平安女学院大学就学権確認訴訟、「意見書」の公開(2005.8.26)

 

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2005年08月26日

平安女学院大学就学権確認訴訟、「意見書」の公開

 平安女学院大学就学権確認訴訟において,2つの「意見書」が大阪高裁に提出された。その1つを下記に掲載(もう一つは,「就学権確認訴訟を支援する大学人の会」HPの裁判資料に掲載している)。

2005年7月21日

大阪高等裁判所民事5部1係 御中

意見書

平安女学院大学びわ湖守山キャンパスの
高槻キャンパスへの統合について

龍谷大学経営学部助教授  細川 孝

 私は2000年4月から龍谷大学経営学部に勤務し、経営学(企業論)の教育・研究に携わっています。また、昨年3月に設立された大学評価学会の会員(事務局次長)として、大学問題についての研究をすすめているところであります。
 以下、このような私の専門分野との関わりから、平成17年(ネ)第1783号 就学権確認等請求事件についての意見を申し述べます。

 学校法人も一つの経営体であり、その存続・発展のために、様々な意思決定を行いながら、運営がなされています。同時に、学校法人は私立学校法の規定に従って所管庁の認可を得て設立されるものであり、国または地方公共団体が設置する学校と同様に「公の性質をもつもの」(教育基本法第6条)であります。したがって、一般の企業とは違った側面を持つことに留意しなければなりません。それは、端的に表現すれば高い公共性ということであります。私立大学は、私立学校振興助成法にもとづいて、所謂「私学助成」を受けています。このことは、日本国憲法第89条に規定する「公の支配」に属するからこそ可能となっているものであります。
 このような学校法人の特質を考えた場合に、平安女学院大学びわ湖守山キャンパス(以下、守山キャンパス)の高槻キャンパスへの統合については、大きな問題があると考えるものです。経営体としての学校法人が行う意思決定によって、何らかの就学条件が変更されることは一般的にあり得ることです。しかし、本件で争点となっている「守山キャンパスに就学する具体的権利」について見た場合には、一般論として片づけるにはあまりに大きな問題が存在しています。
 どのようなキャンパスに学ぶかという問題は、学生が大学や学部を選択する際に、大きな基準の一つとなるものです。したがって、就学権の重要な構成要素をなすものと解されるべきです。平安女学院大学自身も守山キャンパスにおける地域社会とも密着した教育を積極的に広報し、受験生を募集してきたのであります。
 このような経緯からして、本件において、学校法人が一方的にキャンパス統合を決定することは、許されることではありません。また、仮にキャンパスを統合するにしても、在学生については卒業年次まで元のキャンパスでの就学を保障するということは最低限必要な措置と言えるでしょう。現にそのような大学はいくらでも存在しています。
 経営体としての学校法人ということを考えた場合に、守山市に平安女学院大学を設置するにあたり、守山市と滋賀県から多額の補助金を得ていることも注視されなければなりません。平安女学院大学を誘致するに際して、守山市は「大学を核とした街づくり」の一環として、大学との間で協定書を締結していることも想起されるべきです。設置後わずか5年で守山キャンパスから撤退し、高槻キャンパスに統合するという点については、当然、守山市と滋賀県に対しても重大な経営責任が生じます。平安女学院の対応は、この点でも全く不十分との印象を持つものです。
 経営学では、近年「企業の社会的責任」が盛んに議論されています。また、企業倫理をめぐる研究も活発になっております。現実の企業の動向を見た場合には、依然不祥事が生じるなど、必ずしも明るい側面ばかりではありませんが、市民の側から企業をチェックしようという動きも強まっています。社会的責任投資などもその一つとして解することが出来るでしょう。そのような下で、本来は高い公共性を持つ学校法人が、一方的にキャンパス統合を決定し、学生の就学権を奪うなどということは、決してあってはならないことであります。
 理念的に述べるならば、学校で行われることは、全て教育的な観点が貫かれるべきであります。就学条件を変更するのであれば、学生や父母などに対して教育的な観点から説明し、納得してもらい、そして必要な対応をとるということでなければなりません。また、本件で問題となっている、行政や地域社会などの利害関係者との関係についても、学校法人にふさわしい形で対応がなされなければなりません。
 本件で問われているのは、学校法人の持つ高い公共性と教育機関としての本来のあり方であると考えるものです。
 今日の日本では、教育が普通の商品と何ら変わらないものにされとしており、権利としての教育は否定されようとしています。このような風潮が強まる下で、一人の学生が本裁判において提起した問題を、大学において教育・研究に携わる者として深く受け止めたいと思います。

以上

 

投稿者 管理者 : 20050826 00:41