全責任発言」を、非公式に流通させ、その実在性を証明するかのようにマッカーサーの『回顧録』が書かれ、さらにそれを傍証するような発言や回顧録を側近たちが積み重ねていく、という形で、天皇ヒロヒトの「全責任発言」が偽造され、かつ虚偽であることを確信犯的に知る人々によって「事実化」され、やがてヒロヒトの死によって「真実化」されてしまったのである。ここに、歴史を捏造することに権力者たちが成功した端的な例をみることができるだろう。・・・

さらに許しがたいのは、この『マッカーサー回想録』の真偽に関して、ヒロヒト自身は死ぬまでの三三年間沈黙を守りつづけた、ということだ。マッカーサーの発言についてのコメントを問われた際のヒロヒトの有名な答、「マッカーサー司令官と当時、内容は外にもらさないと約束しました。男子の一言は守らねばなるまい。世界に信頼を失うことにもなるので話せません」という発言は、これまでの分析に即して言えば、かなり素直な内容だと言えるのかもしれない。ヒロヒトは、自らの戦争責任に関して一切認めていない、ということが真相であるなら、ヒロヒトを「象徴」としている日本という国家が国際的信用を失うのは明らかだからである。・・・

 

現実逃避を続ける戦後体制

「ワレワレハダマサレタ」、戦後の馴れ合い構造

・・・「全責任発言」を軸にしたシナリオは、次のようになる。ヒロヒトこそは、まだ国民全体が軍部指導者に「ダマサレタ」状態にあった一九四五年九月二七日の段階で、たった一人マッカーサーに会いに行き、太平洋戦争をめぐるすべての責任は自分にある、とみごとに言ってのけた。・・・ヒロヒトが軍部にただ一人「ダマサレ」なかったからこそ(終戦の)「聖断」は可能になった。それはヒロヒトが一貫して平和主義者であったからであり、したがって太平洋戦争の開戦は、ヒロヒトの意思ではなく、軍部指導者の独走だったのだ。そして平和主義者であったからこそ、ヒロヒトは自らの名前で新しい憲法、戦争を放棄し、軍事力を持たないことを規定した憲法を国民にもたらしたのだ。だから、ヒロヒトに戦争責任はない。

おおよそ、以上のような論理において、昭和天皇に「全責任がある」と「責任はない」という、ホントとウソ、裏舞台と表舞台のまったく相反する言説が結合されているのである。・・・

 

「全責任発言」と憲法、そして安保体制へ

・・・ヒロヒトの天皇としての地位の保全と、日米談合の象徴天皇制への移行は、天皇の「名のもとに死んだ自国の兵士たちにたいする責任」を祭祀大権者としてとり、国内的な支持を取り付け、逆に「二千万のアジアの死者たちに対する責任」を軍部指導者になすりつけ、ヒロヒト自らは東京裁判の訴追を免れることによって可能になったのである。

つまりアメリカと結託することでアジアを切り捨てるという、「日米安保体制」の基本的発想が、このヒロヒトの免責劇のシナリオの中にあらかじめ胚胎していたのである。・・・

 

第六章 サンフランシスコ講和条約と日米安保体制下における象徴天皇制

踏みにじられた日本国憲法と講和条約

アメリカの庇護を求めた昭和天皇

昭和天皇ヒロヒトの戦争責任の免責とセットにされていた憲法九条問題に、最も敏感に反応したのは、驚くべきことにヒロヒトその人だったのである。

衆議院で新憲法が採択されたのが、一九四六年一〇月六日、その一〇日後の一六日に、ヒロヒトはマッカーサーと三回目の会談を行い、「戦争放棄を決意実行する日本が危険にさらされる事のない様な世界の到来を、一日も早く見られる様に念願せずに居られません」(『朝日ジャーナル』一九八九・.三・三)と、一一月三日に公布される新憲法の「戦争放棄」によってもたらされる「危険」についての不安を表明している。この会見の中で、ヒロヒトがこの年の五月一九日の「食糧メーデー」をはじめとする民衆の闘いの高揚について「日本人の改良未だ低く、且宗教心の足らない現在、米国に行われる「ストライキ」を見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思う様な者もすくなからず」(同前)と口をきわめて罵っているように、そこには日本の「共産化」への不安が強く表明されている。反共という一致点における、マッカーサーとヒロヒトの談合がはじまったのである。・・・

 ヒロヒトのマッカーサーへの発言は、明らかにこうした大衆的な運動による、日本の「共産主義化」に対する恐怖を表明し、マッカーサー=アメリカによる庇護を依頼するものであった。・・・

 つまり、この後の日米安保体制構築の発端を切り拓いたのは、新憲法で「象徴」となり、政治的行動をしてはならないとされたヒロヒトなのだ。ヒロヒトがあたかも「元首」のようにふるまい、自らの保身を、マッカーサーに要請した、というのが、この会談なのである。

 

生贄としての沖縄=「沖縄メッセージ」

さらに重要なのは、このマッカーサーとの会見から五カ月後、一九四七年九月、昭和天皇ヒロヒトは、アメリカによる沖縄の軍事占領は、「二五年から五〇年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)というフィクション」の中で行われるべきだとした「沖縄メッセージ」(新藤栄一「分割された領土」、『世界』一九七九・四)を出したのである。

「国体護持」としての自らの延命のために、多くの民間人を含めた甚大な犠牲者を出させ、いわば捨て石にしてしまった「沖縄」を、ヒロヒトは、いま一度自らの身の安全と引き換えにアメリカに売り渡そうとしていたのである。・・・

 明らかにヒロヒトは、ソ連を中心とする"共産主義"の「脅威」が、国内の大衆運動と結びつくことによって発生する「日本の内部への干渉」を恐れて、「沖縄」をマッカーサーに売り渡すことによって、「国体護持」を図ろうとしたことになる。

 マッカーサーのアジアにおける対ソ連戦略に全面的に協力することと、自己保身を結びつけ「沖縄」を「ソ連による日本本土への直接、間接の侵略にたいする"防波堤"として位置づけ」たのであり、かつて「本土防衛の"捨て石"」(同前)とした「沖縄戦」の場を、再び「国体の護持」という自らの安全確保の生贄としてマッカーサーに献げたのである。「天皇やその側近グループにあっては、沖縄は一貫して本土防衛あるいは「国体護持」のための"手段"であり、"捨て石"と見なされてきた」(同前)のであり、こうした「沖縄」の位置付け方は、実は現在においてもまったく変わっていないのだ。

 

踏みにじられていた日本国憲法、東条のミステイク

私は、豊下の次のような認識がきわめて重要な意味を持つと考える。

「……かりに天皇が五〇年以上もの米軍占領を認めるようなメッセージではなく、マッカーサーとの初会見で語ったとされる同じ言葉をもって、「一身はどうなってもよいから」悲惨な地上戦を体験した沖縄については軍事の拠点にすることだけはなんとしても避けてほしい、といった姿勢を鮮明にうちだしていたならば、国務省内の沖縄返還論とも"共鳴"しあって、事態がなんらか変化した可能性も否定できないであろう。

しかし、結果として沖縄は、天皇のメッセージの構想に近い、「潜在主権」は残しつつ事実上の米軍支配下におかれる、という歴史を歩むことになった。こうして、本土の「全土基地化」と日米の"防波堤"としての沖縄軍事占領からなる安保体制が形成されることになったのである。」 (豊下、前掲書)

「沖縄」をアメリカに売り渡した「沖縄メッセージ」は、そもそも新しい憲法に違反する形で昭和天皇ヒロヒトが、極秘で内閣を無視して外交・内政上の越権行為を行ったことの証しにほかならない。・・・

「沖縄メッセージ」からほぼ三カ月後の一九四七年一二月三一日、「東京裁判」におけるヒロヒト免責のシナリオが最大の危機に直面する。ローガン弁護人から「天皇の平和に対する御希望に反して、木戸侯が何か行動をとったか。あるいは何か進言をしたという事例を、一つでもおぼえておられますか」という問いかけに対して、前日、この戦争が自衛戦で、国際法に違反しないと主張し、開戦責任を敗戦責任に置き換えることに成功した東条英機は、決定的な発言をしてしまったのである。

 

「そういう事例は、もちろんありません。私の知る限りにおいては、ありません。のみならず、日本国の臣民が、陛下の御意思に反してかれこれするというはあり得ぬことであります。いわんや、日本の高官においておや。」 (『極東国際軍事裁判速記録 第八巻』、雄松堂書店、一九六八)

 

 東条の論理にそのまま従えば、日本国の臣民であれば誰も、とくに「高官」にいたっては、決して天皇の意思に反対することなどできない、ということになるのだから、すべての戦争は天皇の意思において遂行されたということになると同時に、もし意思に反していたのなら、ヒロヒトが開戦を拒否すれば、太平洋戦争は発生しなかったということになる。

 いずれにしてもヒロヒトの開戦責任はある、ということになるのだ。

キーナンはただちに天皇の側近を動かし、東条の発言を撤回させるように指示した。そして一九四八年一月六日、東条英機は自らの発言を撤回したのである。

こうした一連の事態が動いている中で、「うらうらとかすむ春へになりぬれと 山には雪ののこリて寒し」(一九四八年一月二九日「新年御歌会始」の際のヒロヒトの歌)といった言説を平然と発話できてしまう者であればこそ、国民に対する憲法遵守の発言を、平気で裏切り、自らの保身のために、ソ連と共産主義の脅威から、確実に自分を守ってほしいとマッカーサーにすがりつくことができたのであろう。

(以下、略)