南京虐殺 伊豆利彦 日々通信 いまを生きる 第185号 (2005.12.13)

 

 

        >>日々通信 いまを生きる 第185 20051213日<<

     
南京虐殺

     
日本軍は19371213日、南京を占領し、17日に入城式をおこなった。
     
このときの様子は新聞紙上に大きな写真入りで掲載され、ニュース映画
     
でくりかえし上映された。
     
その時知った光華門とか中山門という名はいまにいたるまで記憶に残っ
     
ている。


     
南京陥落を祝う旗行列や提灯行列のことは前号に紹介したが、
     
 日々通信」第124号 200412月8日 4度めの12月8日
     
 http://homepage2.nifty.com/tizu/tusin/tu@124htm.htm
     
津田道夫さんは、陥落前から祝賀行事が全国的に繰りひろげられたと述
     
べている。

     
<中国侵略戦争が全面化した1937年、私は小学二年生になっていま
     
したが、12月にもなると子供の間にさえ、南京陥落が話題となりまし
     
た。つまり、南京陥落への期待は国家的関心をさらったわけです。その
     
大衆的気分に押されて、政府は、南京陥落の二日前、37年12月11
     
日(土)、東京をはじめ各地で祝賀行事を全国的に繰り広げました。私
     
が住んでいた久喜市も例外でなく、当時小学二年生だった私は、その日
     
の午後、祝賀旗行列に参加したのを、はっきりと覚えています。そして
     
この「祝南京陥落」のお祭り騒ぎは、以後数日つづきました。このとき
     
南京では、日本侵略軍によるあらゆる残虐行為の「血祭り」が演じられ
     
ていた訳で、いま思い返して、まことに忸怩(じくじ)たるものがあり
     
ます。
     
  http://www.jca.apc.org/nmnankin/news8-3.html

     
津田さんが言うように当時は私たちは南京で日本軍があれほどの残虐行
     
為をはたらいたとは少しも知らなかった。
     
日本軍は皇軍で中国人民を解放するために血を流してたたかっていると
     
のみ信じていた。
     
南京大虐殺が問題になったのは戦争裁判のときがはじめてで、その後も
     
あまり話題にならなかった。
     
平和運動家も原爆や空襲、国民の犠牲にのみもっぱら眼を向けて、加害
     
の問題は重視されなかったのだ。
     
その後、次第に加害責任が自覚されるようになったが、今度は積極的に
     
これを否定する論調が出て、南京虐殺なんかなかったのだという主張さ
     
え若い世代にひろがっているようだ。
     
戦争責任、特に加害責任については、あらためて論ずる機会を持ちたい
     
が、ここでは深く立ち入ることはしない。
     
ただ、犠牲者の数や規模、その程度等については議論があるにしても、
     
南京陥落の前後に多数の中国人が虐殺されたことだけはたしかだとおも
     
う。

     
参考のためにインターネットで南京の虐殺について検索していると火野
     
葦平の手紙が見つかったので、紹介したい。

     
火野葦平の手紙昭和十二年十二月十五日、南京にて
      http://www.geocities.jp/yu77799/hinotegami1.html
     
(「国文学」2000年11月号 花田俊典「新資料 火野葦平の手
     
紙」より)

     
激戦の様子が書かれてる。
     
ようやくのことで一つのトーチカを攻め落とし、内部にいた支那兵を捕
     
虜にした。
     
以下、虐殺の様子を引用する。

     
<つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのた
     
めに戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、とか何とか云ひなが
     
ら、蹴つたり、ぶつたりする、誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、
     
八人ほど見る間についた。支那兵は非常にあきらめのよいのには、おど
     
ろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。つか
     
れても、何にも叫び声も立てずにたほれます。中隊長が来てくれといふ
     
ので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみ
     
ると、既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこ
     
んでゐました。山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。
     
散兵濠の水はまつ赤になつて、ずつと向ふまで、つづいてゐました。僕
     
が、濠の横に行くと、一人の年とつた支那兵が、死にきれずに居ました
     
が、僕を見て、打つてくれと、眼で胸をさしましたので、僕は、一発、
     
胸を打つと、まもなく死にました。すると、もう一人、ひきつりながら、
     
赤い水の上に半身を出して動いてゐるのが居るので、一発、背中から打
     
つと、それも、水の中に埋まつて死にました。泣きわめいてゐた少年兵
     
もたほれてゐます。壕の横に、支那兵の所持品が、すててありましたが、
     
日記帳などを見ると、故郷のことや、父母のこと、きようだいのこと、
     
妻のことなど書いてあり、写真などもありました。戦争は悲惨だと、つ
     
くづく、思ひました。>

     
全文感動的な文章だが、以下にところどころ原文を紹介する。

     
<内地では、南京陥落で、さぞかし、旗行列、提灯行列などで、賑はつ
     
たことと思ひます。今度の南京総攻撃まで、皇軍の損害も莫大なもので
     
せう。我々の通つた(ママ)来た道でも、敵前上陸(五日)、それから、
     
亭林鎮、金山、嘉善、嘉興、湖州(呉興)、長興、広徳、宜城、蕪湖、
     
大平、ことごとく、相当の激戦が展開され、相当の死傷者を出しました。
     
清水隊(第七中隊) も、四十人近く減り、僕の分隊も、出発の時は、
     
十四名だつたのが、南京に来たのは九名です。死んだのはありません。
     
一人、戦傷で、あとの四名は行軍に落伍しました。>

     
<上陸以来、馬でさへ、数百頭たほれました。役に立たなくなると軍馬
     
はすてられる、その屍骸が道ばたにいくらもたほれてゐる。動けなくな
     
つた馬が、たほれたまま、じつと部隊の通つて行くのを見送つてゐる、
     
みぞの中に半分うづまつたまま、じつとこつちを見てゐる馬もある、み
     
んな、死んでしまふのですが、実に哀れに堪えません。馬でさへ、一日
     
八里平均の連日行軍にはやりきれんでせう。兵隊は足もからだもめちや
     
めちやにして、たほれんばかりです。我々の部隊(十八師団)は十七日
     
入城式終了後、直ちに出発、広徳を経て、杭州へ攻略の進軍を初めるこ
     
とになつて居ります。もとより歩いて行くのです。うんざりします。>

     
<南京は相当の大激戦だつたやうです。城外には支那兵の屍骸が山をな
     
してゐます。市街戦も相当やつたらしく、大通りに、土嚢をつみ、機関
     
銃の淹(ママ)濠がいくつもつくつてあります。支那の首都も今は廃墟
     
です。これから、少し、市内でも見学してみようかと思つて居ります。
     


     
<南京は大都会であるのに、食べ物のないのには閉口です。上陸以来急
     
進軍のため、大行李が間に会(ママ)はず、一回も軍から食糧の給与を
     
受けません。皆、土地土地で、色んなものを徴発しては、食べて来たの
     
です。三日位食はんこともありました。ところが、田舎では、豚とか、
     
にはとりとかが居つて、思はぬ御馳走にありつくこともありますが、都
     
会ではかへつて困ります。昨日は南京に入つて、何にもなく、ツケモノ
     
だけで飯を食ひました。今日も何にもおかずがない状態です。今日あた
     
りは大行李が到着して、官給品がわたるといふことですが、あてになり
     
ません。>

     
<支那土民は妙な日本の旗をつくつて歓迎してゐます。土民を徴発して、
     
使役につかふのですが、支那苦力ばかりで、それこそ一個師団も居つた
     
でせうか、支那人はなかなか面白いです。兵隊も弱い兵隊は支那人に背
     
嚢をかつがせたり、食糧品をはこばせる、何十里も、つれて歩く、また、
     
ついて来るのです。支那兵がやられてもなんとも思つてゐない、日本軍
     
の機嫌をとる。下泗安から七八十里も僕たちも可愛いい支那少年を二人
     
食糧品をかつがせて大平までつれて来ましたが、命令でクリーを全部す
     
てよといふことになり、別れましたが、別れをおしんで、涙ぐんでゐま
     
した。>

     
十二月十五日の日付がある手紙である。
     
火野は19379月に召集されて、杭州湾に敵前上陸し、戦闘をつづけて
     
南京まで行軍したのだ。当時はすべて徒歩だった。しかも食糧の供給が
     
ないので、すべて現地調達したという。
     
金もなく、言葉もわからず、武器だけを持っている兵士が食糧を現地調
     
達したのである。それが徴発=強盗以外ではあり得なかったことは明ら
     
かだ。
     
抵抗すればどうなるか。

     
火野は「土と兵隊」に杭州湾敵前上陸から、南京に向って進撃した経験
     
を書いている。
     
また、従軍作家として中国の戦場に派遣された石川達三は「生きている
     
兵隊」に南京虐殺を経験した兵士たちのことを書いている。
     
「土と兵隊」は削除され、「生きている兵隊」は発禁になった。

     
これらの作品については「平和新聞」に短い紹介をかいたので参照して
     
いただければ幸いである。

     
「文学にみる戦争と平和」
     
第二一回 火野葦平 「土と兵隊」
      http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/sh21.htm

     
第二二回 石川達三 「生きている兵隊」
      http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/sh22.htm

     
なお戦後の作品だが、堀田善衛の「時間」は南京陥落後も南京にとどま
     
った中国のインテリゲンチャの記録という形で、この残酷な時代を中国
     
人の側から照射している。
     
主人公は妻や義妹が強姦され行方不明になるという悲惨な情況を生きて、
     
南京の情況を武漢に無電で送信しつづける。

     
この作品は中国人虐殺の様子が克明に記されているが、南京陥落の前か
     
ら政府も軍隊も脱出して、中国軍による組織的抵抗はまったくなかった
     
と記していることは、今度の戦争でバグダードが陥落したときのことを
     
思わせて興味深かった。

     
アメリカは、バグダード陥落で戦争は終結したと思い、ブッシュ大統領
     
は航空機で空母に降り立ち、勝利宣言をしたが、実はそれからが本当の
     
戦争だった。

     
日本も首都南京が陥落したので戦争は勝ったと思い、旗行列や提灯行列
     
などして大いに祝賀したのであったろうが、実は、これからが本当の戦
     
争だったのだ。

     
火野葦平も「時間」の主人公もそのような運命をいきるとは夢にも思わ
     
なかったろう。
     
夢にも思わぬことが連続しておこるのが戦争だ。そして人間の生涯だ。
     
戦争は人間の生涯を圧縮して経験させるのだ。

      12
月になって寒い日がつづく。
     
からだに気をつけてお過ごしください。

     
新掲示板1漱石の広場で「明暗」についてやりとりが行われている。
     
中国についての旅行記は今回も書けなかった。
     
次号に譲りたい。

     
 伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu

 
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