自己腐食する横浜市大、主人不在の「あり方懇」 待たれる当事者による発足(2005.11.1)

 

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2005年11月01日

自己腐食する横浜市大、主人不在の「あり方懇」 待たれる当事者による発足

■横浜市立大学大学院『思惟と聯流』第4号(2005年10月15日付)より

自己腐食する横浜市大、主人不在の「あり方懇」 待たれる当事者による発足

 横浜市立大学の改革は横浜市財政の逼迫という外部的要請で始まった。大学の内側から学問的な要請によって起きたものでない。この二つの事柄を混乱させてしまったところに改革問題の見えにくさがある。前者の立場から進行中の改革のしわ寄せが、院生の研究生活にも不具合をもたらしていることは本紙でも度々伝えてきた。
 ここでは後者の事柄を問題としたい。そこで、今までの改革を批判する傾向を見直しておこう。大きく言えば二つの動向があった。一つはノスタルジックな闘いであり、もう一つはジャーナリスティックな闘いである。すなわち大学の存続を訴えることであり、また任期制の導入を批判することであった。こうした提起はそれ自体として切実なものであり、意見書、集会、新聞等の報道でも伝えられた。しかし遺憾ながら、市民の多くから支持を得られて、議論も深まったとは言い難い。学外の者からすれば、廃校けしからん、教育・研究の質の低下はいかん、という主張は実に耳に入りやすいものであったが、聞いているそばからすぐ抜けていった。
 なぜか。一体何を存続させたいのか見えてこなかったからである。つまり、守るべきものが本当にあるのかという問いを大学自らが立てることがなかったということである。これこそ最重要の問題ではないか。結果的に言えば、上記の闘い方の陰になってしまい、その問いは立てられることなく回避されてしまったのではないか。
 そもそも改革の発端は二〇〇二年九月に、中田市長の諮問機関として大学の当事者を一人も加えていない「市大のあり方懇談会」を発足させたことにあった。この会の議論については当時すでに市民や学生からのニーズ把握した形跡がない、という批判が教員側から起きた。正しい指摘であろう。しかし改革前の横浜市大が市民や学生と連帯した大学として在ったのかは興味深い問題であろう。なぜなら、今回の改革問題につき当事者たちの連帯すらよく見えてこなかったからだ。言うまでもなく「当事者」とは私たち大学院生も含まれているわけであり、こうした当事者意識の「あり方」に反省と疑問を持たざるを得ないのである。
 いわゆる「横市気質」(無関心・無応答)とは精神的自立のできない院生の一傾向を指すのではなく、大学全体に深く根付いていて、それを伝搬する装置として作動し続けてきたのだとも考えられる。そうだとすれば、やはり内側からの改革は必要とされていたのである。その意味では大学院生自らが研究成果の検証や研究環境を検討する場を形成することが緊要である。本当は今こそ学生や市民を含めた大学の当事者から成る「市大のあり方懇談会」が必要とされているのである。

 

投稿者 管理者 : 20051101 00:01