靖国神社のA級戦犯合祀 「東京新聞」核心(2005.10.31)

 

http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20051031/mng_____kakushin000.shtml

 

 

靖国神社のA級戦犯合祀

 東条英機元首相らA級戦犯が靖国神社に合祀(ごうし)されたのは、1978年秋だが、合祀へと向かう大きな節目は66年2月にあった。旧厚生省(現厚生労働省)が刑死するなどしたA級戦犯の「祭神名票」を神社側に送り、合祀の前提になったからだ。ところが、この手続きは同省の事務方トップらの知らないところで進められていた。中心となって作業を進めたのは、旧陸軍の流れをくみ元軍人が仕切る援護局(現社会・援護局)調査課だった。 (社会部・加古陽治、沢田一朗)

■仕切る調査課 

 「私たちの課だけ、皆軍人か軍属ばかり。昔の軍隊を引きずっていた」−。一九六〇年代に調査課に在籍した職員は、こう振り返った。

 旧厚生省援護局は、旧陸軍省と旧海軍省の流れをくむ第一、第二復員省がルーツだ。引揚援護庁を経て本省に統合されたのが五四年。幹部には元軍人も少なくなく、特に靖国神社から依頼された戦没者調査に携わる調査課は、職員も元軍人や遺族がほとんどで、省内でも異質な課だった。

 ここに戦後間もない四五年十二月から六三年三月まで在籍し、強い影響力を行使したのが、終戦時の阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相の高級副官を務めた故美山(みやま)要蔵氏だった。

 美山氏はA級戦犯として終身禁固刑を受けた南次郎元陸相の親類で、東条氏とも陸軍時代から交友があった。没後出版された著書では、終戦後間もなく東京・用賀の自宅に東条氏を訪ねたことを回顧。「(靖国に)未合祀の戦死、戦災者、戦争終結時の自決者も合祀すべきである」「本戦争が国際道義に立った戦争なりとの印象だけは、後世に残さねばならぬ」と言われたと記している。

■東条氏元側近 

 長く援護局次長を務めた美山氏は六三年に退官したが、祭神名票の送付は、その三年後、陸軍の後輩である局次長と課長の下で行われた。新証言と合わせると、東条氏らに親近感を持つ元軍人たちが、仲間内で合祀を目指した様子が浮かぶ。

 美山氏は靖国神社とも深い関係があった。神社が国会図書館に提供した資料によると、戦前、戦時中を含めた戦没者合祀は、神社を所管する陸軍、海軍両省の大臣官房に置かれた審査委員会で審査の上、天皇の裁可を得て行われていた。審査委員長は高級副官。つまり、美山氏は靖国への合祀を決める責任者だったのだ。

 靖国神社は六四年、厚生省に「未合祀者の合祀を進めるため、保留になっていた者を含めて、全戦没者の氏名や死因を把握したい」と要望した。しかし、A級戦犯について言えば、名票を送られてから十二年以上も合祀しないなど、神社側が合祀を急いだ形跡はない。

■宮司は元少佐 

 神社側は七〇年、東条内閣で大東亜相を務めた総代の青木一男参院議員(当時、故人)に「東京裁判の結果を受け入れることになる」と迫られるなどし、合祀を決めたとされる。だが、時期については「宮司預かり」とされ、旧皇族の山階宮家出身の故筑波藤麿宮司は在任中に合祀しなかった。

 それが七八年、一転して合祀に踏み切るのは、筑波氏が亡くなり、後任に故松平永芳宮司が就任してからだ。元海軍少佐で、陸上自衛隊に勤務した松平氏も元職業軍人。義父は、インドネシアでのオランダ軍事法廷で死刑とされた醍醐忠重海軍中将だった。

 こうしてみると、東条氏らの合祀は、戦犯の名誉回復を望む、旧日本軍や大日本帝国の色濃い人々のリレーで進んだことが分かる。A級戦犯合祀は、祭神名票の送付から十二年半後。それが表面化するのは、さらに半年後−。それまでの間、一般国民に情報がもたらされることはなかった。