父は合祀に慎重だった 故筑波宮司の長男証言 「東京新聞」(2005.11.2)

 

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父は合祀に慎重だった

故筑波宮司の長男証言

 戦後長く靖国神社の最高責任者である宮司を務めた故筑波藤麿氏が、東条英機元首相ら「A級戦犯」の合祀(ごうし)について「戦争の犠牲者の合祀が終了してからあらためて考えたい」と語り、慎重な姿勢を示していたことが一日、分かった。長男の元早稲田大教授常治(ひさはる)さん(75)が証言した。筑波氏は実際、神社の総代会が合祀方針を決めた後も一九七八年に亡くなるまで合祀しておらず、東条氏らの合祀に消極的だったことがあらためて裏付けられた。

 常治さんによると、筑波氏はBC級戦犯が初めて合祀された一九五九年ごろ、「BC級の人は(国の方針に従った)犠牲者なのだから、すぐに合祀しなければいけない。それに対し、A級の人は責任者だ。責任者と犠牲者をすぐ一緒にお祭りしては、犠牲者が納得できないのではないか」と話したという。

 常治さんは、そうしたA級戦犯の合祀について慎重な父親の考え方について「生涯変わらなかったと思う」と語った。

 また「子供のころ、神社の近くに住んでいた父にとって、境内は縁日などがある楽しい場所だった。それが戦時中に軍国主義になっておかしくなった。『昔の招魂社の時代に戻したい』というのが基本的な考えだった」とも証言。「(後継宮司の)松平(永芳)さんになって(神社の方針が)変わった」と述べた。

 筑波氏は旧皇族山階宮家の出身で、四六年に宮司に就任。七八年に七十三歳で在職のまま亡くなった。

 A級戦犯の合祀をめぐっては、旧厚生省(現厚生労働省)が六六年、東条氏ら十二人(後に二人を追加)の名前を記した祭神名票を神社側に送付。七〇年の総代会で東条内閣の大東亜相だった青木一男参院議員(当時)らが強硬に主張し、合祀の方針が決まった。しかし、筑波氏が時期について「宮司預かりにしてほしい」と要望。結局、在職中に合祀することはなかった。

 ところが、後任の松平宮司は就任後初めてとなる七八年秋の例大祭に合わせて合祀することを決定。秘密裏に十四人のA級戦犯が合祀された。それ以降、神社側の度々の要請にもかかわらず、天皇の靖国参拝は途絶えたままになっている。