“真っ当さ”って何よ FREE
SPEECH─「自由な言論」は何処にある?(2005.10.28)
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2005.10.28 Friday
“真っ当さ”って何よ
author : takeyama
■■■■■“真っ当さ”って何よ
逆に言えば、「真っ当さって、何よ」という疑問でもある。
▼「中央日報」の時事評論「靖国参拝のむなしい言い訳」
(パク・チョルヒ ソウル大学国際大学院教授)
では、
「挫折感さえ感じると言う潘基文(パン・ギムン)外交部長官の言葉に同感する」
「戦争と植民地支配に対して謝りと反省をするという8.15談話は何の意味ももたない」
「2度と戦争してはいけないから神社を参拝するという話も不合理な説だ。戦争責任を負った戦犯たちが祭られている所を参拝しながら、戦争を美化するのではないと強弁しても信じる人はいない」
「日本人は死ねばすべて神様になるから罪を問うことができないという話も詭弁だ。それならどうして戦犯を処罰し、どうして罪と罰を問うたのか問い返したくなる」
「小泉首相の立場で見れば『毎年必ず靖国神社を参拝する』という公約をした以上、行かなければ政治的約束違反だ。結局、自分が吐いた言葉に自分が縛られてしまっている」
という真っ当な意見が載っていた。
▼また、中国外交部の孔泉報道官は、17日の参拝について
「被害国の国民の感情を傷つけることは二度とすべきではない。これは、中日関係の改善と発展の前提となる条件・基礎だ」
「小泉首相は、中国や他のアジア諸国の平和を愛する人々による再三の反対も顧みず、自身の考えに固執し、歴史を反省するという自身の約束に背き、第2次大戦のA級戦犯を祭った靖国神社を参拝した。われわれはこれに対して、強い憤慨と断固たる反対を表明する」
という真っ当な意見を述べた(10月20日の定例記者会見)。
▼信濃毎日新聞10月21日付夕刊「今日の視角」では野田正彰が「靖国参拝の波紋」と題し、
(前略)2001年8月13日の初の参拝のときは鳴り物入り、後は意地の参拝となっている。それでも、私たちは彼の行為のつけを確実にとらされるだろう。
ひとつは中国政府の嫌悪感が強まること、そのため東シナ海での天然ガス田開発問題など多くの問題が生じ、その解決は非友好的になっていくであろうこと。
もうひとつ、総選挙前は小泉首相の靖国参拝に反対する国民が多かったが、選挙後の世論調査では賛否が拮抗していることに見られるように、中国政府や中国人の反発に反応して、中国への嫌悪感を抱く日本人が増え、それは日本と中国の緊張へとつながっていくであろうことである。
相手のことを少し考えてみよう。日清戦争から数えなくとも、満州事変からの15年で、中国は日本に侵略され、人々は殺され、奪われ、踏みにじられたのであった。それらを体験した中国人は行為者である日本人を憶えており、決して少数の軍国主義者が命令してさせたものとは思っていない。
にもかかわらず、建国後の中国政府はA級戦犯に代表させられる一部の軍国主義者が行った侵略であり、日本人民もまた戦争の被害者であると説明してきた。中国人の誰もが納得できない、このような建前の説明が通ってきたのは、一党独裁の国であったからである。日中の国交回復もこの建前の上に成立した。
今、日本の首相がA級戦犯を祀る靖国神社に参拝し、「英霊」を「慰霊・顕彰」する。これでは、中国政府は中国人民にいかなる釈明もできなくなる。こうして一部の軍国主義者による侵略戦争という無理な説明は過去のものとなり、侵略戦争を反省しない日本人という事実が表に出てきたのである。
ひとりの男の意地と「見得」のために、日中の緊張が高まり、日本人はさらに他国の人びとが見えなくなりつつある。
という極めて真っ当な意見を書いていた。
ぼくはこれらの意見を真っ当だと考える。
その真っ当さを霞ませるほどの「反応の嵐」が、インターネット内には吹き荒れており、マスメディアの情報に触れても、真っ当と狂妄との区別が付かない。
もしかしたら、インターネット内での言論活動は、「思考する」とか「考える」という行為にそぐわないのかも知れない。「反応」に継ぐ「反応」に継ぐ「反応」。自己満足と、際限ない衝動的な「反応」。反応に馴れた者たちが延々と神経症的に馴れ合う。奇妙に不安定な「場」。
すべては不毛な自慰行為に過ぎないのかも知れない。
まぁ、自分で考えるしかねぇな。各々が、ね。
| 小泉首相のA級戦犯参拝 | 02:39
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