日本平和大会 日々通信 いまを生きる 第182号 (2005.11.27)

 

 

        >>日々通信 いまを生きる 第182 20051127日<<

     
1 日本平和大会

     
日本平和大会が神奈川で開かれた。
     
私は地元を代表して歓迎の挨拶をした。

     
アメリカのイラク戦争は抜き差しならぬ泥沼におちいり、人的、経済的
     
出血は累積して、アメリカ社会を根柢からゆるがしている。
     
アメリカの一国軍事主義は破綻した。
     
大義なき戦争は国の内外から強く批判されている。

     
しかし、アメリカは、さらに新たな敵を見出して、日本の基地を強化し、
     
世界のどこへでも出撃できる体制を構築しようとしている。
     
米軍横須賀基地への原子力空母の配備母港化、「キャンプ座間」への
     
米陸軍第一軍団司令部の移転、沖縄・辺野古への新基地建設計画など、
     
米軍基地はますます強化され、地域住民にさらなる犠牲を強いている。

     
関係地域の住民は怒りの声をあげている。特に注目すべきことは、それ
     
ぞれの市町村長や県知事、地方議会が強い反対の意志を表明し、地域ぐ
     
るみの闘争に発展してることである。ここに基地闘争の新しい段階があ
     
る。

     
戦後60年たった。いま、新たに多額の経費を負担して基地を拡大強化す
     
ることは、基地を恒久化し、さらに何十年も子や孫にまで、犠牲をはら
     
わせることになる。

     
地元自治体は基地の整理縮小を強く訴えてきた。防衛庁は地元の意見は
     
十分に尊重すると言っていた。しかし、地元の意志をまったく無視した
     
基地の強化が強行されようとしている。

     
小泉首相はブッシュ大統領との首脳会談で、この住民の強い反対意思を
     
伝えるどころか、うれしそうな顔をして、日米同盟の強化を讃美し、
     
「平和と安全の中に日本の経済的発展がある。経済的発展という恩恵を
     
受けるためには、しかるべき負担、代価を払っていかないといけない」
     
などと述べた。

     
星野座間市長は政府の無責任な態度に抗議し「根性を入れ直して、ミサ
     
イルが撃ち込まれても阻止する」と反対市民集会で挨拶した。病気をお
     
して出席した小川相模原市長「命がけでたたかう」と述べた。

     
保守も革新もない、ながいあいだ米軍機の騒音に苦しんで来た市民のは
     
げしい怒りが爆発した。いま、たたかわなければ、この苦痛が恒久化さ
     
れるのだ。米軍基地を撤去返還せよ。この市民の戦いをはげまし、米軍
     
に反対するために、全国から集まって大集会が開かれようとしている。

     
このような市民の運動はいまのマスメディアでは報道されず、日本国民
     
はあまり強い関心を示していないように思われる。
     
メディアはそのことで新しい日米軍事同盟に協力しているのだ。
     
この市民の声を国民の声にし、この戦いを日本国民の戦いに発展させる
     
ことが出来ればうれしい。

     
3分の挨拶なので通り一遍のことしかいえなかったが、横須賀に住んで
     
いる私には、横須賀が原子力空母の母港になることに格別の思いがある。

     
海と山の美しい眺望に引かれてこの町に住むことになった私は、その時、
     
どうしたわけか横須賀がアメリカの基地であることをほとんど意識しな
     
かった。

     
しかし、イラク戦争には横須賀からキティホークが出撃して、イラク人
     
民を大量に殺戮したのだ。横須賀は座間の米軍司令部とともに、アメリ
     
カの戦争の要なのだ。

     
神奈川は東京とひとつづきの人口密集地帯だ。こんなところに米軍の基
     
地があり、司令部があり、原子力空母の母港があるとはどういうことだ
     
ろう。

     
日本が敗戦後60年、米軍の軍事的支配の下にあることの端的な表現では
     
ないか。
     
小泉首相はイラク戦争の大義について聞かれて、日本には独自の情報能
     
力も軍事力もない、だから、日米関係が大事だと、ひたすらアメリカに
     
従属することを恥じる様子もなく述べた。

     
その小泉首相が、憲法改訂に熱心だ。自衛の権利とか、軍隊とかを強調
     
して、中国をはじめアジア各国の批判にもかかわらす、靖国参拝をつづ
     
け、アジアに対しては他国にあれこれ言われることではないと傲慢であ
     
る。
     
アメリカにはぺこぺこ、アジアにはそっくりかえる。なんともいやしい
     
根性だ。

     
この対米従属、対アジア傲慢という傾向は小泉内閣になって急速に進ん
     
でいるようだ。
     
これが日米軍事体制再編成と憲法改訂の動きがセットになっているとこ
     
ろにいまの特徴がある。
     
この傾向はイラク戦争を背景に急速に強まった。

     
アメリカではブッシュ大統領の失敗が問題になり、世界的な孤立も進ん
     
でいるときに、日本がほとんど唯一の同盟国になったような感があり、
     
それを小泉首相は喜んでいるらしい。

     
「日米関係が良ければ、中国、韓国、アジア諸国との関係も良くなる」
     
という小泉首相だが、彼はそれを本当に信じているのだろうか。

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[2] 中国を訪ねて(その2

     
北京空港から保定に向う途中に蘆溝橋がある。
     
蘆溝橋には何度か行ったが、それは明代にかけられた美しい石の橋で、
     
日本軍が砲弾を撃ちこんだ宛平の城壁はこの橋から遠くに見るだけだっ
     
た。今度は、その城壁のすぐ傍まで行き、砲弾の痕を見た。

      1937
77日にこの蘆溝橋でだれが撃ったかもわからない1発の銃声を
     
きっかけに日本軍が攻撃を開始し、宛平の町に砲弾を撃ちこんだのだ。
     
それが、あの途方もない戦争のはじまりとなった。

     
すでに時間が遅くて抗日記念館をみることはできなかったが、平和な宛
     
平の町を歩いたのは感慨深かった。
     
あの蘆溝橋の戦闘の記事は私も読んだ記憶があるが、実に唐突で、それ
     
があのような長期にわたる泥沼戦争になるとは想像もできなかった。
     
まして、砲弾をうちこまれた宛平市民にとってはまったく思いがけない
     
ことだったろう。

     
当時の新聞は現地解決とか、局地解決とか、不拡大方針とか書いていて、
     
あのような戦争になるとは想像できなかった。
     
後になってみれば、すべては既成事実の連鎖で当然極まりない展開と思
     
われがちだが、その時代を生きたものにとっては、戦争とはそういう想
     
像できないことの連続なのだ。

     
北京は抵抗することなく日本が支配し、親日傀儡政府が樹立されたのだ
     
ったと思うが、日本軍に対する頑強な抵抗をして、激戦の末に陥落した
     
のが保定だった。

     
保定の戦闘は新聞記事にもなったし、入城式の写真は大きく紙面を飾っ
     
たから、当時から、私は保定という町を知っていた。

     
この保定は、20年前には北京から鉄道で行った。ディーゼル機関車の列
     
車で2、3時間はかかったと思う。
     
はじめて乗る中国の列車だし、はじめてみる中国の風景だったので、車
     
窓に展開する広大な田園風景を感激しながら眺めていた。
     
この田園地帯をかつて日本軍は徒歩で行軍し、戦闘したのだったと思う
     
と感慨はさまざまだった。

     
いまは、ほとんど直線の高速道路を時速100キロぐらいで疾走し、1時間
     
あまりで到着する。
     
河北大学は高速から保定の市街に入ったとっつきのところに広大な土地
     
を取得して、新校舎を建設中だというが、いまもすでに大拡張して昔の
     
面影は容易には見出せない。

     
保定の町はネオンのアーチに飾られて大変な美しさだった。
     
河北大学にはいるとメインの通りに、「熱烈歓迎中国小林多喜二国際シ
     
ンポジウム」と赤地に黄色の文字を染め抜いた横断幕が何本も掲げられ
     
ている。全学的に歓迎するという晴れ晴れしさだった。

     
以下次号

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今年もやがて12月をむかえようとしている。
     
この1年は大変に多事だった。
     
晩年にこんな多事の日々を送ろうとは思いがけなかった。
     
皆さんもそれぞれに忙しいことでしょう。
     
からだに気をつけてお過ごしください。

     
伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu
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漱石の広場 から

     
新掲載 「この宿なしの小猫」 返信  引用
     
日付:1123() 80

     
漱石雑談
     
この宿なしの小猫
     
漱石は〈捨て猫〉に変身し、〈捨て猫〉の言葉で語った『吾輩は猫であ
     
る』で、はじめて作家としての道を歩き始めた。

     
『坑夫』の主人公は家出して漂泊し、地の底まで迷って行く。『三四
     
郎』の美禰子は自分を「お貰いをしない乞食」と言い、「迷子(ストレ
   イシープ)」と言う。

     
「明暗」の終りに近く、馬車で清子のいる温泉に向かう津田は、しきり
     
に鞭打たれる惨めな痩せ馬を見て、自分自身をこの「彼の眼前に鼻から
     
息を吹いている憐れな動物」と同じだと思う。津田は、「温泉烟(ユケ
   ムリ)の中に乞食の如く蹲踞(ウズク)まる津田の裸体(ハダカ)姿」
   と形容されるのである。

     
〈捨て猫〉〈迷子〉〈乞食〉のイメージは、漱石の作品世界の裏と表に
     
始めから終りまでさまざまな形であらわれ、漱石の文学世界をつらぬく
     
一筋の赤い糸となっている。
      ↓
      http://tizu.cocolog-nifty.com/souseki/

     
他に、次を新しく掲載しました。

     
文学にみる戦争と平和
     
56回 20059月 堀田善衛 「審判」その2