横浜市立大学、現場の教員に単位認定権を与えず外部試験を進級・卒業要件にすることの問題性 永岑三千輝氏『大学改革日誌』(2005.10.5)

 

http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/SaishinNisshi.htm 

 

 

10月5日 横浜市大新聞ニュースブログが、記者会見で広報された学長選に関して論評している。適切な論評[1]脚注1であり、こうした学生自身の声は貴重である。

教育重視といいながら、それにふさわしい実態となっているか、その現実を一番感じているのは、学生や院生であろう。現場の教員に単位認定権(責任と表裏の権限)を与えず(これ以上の現場無視はないのではなかろうか)、画一的外部試験を進級(必然的に卒業)要件にするといったことの問題性[2][2]脚注2は今後ますます深刻化するのではないかと危惧される。そうした点についても当事者である学生自身が認識し、行動によって問題提起していく必要もあろう。教育重視を掲げる以上、学生のまとまった声は実現しやすくなっているはずだから。

掲示板には学生自治会に関する公募文書が張り出されている。学生と大学当局・経営当局の意思疎通にはそれなりのシステム作りが必要だろう。学生の希望をどこまで広く深くくみ上げることができるか、学生諸君の自立的自主的な行動に期待したい。

ニュースブログのような手法も使いながら、市大新聞が学生の現場感覚を大切にし現場で直面する問題群を自主的自治的に取りまとめ、文章化し、新聞などで公開していくことで、教育と研究の「現場」(根底)から、自由で創造的な大学に(行政主義的トップダウン式の大学から自治自律的大学へ)変えていくことに貢献するならば、すばらしい[3][3]脚注3

 

[脚注]

(1)

現学長は、学生諸君とは食堂で話し合う機会もあったようであるが、教育研究を担う教員とはどうか? 何を具体的にやってきたのか、われわれにはさっぱりわからない。

 学生諸君との場合でも、食堂で出会わないような多くの学生との交流はどのようになっているのか?

 「昼食会」という発想それ自体は、ひとつの場の設定として有効な場合もあるが、大学改革の推進という本筋のところでは、そのような場がどのように機能するのであろうか?

 

(2)

ひとつの科目で外部試験を進級要件にするということは、他の科目ですべて合格点を取っている学生でも進級(必然的に卒業)できないということである。大学の外部の試験(ハードル)が、大学の内部のすべての教育(単位認定)を否定できるということではないか?

進級(卒業)要件とされないその他すべての科目の単位認定、したがって現場のすべての教員の単位認定権も、進級(卒業)に関しては無効にするものである。このことは重大かつ深刻だと思われる。今回の「改革」の問題性が象徴的に露呈しているのではないだろうか。誰が、どのような組織が、どこできめたのか? その証拠文書は?

 教員に対する全員任期制や年俸制などの行政当局(いまでは法人当局)による画一的押し付けがいかに問題であるかは、「少数の先生方のこと」と、普通の市民には分からないかもしれない。しかし、学生の進級の(進級できなければ卒業できないので卒業の)要件が外部試験にある、ということの問題性は、市民の多くが理解できるであろう。

 かつてならば、医学生を例に取れば、医学部の単位を取得すれば卒業できる。外部の試験(国家試験)、すなわち医師国家試験に受からなければ、医者としては活動できないが、医学部を卒業したということは厳然たる事実となる。医学知識を持った医学部卒業の医事評論家や文筆家としての社会的活躍も可能であろう。

しかし、新しい制度でトッフル500点をクリアできない医学生は、医学部さえ卒業できないことになる。

医学部の学生にとって、将来の医者にとって、トッフル500点で試される英語の力は、医学専門雑誌を通じて取得する最先端の医学知識とどのように相関するであろうか?

 トッフル500点などクリアできない(これまでそんなことはなかったからかつての医学生のかなり多くはそうではなかろうか・・・事実誤認か?)医学生も、専門の英語文献を読み、すぐれた医者となっている。現在のすぐれた医者でトッフル500点の関門を超えるような人がどの程度いるのか?

 英語教育の実情に詳しくないので、疑問がつぎつぎと出て来る。

 

(3)

定款や学則を変える必要があるが、それは気の遠くなるようなことだ。学則(の決定・変更)はいまや教授会や評議会といった組織で行われなくなっているから、現場の教員の力は発揮できないに等しい。

「定款=諦観」というのは教員の発想だが、若い学生諸君はそれとは違うであろうことを期待したい。